Incubus ――呼ぶ声――
寝台が軋む音に意識が浮かび上がる。
まだ夢うつつのまま寝返りを打とうとした背が、何かに当たった。
衣擦れの音と共に、誰かの腕が自分の身体に回される。
・・・・・ル・・・・・
・・キャロル・・・・・
本当にお前なのか・・・・やっと捕まえた・・・・
闇の底から声が聞こえる。
誰か・・・居るの?
「私だ・・・・」
ぎょっとして飛び起きる。闇が人の形を取った。
「だっ、誰!?」
知っているはず.。共にナイルに落ちたとき、お前は私の名を呼んだ。
お前を探して何日も馬を走らせた。ナイルに捜索の手を出し、それでも諦められずに術者も使った。
お前が身に纏っていた物を全て、お前の痕跡全て集めて此処に置いた。 お前の形代に一番美しい睡蓮と、お前の黄金の髪を置いて祈った。
そしてお前は此処に現れた。もう二度と放さぬ。 後はお前を抱いてお前の名を呼び続けよう。
お前は私を呼ぶのだ。それで私達は一つになり、お前は必ず私の元に帰ってくる。
「呼ばないわ。だって私は貴方の名前なんて知らないわ。」
寝台を飛び降り、扉を開けて廊下へ転がり出す。
此処・・・・・何処!?
呆然と呟く。眼前に広がるのは、巨大な柱に掲げられた松明の列。
その明かりの元に見える大地は何処までも闇に沈んでおり、反対に見上げた空には、人工の明かりは一切無い。
よろよろ立ち上がった床はいつの間にか絨毯から大理石に変わっており、素足に冷たい感触を伝えてく る。
そして自分が素肌に纏っていたのはネグリジェではなく、肌も露わな古代エジプトの夜着だった。
立ち竦んだ腕を捕まえられ、抱き上げられた。 力強い足音が、自分をゆっくりと運んでゆく。
信じられない思いが頭の中を駆け回り、身を硬くしたキャロルの頬に、さらさらした髪が触れ、香油の香りが纏いつく。
・・・この香り・・・どこかで嗅いだことがある・・・?
ふっと身体が宙に浮く感覚、そして寝台に下ろされる。
「貴方誰?どうして此処に居るの?」
次の瞬間逞しい胸に囚われ、背筋をぞくりと震わせる様な甘美な声が落ちてきた。
「くくく・・・知らぬと申すか・・・?忘れたと?私の腕の中であれほどよがり狂い、 蜜を溢れ零して鳴いたお前が・・・・・」
それはまるで、無理に飲まされた麻薬がやっと身体から抜けたのに、再び注がれるときのような、
飲んだら二度と現実に帰って来られないと分かっているのに身体が渇望するような。
「知らないわ!消えて!これは夢よ!此処は私の部屋よ!」
「そうだ。此処はお前の部屋。そしてお前が私に抱かれて狂う所だ。思い出させてやろう・・・・
言っただろう?私はお前を捕まえた。二度と放しはせぬ。」
「いやっ!放して!」
「逃がさぬよ。やっとお前を見つけたのだ。今宵は久し振りにお前を抱ける・・・・・どんなに焦がれたか・・・・
どんなにお前を愛しいと思ったか・・・・お前を失って、幾夜虚しい夜を過ごしたか・・・・
今は睡蓮の花を形代に、夜だけ真のお前を抱く。朝になればこの術は消える。
だが私はお前を知っている。その瞳の色も、肌の味も、髪の香りも・・・そしてお前の名も。お前は私のものだ。」
「そんな!勝手に他人の部屋に入ってきて訳の分からないことを!」
「私が望んで、お前が来たのだ。真のお前を手に入れるために、どんなことでもしよう。そう決めたのだ。」
「・・・・・夢魔・・・・・・」
「そんなけちな者ではない。私は神だ。神に愛でられる心地を味わうが良い。」
逞しい腕は自分を抱いたまま、暫く何度も肩を、背をなでている。
髪を梳り、額に接吻する。羽が触れるように唇が滑ってゆく。瞼に、鼻先に、頬に。
「お前なのだな・・・・本当に・・・」
先刻の言葉とはまるで別人だ。この唇を、私は知っている・・・?
「愛している・・・キャロル・・・・」
その言葉にびくりと震える。同時に唇を塞がれた。
「んっ・んぅ・・・っ・んんっ・く・ぅんっ・・・はっ」
「お前を愛している・・・」
この声を、私は知っている・・・?
この男が纏う香りも、この声も、この腕も、この髪も。
間違いない、私は知っている。高校の倉庫で響いた声、切ないくらいに私を呼んだあの声。
「私の名を呼べ・・・・キャロル・・・」
辛うじて物の形がわかるほどの暗がりの中で、男がじっと自分を見つめている。
「・・・・・知らない・・・・」
霞む理性が警告する。尋ねてはいけない、呼んではいけない、知ってはいけない。
その名を口にしたら最後、鋼の腕に囚われて甘美な牢獄に閉じ込められ、快楽という名の鎖に繋がれる。
寝台が軋んだ音に悲鳴を上げる。男が自分の上に圧し掛かっている。
さらり・・・・・と衣擦れの音がする。
「お前の髪はこの上なく尊い色・・・・お前の瞳は豊穣のナイルの色・・・・お前の肌は・・・・・私を酔わせる極上の白い葡萄酒だ・・・・・」
「だれか、助けて、助け・・・・・」
「無駄よ。誰も来ぬ。此処は私が居る場所、誰の力も及ばぬ処。私とお前が共に居る所なのだから・・・・
さあ、思い切り鳴くが良い、久し振りに好い声で・・・お前の声が・・・聞きたい・・・・・」
深い口付けをされ、もがいた手に長くしなやかな指が絡まってきた。
外された唇が首筋を滑って胸の頂にたどり着き、そこを攻め始める。
焦らすようにゆっくり舐め、吸い上げ、甘く咬んで転がされる。
「こうされるのが・・・好きだったな・・・」
「あっ・いや・やめ・やめ・・・」
「私の名は?」
「ああ・あはあっ・しっ・知らない・しらないのっ」
「こちらも攻めてやろう・・・」
「あっ・あうっ・ううぅっふっ・あ・ほんと・にしらなっ・やめ・やあぁっ」
「メンフィス、だ。」
「・・・・・え・・・?」
「申せ・・・メンフィス・・・と。」
絡めた指をそのままに、もう片手を胸に沿わせ、ゆるゆると撫でながら男が囁く。
それは何処かで聞いた名前。恐ろしくて憎くて、でもそれだけではない名前。
「呼べ・・・・私をメンフィスと・・・・・そうすれば私達はもっと深く一つになれる・・・」
「だって・・・知らない・・・・」
「教えただろう・・・・呼ぶのだ。私を。さあ・・・・・」
「・・・・・」
「さあ・・・・・呼べ・・・・・」
「いや・・・・いや・・・・・」
「一度だけで良い・・・・今宵一度、明日の夜一度・・・・お前が一度呼べば、その分私達は近くなる・・・・深くなる・・・・・」
「いや・・・」
「では・・・・・忘我の中で呼ばせてやろう。」
絡めていた指を解き、腰を抱える。唇で頂を、開いた指でもう一方の頂を。
キャロルを知り尽くした指技が、舌技が、瑞々しい肢体を責める。
「あっ・いやあっ・いや・いや・そんな・そんな・いやよおっ」
熱い唇が肌を滑る。指が胸を撫で、頂を摘み上げ、掌が腰を触って太腿を撫で擦る。
「やだっ・やめて・やめて・あっ・しらない・いや・はなしてっ」
「キャロル・・・・・名を呼べ・・・・・」
熱い指が、掌が、何処を目指しているか理解してキャロルはもがいた。知らない。そんな感覚、私は知らない。
「止めてお願い知らないの・いやあっ」
腰が跳ねた。男の指が太腿の内側に滑り込み、自分の一番恥ずかしいところを触っている。
「知らぬはずは無い・・・・・音がするぞ・・・女の悦びの音が・・・」
「あ・あ・あ」
切れ切れに呻く。抵抗も逆らう声も消える。
男の手が、ゆっくり膝を開いて圧し掛かってくる。もう片手の指が休むことなく動いて、自分の水音を響かせている。
信じられない。気持ち好い。拒否ではなく快楽の呻き声が、押し殺した喉から零れる。
「あ・あは・はあぁ・んっ・んんっ・くっ・んくっ」
「溢れてきた・・・・此処はどうだ・・・・・?」
「あうっ・ああ・ああ・あああぁああ・・・っ」
男の指が内部に潜ってきた。水音はもっと大きくなり、溢れた蜜が敷布を濡らす。
あまりの快感に我を忘れ、敷布を掴んで腰をくねらせる。艶かしく。紛れもなく女の声を上げて。
何度も擦りあげられる。ぐじゅぐじゅに蕩けた泉が蜜を零し続け、自ら開いた白い足が、汗を纏って痙攣する。
「ああ・・・っ・・・!やめ・・・・・っ・やあっ・・・メンフィス・・・・・っ!」
叫び声と共に達した。
空白。そして虚脱。
私・・・・・今・・・・何を叫んだの・・・・・?
息を弾ませ、無駄と分かっていながら男の瞳を見上げる。もう良いはず。もう放してくれるはず。
遅かった。
灼熱の塊が、滑った泉に沈んでくる。
「あああああっ・やああっ・いやああああああっ!」
あまりの衝撃。涙が流れる。狂ってしまうほどに気持ち好いのだ。
「あうっ・なぁっ・ど・どうして・どおして・いやよお・いやよおぉ・・・・・っ!」
狂ったように叫び、のたうつ。最後の理性が木っ端微塵に消し飛んだ。
「間違いない・・・・お前だ・・・・私は今お前を抱いているのだ・・・・っ・・・ああ・・・キャロル・・・キャロル・・・」
男が腰を打ちつけながら呻く。寝台が軋む。
「あ・・・・・ああ・・・やめ・・・・・ 」
「名を呼べ・・・・私の名を呼べ・・・・・帰ってこい・・・・・」
「あ・・・・ああ・・・も・・・・・だめ・だめ・いやぁ・・・っ」
「メンフィスだ・・・・・キャロル・・・・呼べ・・・・私の名を呼べ・・・・・」
「いやあっ・ああっ・メッ・あっ・うっ・くっ・はあぁっ・やっ・やめっ・メンッ・・・ッ」
身体の奥深くまで貫かれ、擦られ、かき回される。規則正しく、時に激しく或いはゆっくりと。
首筋を吸い立て、乳房を揉み上げ、頂を摘み、転がされ、
我を忘れてしがみ付き、腰を振り、熱い杭を締め付け、涙を零し、意味を成さない声を上げる。
「やあぁ・・・っ・・・メン・・・・フィ・・・・・ス・・・」
最後の息と共にその名を叫び、そのまま褥に崩れ落ちた。
ひくひく痙攣し、意識を失ったその艶かしい肌。男が密やかに優しく呟く。
「そうだ。私の名はメンフィス。だ・・・・・もう二度と忘れることは許さぬ・・・いや、忘れさせぬ。」
汗に塗れ、未だほんのり紅色に染まった乳房に口付け、所有の刻印を残す。
「明日の夜も・・・抱く。」
香りが、気配が、ゆっくりと消えた。
悲鳴を上げて飛び起きた。つもりだった。 全身がら汗が滴り落ち、夜着はぐっしょり濡れている。 体が火照り、息が弾んでいた。
「なに・・・・・?今の・・・夢?」
夢だとしたらおぞましすぎた。 自分の体が、知らないはずの甘美な感覚を覚えている。体の芯が疼く。
薄いカーテンを通して見えるカイロの町の明かりは数を減らしたが、未だ宝石のようにその色をばら撒いている。
誰も居ない。 暫く身じろぎもしなかったキャロルは、恐る恐るサイドボードの明かりを灯す。
何かがかさりと音を立てた。
「・・・・・・・・・・!」
背筋が凍りついた。自分の直ぐ側に、覚えの無い睡蓮の花が一輪転がっている。
びっしょり濡れて花弁は無惨にちぎれ、ボロボロになって。
そして見る間に萎れ、色褪せ、乾いて塵となって消えた。
うそよ、誰も居るはず無いのに。 何故あんな夢を見たのだろう。知らない、見たことも無いはずの男の手が肌を嬲り、胸を弄び・・・・・
あんな声を上げた自分。あんな淫らな姿を晒した自分。喘ぎ、のたうち、足を開いてあの男が・・・・・
部屋の隅の暗がりに、未だあの男が居てこちらを見ているようで、布団から出るのが怖かった。
それでも、こんな気分を綺麗さっぱり洗い流したかった。
よろめく足を踏みしめ、シャワールームへ移る。
寝ているみんなに気遣いながら熱い湯を頭からかぶる。肌を打つ湯に少しづつ理性が戻ってくる。
シャンプーを取ろうと振り向いたその手が止まった。
大きな鏡に映る自分の裸身。くっきり映った自分の肢体は、いつの間にか少しずつ、大人の女へと近付いてゆく。
いつもは自分の肌を見るのが好きだった。
素敵な女性になるために、色々とやってみては母親に笑われた。
「キャロルもやっぱり女の子だったのね。土いじりだけにしか興味が無いと思っていたのに・・・・でもあんまり早くに大人にならないで欲しいわ。」
なのに。
「・・・う・・・そ・・・・・・」
白い肌のあちこちに花弁が、男の愛撫の痕が残っていた。
「嘘よ・・・・あれは・・・夢よ・・・・」
震える指を伸ばし、鏡に触れ、恐る恐る自分の肌を触る。
その時に、自分の太股をとろりと伝う生暖かい感覚。
項を、誰かの指がしなやかにくすぐったような気がした。
「明日の夜も・・・・・抱く。」
「私の名は・・・・・・・・だ。」
その言葉が耳に甦る。名前が思い出せない。思い出してはいけない。
恐ろしく、なのに身体全てを蕩かすような甘美な響き。
夢魔とは、あんな美しい悪魔のことを言うのか。
そしてあのように美しい夢魔になら、何もかも差し出したいと焦がれる自分に気付いている。
「呼ばないで・・・嫌よ・・・・・呼ばないで・・・・貴方なんか・・・知らないわ・・・・」
熱いシャワーが迸る下に蹲り、キャロルは声を殺して泣いた。
END
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photograph by Coco
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