「いいか?ぼんやりしているとお前はあの男に傾城を奪われてしまうよ」
は昆侖の睫の一本、一本が数えられる距離まで顔を近づけると警告した。
「ちょっとこれをやって傾城を景気づけておやり」
そうはいたずらっぽく言うと、ふわっと床から浮き上がり素早く昆侖の浅黒い頬を
掴んで唇に音を立てて勢いよく口付けした。
「な、何をなさるのですか!?」
予期せぬ女主人の大胆な行動に護衛の男は戸惑い、しばらくたってからはっと
我に帰って彼女の腰に無意識のうちに回していた手を開放し、突き放した。
「そんなに驚くことはないわ。愛する者同士皆やることよ」
は驚愕して、漆黒の目をまんまるに見開いている彼に向かって
得意げにカラカラと喉を仰け反らせて笑った。
「じゃ、お休み。なかなか良かったでしょう?」
「様、もういいから早く寝てください!!」
杜若の屏風の向こうから、黒絹の扇を口元に押し当ててまだ笑っている女主人に
向かって護衛は真っ赤になって怒った。
「やはり思ったとおりだ・・今まで誰とも口付けなんてしたことがなかったのか」
柔らかな薄紅色の羽根布団に包まりながらは、形のいい桜色の唇を指でなぞりため息をついた。
「ああ・・愛しい公爵様。早く逢いたい・・。」
先ほどの昆侖との口付けを反芻しながら、彼女はあれがもし、公爵ならばとうっとりするのだった。
翌朝、空はからりと晴れ上がり、森の鳥達は楽しそうにさえずっていた。
の姿は屏風の向こうにすでになかった。
彼女はたった一人のお供に置手紙を残し、将軍の別荘を去ったのだった。
「黙って行かせてやれ・・女は愛する男のもとで幸せになるのが本望なのだ。わしには止められんよ」
「ですが・・公爵は恐ろしい男です。このままでは様が殺されます!!」
「あの娘はわしのみたところ、なかなか頭が切れる。奴に簡単に殺されはせんだろう」
「それより、奴こそあの娘に骨抜きにされるのがおちだぞ。なかなか魅力的な娘だからな」
の置手紙を見つけた昆侖は半狂乱になって、縁側で朝の支度をしていた将軍に「あなた様の命を救った女主人が殺される!」と訴えていた。
だが、彼はちょっと驚いただけで、逆に昆侖をいさめた。
「案ずるな。あの娘ならあいつと仲良くやれる」
「長年、あの策士と付き合ってきたわしが言うんだ。信じろ」
将軍はそう安心させるように言うと、昆侖の頭をポンポンと叩いて部屋の中へ戻った。
「よく戻ってきたな。だが、何故だ?」
何百里も汗血馬を飛ばし、王城へたどり着いたは待ち構えていた
兵士らに捕らえられ、後ろ手に縛られて公爵の私室へと連れてこられていた。
「あのままどこかに隠れていれば、命が助かったものを」
彼はひややかな声で言った。
「あの刺客は今も逃亡中だ・・戻り次第始末をつける」
そういうと公爵は目にも留まらぬ速さでの首に湾曲した剣の切っ先を突きつけた。
「それであなたの気が済むというなら、私をお切り下さいませ」
の額に冷や汗が流れたが、彼女は氷のような声で決然と公爵を迎え撃った。
「お前は命が惜しくないのか?」
公爵の声の調子がわずかに変わった。
「こんな下界に堕ちた卑しい者の命など惜しくはありません。どうぞお切り下さい」
「あなたに切られるのなら本望です」
は静かに頭を垂れ、腕を組み合わせ祈るような格好でじっと最後の時を待った。
「そうか・・ならば遠慮なく切ってやろう」
公爵の目が血走り、剣が大きく振られた。
はぎゅっと目を瞑った。
だが、次の瞬間、目を開けるとそこは果てしなく続く闇の世界ではなく、
黒のケープから突き出した片腕からポタポタと鮮血を垂らしている自分の姿だった。
「切れぬ・・どうしても私には出来ない・・なぜだ!?」
剣を取り落とした彼はすざまじい葛藤にさいなまれていた。
「私が憎いのでしょう!?刺客と逃げた私が憎くてたまらないのでしょう!!ですから・・この命を差し上げると言っているじゃありませんか!」
「出来ない、私にはお前を切ることなど出来ない!!」
の激しい詰問に、公爵はたまらなくなって彼女の体を抱きしめた。
「出来ない!なぜ・・私を慕う者を切れるというのだ?」
彼は後悔の念にむせび泣き、彼女をかき抱いて叫び続けた。
「痛むか?」
「もう平気です。あなたが手当てしてくれたから」
「私は(お前を切ってしまったことで)心が痛む」
ペルシャから取り寄せたという磁器製バスタブの薬湯の中にゆったりと浸かりながら
は公爵に傷の手当てをしてもらっていた。
「傷は深くないようだ・・じきに直る」
彼はバスタブから突き出した彼女の細く華奢な腕に包帯を巻いてやりながら、
これ以上ない優しい声で言った。
「もうどこにも行くな・・また私に内緒で抜け出すとその時は命がないと思え」
「こんな優しい人の側を離れるなんて勿体ないことを私が再びすると思います?」
「人など皆信用出来ない。そうだ。その証拠にお前の手足に枷をはめておこうか?」
彼はそこで雄猫のように歯をむき出して笑った。
「嫌です。自由を奪われるのは」
彼女はくすくす笑って、自分の側に跪いた格好で包帯を巻いている
公爵にお湯をぶっかけた。
「おい、そんなことをするんだったら、本当に枷をつけて動けなくしてやるぞ」
「そうは行きませんよ。ほらっ!」
彼女は魅惑的な笑みを浮かべると、薬湯を手ですくって次々と公爵の頭にぶっかけた。
「くそっ、あの娘のせいで全身が濡れてしまった」
「め、ほんとうに枷をつけて鎖でつないでやろうか?」
さんざんぱらに弄ばれ、全身ずぶぬれの状態で私室に戻った公爵は
濡れた衣類をしぼって、暖炉脇に並べて乾かしていた。
「無歓様、その格好は?いったい何をなされてたんですか?」
ちょうど間が悪く武官が報告書を手に急ぎ足で部屋に駆け込んできたところだった。
「うるさい!それより、与力をここに呼べ」
公爵は真っ赤になって、裸の上半身をこちらに向けると怒鳴り散らした。
「はい!」
武官は最敬礼をすると、くるりと回れ右をして部屋を出て行った。
だが、口元は可笑しそうにゆがんでいた。
「公爵様が年下の娘に遊ばれるなど」可笑しくてしょうがなかったのだ。
「わかった。すぐに行く。何だお前、何を笑ってるんだ?私の顔に何かついているのか?」
「いえいえ・・ただ、無歓様が年下の娘に弄ばれるのが可笑しくて・・ありゃめったにみられやしませんよ」
「貴殿もご覧になれば分かるでしょう」
伝令を受けた与力は公爵の部屋にずかずかと向かっていた。
いつも無歓に邪険に扱われている武官は笑いがとまらないらしい。
この時ばかりは大声で腹を抱えて笑っていた。
扉を開けると公爵とその年下の娘が談笑しているのが目に入った。
ボルドー色の絹の宮廷衣装を優雅に着こなした彼女の姿は、ここのところ女に飢えていた彼の目には新鮮に映った。
「お前は席を外してくれ」
公爵は白絹の扇子を彼女の耳に近づけてささやく様に言った。
与力が宮廷式に一礼して道を開けた。
だが、彼女は「この裏切り者」と彼の耳元で囁いて冷たく通り過ぎた。
数分後、彼女の部屋にノックして入ってきた与力は軽蔑の目つきで
彼を睨みつけていると向き合っていた。
「光明大将軍はどこにいる?お前は知ってるだろう?刺客や昆侖と逃げたからな。昆侖は将軍の元部下だ。」
「それを聞いてどうするつもり?」
「彼に会って私の非礼を詫びたい」
「裏切り者の言うことなど私が信用すると思うか?」
「えらくお高くとまってるんだな。お前は楽浪郡の出身らしいが、あそこは我が国の属国だぞ。
身分をわきまえるんだな。嬢さんよ。」
彼は次の瞬間、冷たい黒長石の壁に彼女を押し付けると無理やり唇を重ねた。
「こいつ!放せ!」
は怒りに任せて腕を振り回して後ろに引き、彼の頬を思いっきり引っぱたいた。
「安心しろ。それ以上のことは何もしない。
俺は公爵に仕えている。その彼のお気に入りを手篭めにしたら
大変なことになるからな・・なぁ、お前?」
赤くはれた頬をさすりながら、それでも彼は愛しそうに漆黒の髪を撫で回すので、彼女は隠し持っていた
懐剣を取り出し、彼の喉に突きつけた。
「いいか?私にもう一度そのけがわらしい手で触れてみよ!この喉を掻っ切ってやる!」
彼女の目には、大将軍を殺そうとした男への憎悪の色が宿っていた。
その迫力にさすがの彼も一瞬怯んだ。
「わかった・・落ち着け・・」
「出て行け!」
彼女は懐剣と近くのベッドに常備してあった長剣をつかむと、彼に詰め寄った。
彼はその気迫に負け、しぶしぶながら部屋をあとにした。
彼が巻貝の模様をほどこした真っ白なドアを閉めて出て行ってしまうと、
彼女は「怖かった」と唇を震わせ、ベッドに倒れこんでさめざめと泣いた。