香り
ファラオは毎朝黄金の小鳥を腕に抱いて目覚める。
添い寝をする振りをしながら少女が眠るまで共に瞳を閉ざし、逞しい胸で小さな身体を温めて夜を過ごし。
口では尊大に命じながらその顔に浮かんだ表情を見れば、王姉が嫉妬に狂うことは間違いないだろう。
そして今日も夜が来る・・・・・
キャロルは珍しく一人で回廊を歩いていた。
この時刻、就寝前の湯浴みをファラオの宮にあるファラオの湯殿でするのだが、
不都合があったとかで後宮の湯殿を使ったのだ。
勿論ナフテラがついて世話をし、後宮付きの侍女達が手伝ってくれたのだがいかんせん表情が冷たい。
それはそうだろう。
後宮は本来王妃が主体だ。それを素性の知れない奴隷娘に大きな顔で占領されては気分の良いものではない。
おまけにファラオの寵を受けている側室だなどと。
自然、身体を洗う手付きも香油を塗る手も夜着の着せつけも乱暴になる。
「身体を美しく保つため」とかで施されたマッサージに至っては
あまりの痛さに歯を食い縛る羽目になった。
それでほうほうの体で逃げ出して来たのだった。
ナフテラは指導の為に少し遅れた。
それで一人と言うわけだ。
与えられた部屋へ向かって歩いていると向こうからアイシスがやって来た。
毅然と頭を上げ、気高い女王の気品を纏って。
それは同じ女であるキャロルから見ても、惚れ惚れするほど美しい。
しきたりに則って道を譲り、通り過ぎるのを待っていると女王は目も呉れずに通り過ぎる。
はずだった。
だが、ちらりと投げられただけの一瞥が氷より冷たい。
その一瞥が何よりも雄弁に、アイシスのキャロルに対する感情を物語っていた。
アイシスはそのまま通り過ぎ、回廊の向こうへと消えた。
後には女王の纏う香油の残り香だけが漂っている。
なんとなくぐったりした気分で再び歩き出し、彼女は部屋へと向かった。
ファラオが来ていた。
「な・・・・・。未だ早いじゃないの。仕事は終わったの？」
「少し早く片付いたのでな。それより湯浴みをしておったのか？」
言われて自分の姿に気付く。慌てて隣の部屋に駆け込み、夜着の上からもう一枚衣類を着込む。
乙女の本能が警戒している。
だが、今夜のファラオはなんとなく心此処にあらずだ。いつもより無口になっている。
・・・・・どうしたのだろう。
「姉上が参った。」
「ええ、回廊で行き違ったわ。」
「そうか。」
そのまま寝台に上がり、寝そべって手招きする。
気付かない振りで香草茶を注ぎ、メンフィスに手渡した。
ファラオは起き上がると杯を受け取り、飲むでもなくくるくる回している。何か言い澱んでいるようだ。
その間にキャロルは自分の杯を作り、寝台に上がっていつもより少し離れて座った。
「今日より警護の者を増やす。」
「えっ？何かあったの？」
「いや、少し気になることがあるだけだ。気のせいで済めばそれで良い。」
「そう・・・・・分かったわ。」
答えると彼の眉が片方上がった。
「珍しいな。度々脱走しようとしていたお前がそう言うとは。」
「私を捕らえておくためだけなら、わざわざ本人に言わないでしょう。いつの間にか増えているはずよ。」
「なかなか聡い。安心した。」
そこで一口飲んで味を確かめる。
その様子を少女がじっと見ている。
「やっぱり何かあったのね。」
「・・・・・どうしてそう思う？」
「最近騒がしいもの。立て続けに侵入者が来るし、皆ぴりぴりしてるし。
今日の湯浴みだって、何時も使わせてもらっている貴方の湯殿でなにかあったからでしょう。」
「・・・・・そうだな、話しておくか。侵入者はどうやらお前を狙って来るらしい。
こちらの湯殿でお前の湯浴みの支度をしていた侍女が、殺されて見つかった。」
「何故分かるの？」
「私を標的にするにしては腕が悪すぎるし、以前捉えた賊も、泳がせると途中で手掛かりが切れた。」
口を封じられた。とは聞かなくても分かった。
「そんな・・・・・私なんか狙って何の益があるの？」
「分からぬか？お前の立場は『側室』なのだぞ。」
「じゃ、外国の暗殺者？」
「それだけではあるまい。騒乱の種は存外足元かも知れぬ。」
不意にアイシスの香りが甦る。
そしてちらりと投げられた、氷より冷たいあの視線。
ぞくりと肩を震わせ、自分の肩を抱いた少女を見てファラオが声を掛ける。
「寒いか？少し湯冷めしたか。」
安心しろと言うように大きな暖かい掌が肩を撫でる。
「・・・・・好い香りだ。何の香油を使っている？」
「知らないわ。ナフテラが用意してくれたの。」
膝に座らされ、小鳥の雛のように暖かい胸に抱かれ、
それでも震えが止まらなかった。
やはり私は此処に居てはいけない。帰らなければ。帰らなければいけないのだ。
ファラオは夜毎、黄金の小鳥を腕に抱いて眠る。
明日の朝も、黄金の小鳥を腕に抱いて目覚めるために。
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