杯



「ファラオは夜毎、黄金の小鳥の歌を聴きながら杯を傾けるのが習いだそうな。」
「黄金の小鳥は滅多に歌わないが、それはそれは美しい声と姿をしているそうな。」
テーベの街に流れる噂は止まるところを知らない。
しかし実際の姿を見ることが出来たら、そんな噂は雲散霧消するだろう。
次の噂はおそらくこうだ。
「あれは小鳥ではなくて、まだ飼い慣らされていない子猫だ。」と。





「も〜〜〜〜!メンフィスッ、いい加減にして頂戴!私の風邪は治ったわ。元の部屋へ戻るから其処をどいて!」
「まだだ。肝心の言葉を聞いておらぬ。それを聞かぬ限り此処を出ることは許さん。」
「許さんって、貴方が勝手に連れて来たんじゃない。それに最近侍女達が冷たいの。このままじゃ私、仕事に戻れなくなってしまうわ。」
「構わぬ。そのほうが良いし、どうせ下らぬ嫉妬だ。有象無象の言うことなど放っておけ。」
ファラオは葡萄酒の注がれた杯を片手ににやりと笑って言う。
エジプト選りすぐりの美女達を有象無象と言い捨てた。
何よりも今、ファラオはキャロルを傍に座らせて寝台に寝そべり、
とんでもないことにその身体でキャロルの肩絹を踏ん付けているのだ。
葡萄酒の壷を運んできた侍女が、驚き呆れながら下って行った。
キャロルはにぎやかに抗議の声を上げながら、ファラオの身体の下になった肩絹を引っ張っている。
「そんなに引っ張ると破れるぞ。それより一言言えば良いのだ。」
「だ・・・・・誰が・・・・・っ」
うんうん言いながらまだ引っ張っている。





だが次の瞬間、彼女は勢い余って仰向けにひっくり返った。
ファラオがほんの僅かに身体を浮かせたのだ。
「きゃあっ!」
「動くな。」
低く抑えられた鋭い言葉。
今までとは打って変わった鋭い眼光に、キャロルがびくりと身をすくめる。
左手で鞘ごと剣を掴むのと、男達が部屋に乱入して来るのとが同時だった。
ファラオは空いた右手で少女の身体を寝台の天板に押し付け、返すその手で剣を抜いて男達と対峙する。
「刺客か。何処の国の者だ?」
「・・・・・・・・・・」
「答えぬか。ならば答えてもらうまで。」
次の瞬間、黄金造りの鞘が空中を飛び、一人の男の頭を直撃した。
バランスを崩して転倒し、頭を打って動かなくなる。
戸惑う隙を与えずに、ファラオは切り掛って行く。だが決してむやみに寝台からは離れない。
大の男三人を相手に、悠々と、むしろ楽しげに戦っている。
「そらそら、答えぬか。答えぬのならその指、一本ずつ落としてやろう。」
圧倒的な力量の差。
その間に残りの一人がキャロルに近付いて来た。ファラオに切り掛れないので側女を先にと思ったのだろうか。
剣をちらつかせれば怯えるだろうと思ったのか隙だらけだ。
次の瞬間。
絶叫が男の口から上がった。
キャロルが杯の葡萄酒を男に浴びせたのだ。
強いアルコールで目を焼かれ、男が絶叫を上げながら床を転げ回る。
ファラオを相手に戦っていた男がもう一人、こちらに向かってきた。
だが杯を叩きつけられ、鼻血を流して戦意を失った。
ファラオはその間に一人の腹に膝蹴りを喰らわせ、もう一人に剣の峰打ちを与えて昏倒させた。





「その様子では大丈夫なようだな。」
将軍と近衛隊長が兵士を連れて駆けつけ、男達を引き連れて下がった後。
衝撃と興奮に息を弾ませ、青い瞳を輝かせている娘にファラオは声を掛けた。
「驚いたぞ。只震えているだけかと思ったが、あのようなことをやってのけるとはな。」
落ち着かせるためにわざと軽く言ってみたが、青い瞳からぽろりと零れた涙に仰天した。
「・・・・・た・・・・・」
「なんだ?どうした?」
うろたえる声が我ながら間抜けだ。
「・・・怖かった・・・こ・・・怖かったの・・・・・夢中で・・・・・」
そのままひっくひっくとしゃくりあげ、泣き出してしまった。
こんな姿は他の者には見せられぬな。
慌てふためく頭の片隅で奇妙に冷静に考えながら、おずおずと手を伸ばし肩に触れると
あろうことかキャロルが飛びついてきた。
必死でしがみ付き、ぽろぽろ涙を零しながら震えている。
少し躊躇ってから胸に抱いてやり、幼子にするように髪を撫でてやる。
「よしよし、もう大丈夫だ。だから泣くな。」
それ以外に言葉が見つからない。我ながらやはり間抜けだ。
そう思いながら、初めて腕の中に飛び込んできた少女のぬくもりにうっとりする。
「そら、もう泣くな。あまり泣いては目が溶けるぞ。」
声を掛けるとキャロルが決まり悪そうに瞳を擦り、ぷっと膨れた。
その顔に手を掛けて上向かせ、やさしく口付けてやると少女の肩が緊張する。
更に深く重ねようとすると抵抗された。
「残念だが、今日は此処までだな。」
「ちょっ・・・・・!!残念って、今日は此処までって・・・・・!!」
「何を考えたのだ?」
「・・・!!・・・・・」
「さあ、今夜は疲れただろう、もう眠るぞ。」





怒りに顔を赤くする少女に大笑いで答えると、ファラオはいつものように少女の身体を抱いて横になり、
掛け布を引き上げて目を閉じた。





                                                                        END





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