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夢の名残
その日、戦の準備に忙しい王宮とは裏腹に、後宮の庭にはさわやかな風が吹いていた。
輝く日差しの中、突如白鳥が高く鳴くと、飛べないはずの翼を広げて大空へと舞い上がる。
驚いた侍女達が空を見上げ、視線を戻した先に彼女が居た。
此処には居ないはずの王妃を。
驚きに言葉も無い彼女達に笑いかけた王妃は、
「メンフィスは何処?」
柔らかな声で問いかける。
「ファラオは・・・表宮殿にて戦の準備を・・・」
言いかけた侍女に有り難うと声を掛け、回廊の柱の影へと消えた。
我に返った侍女達が王妃の後を追いかけたが、もはや何処にも彼女の姿は無かった。
そして回廊の床に只一枚、王妃が纏っていた肩絹が翼のように落ちていた。
協議の間に居たファラオや臣下の元に、侍女たちが転げるように走ってきて取次ぎを願う。
王妃様が現れたと。
証拠の肩絹はファラオの元へ届けられ、間違いなく王妃のものと認められる。
だが本人は何処へ?
席を蹴って立ち上がり、王妃が現れたはずの回廊に急いだファラオと宰相、将軍が見たものは
明るい日差しの中にたたずむ愛しい娘だった。
一瞬棒立ちになったファラオが駆け寄り、力いっぱい抱きしめると、
王妃は恥ずかしそうに笑って
「ごめんね?」
と言った。
そして次の瞬間、日差しに溶けるようにその姿を消した。
ファラオの手の中に残ったのは、あの白鳥の白い羽根だけだった。
立ちすくむファラオの元に伝令が届く。
ヒッタイトより知らせが来たと。
王妃をお返ししたいと。
後で聞いた。王妃はあくまでもヒッタイト皇子妃になることを拒み、婚儀の新床で自ら命を絶ったと。
妖しの術に捕らわれていながらファラオの名を呼んで王子に抵抗し、剣で自らの胸を貫いたと。
亡骸は冷えた神殿の一室で、夢見るように横たわっていた。
幸せそうに、微笑さえ浮かべて。
初めて出逢った時から恐怖に慄き、側室に迎えてからも只怯え泣くだけだった少女。
王妃に冊立し、女性として最高の栄誉を与えてやったはずなのに只虚ろな瞳を向けるだけだった、それでもどうしようもなく愛しい女。
そして自分の助けを待つことなく、たった一人でイアルの野に向かって旅立っていった。
ヒッタイト皇子は言った。
「私は結局、そなたに何も抜きん出ることは出来なかった。国を統べる事も、戦でそなたに勝つことも、
そして姫の心を奪うことも。」
ファラオは黙っている。
どうでもよかった。キャロルの居ないこの世に、もう何の意味も無かった。
あるのは愛しい娘を追いかけていこうとする意思だけ。最後に見たあの恥ずかしそうな微笑を、手に入れるまで追って行こうと。
エジプトの新王は将軍が継ぎ、新しい王朝を開いた。
ヒッタイトは急速にその国力を無くし、やがて自ら国を捨てて、日の昇る方角目指して移動していったという。
END
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