封印
「キャロル・・・キャロル・・・」
「愛しい娘が腕の中で、安らかな寝息を立てている。
キャロルは、ヒッタイトの戦の最中に受けた肩の傷がようやく癒えてきつつある。
医師は大事を取って十分な栄養と休息とを、その後で適度な運動とを勧めた。
あの後・・・死の淵を脱し、もう大丈夫だと思われた頃から、回復の速度が極端に落ちた。
精神的に不安定になり、夜中に何度もうなされ、うわごとを言い、悲鳴を上げては飛び起きる。
眠りも浅く、昼夜を問わず青白い顔をしていた。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・許して・・・許して・・・」
死んだ兵士に対する慙愧の念か。あの皇子に身を裂かれたことに対する恐怖か。
それを聞いた夜から、ファラオはキャロルと共に眠る様になった。うなされる度に宥め、背を擦り、優しく慰めてやる。
鋭い鉤爪で少女の恐怖を蹴散らし、その力強い翼で彼女の眠りを護り、猛々しい嘴で彼女を襲う夢魔を喰らう。
恋しい隼の翼に抱かれて眠るようになって、黄金の小鳥は目覚しいほどに回復した。
ある日、キャロルが侍医の手当てを受けているところを偶然見てしまったファラオは、その白い肢体に
釘付けになった。
右の肩に未だ赤く盛り上がった大きな刺傷。皇子の短剣を受けて、よく無事で戻ってこれたものよと思う。
だが。
本来傷一つなかったはずの滑らかな白い背に、幾筋もの赤い蚯蚓腫れが這っている。
「・・・・・・・・・・」
ファラオは足を止めて暫くの間何かを考えた。それから侍従の手を介し、侍医に後で伺候するよう命じた。
「あの背中の傷・・・何時頃のものか?」
「しかとは分かりかねますが・・・恐らく連れ去られて直ぐだと。かなり痛めつけられております。
我らの腕を持ってしても傷を消すことは・・・あの勢いで打たれては、男でもたまらないでしょうに・・・」
「分かった。このこと他言は無用。」
侍医には、年若い娘に傷など・・・と思わせておいたが、一体何のためにあそこまで痛めつけられねばならなかったのか。
それはキャロルがうなされていた一因かも知れぬ。
キャロルが皇子の餌食になることを拒絶したから?そんなことなど、お前が無事に帰ってきたのだ。
取るに足りぬ。何よりお前が私を愛してくれていると分かったのだ。
ではいったいなにが・・・・・
「・・・・・ス・・・・・フィス・・・。メンフィス?」
はっと顔を上げると青い瞳がこちらを見ていた。
「どうしたの?難しい顔をして・・・何かお仕事が上手く行かないの?」
「いや。なんでもない。」
「なんでもないって顔じゃないわよ。ほら、眉間に皺!」
ぴっと指を当てられて苦笑した。
「この私にそんなことをして平然としているのはお前だけだな・・・私が難しい顔をしていると、皆逃げるぞ。」
「どうして?」
「さあ・・・恐ろしいのだろうよ。別に取って喰らうわけでもないのだがな。」
「仕事が上手く行かなかったり問題を抱えていたりすると、誰だって難しい顔をすると思うけど・・・
でもメンフィスって本当に美麗で迫力あるから凄みはあるかもね。」
「何だと?」
「ほら、皺、しわ!」
ぐいぐい押して笑っていたキャロルが不意に顔をしかめる。
「あいたた・・・」
「どうした?」
「あはは、調子に乗りすぎたみたい・・・」
左手で右肩を押さえている。
「・・・・・見せてみよ。」
「え。い、良いわよ。たいしたことじゃないし、その・・・・」
「恥ずかしいなどと言っている場合か。良いから向こうを向け。前は押さえて居れば良い。」
肩紐を解き、何重にも巻かれた包帯を丁寧に解いていく。傷を押さえていた布を外し、傷口を改める。
「ふん・・・大丈夫なようだな。出血もして居らぬ。」
傷の上を温かい指がゆっくりと触る。
「こうすると痛いか?」
「・・・いいえ。あの、もう良いから・・・包帯巻いて。」
「巻けぬ。」
「え?」
「どうやって巻いたら良いのか分からぬ。」
「ええ――っ!!出来ないのに解いちゃったの!?酷い!!」
くるっと振り向いたキャロルが抗議の声を上げて絶句する。
黒曜石の瞳が、心の中まで見通すように青い瞳を見つめている。
「背中の鞭の跡はどうした。」
「なんでもないわ。」
「何でもなくば鞭打たれることなどない。女が打たれるといえば罪を犯したか、男に抱かれることを拒んだときか・・・
なにかを白状させるときだ。」
「・・・・・・・・・・」
「ましてやあの頃、お前は私の側室として公の場に出ていたからな。・・・・・何を黙っている。」
「・・・・・・・・・・」
「あの男のものにはなっておらぬな。以前と現在とで、お前の私に対する態度は全く変わっておらぬ。
いや・・・甘くなった。もし抵抗むなしく蹂躙されたとしたら、それでもお前は自分を責めて、此処には居らぬだろうよ。
・・・お前はそんな女だ。」
「・・・・・・・・・・」
「そもそも今回の戦、向こうに理があるなら堂々と来れば良い。・・・ということはお前を攫って何かを聞き出そうと
したと考えるほうが一番筋が通る。お前に何を聞きだそうとしたのだ。お前は何を知っている。」
「・・・・・言えないわ。」
「私にでもか。」
「貴方にだから、言えないわ。」
こうなるとこの娘は頑として口を割らなくなる。貝より硬い。
「・・・・・頑固者。」
「頑固者で結構よ。それよりどうするのよこれ。自分じゃ巻けないわ。」
「・・・・・巻いてやるから話せ。」
「ずるい。・・・もう良いわ。自分でやるから。あっち向いていて。」
二人背中合わせに座りなおし、キャロルが包帯と格闘する気配を聞きながら考える。
やはり皇子は何かを聞き出うとした。
それはエジプトとヒッタイト両国に跨る戦争にまでなった原因。
つらつら考えてはっとする。そういえばミタムン皇女はどうした?皇子は『妹の恨み』と言っていたな・・・
帰国しておらぬと言うことか。挨拶も無しに出立したと聞いたが、誰も姿を見ておらぬ。
国を大きくしたいと、私は皇女の気を引いた。直後にあの神託だ。
そして皇女の様子がおかしくなり、姉上は不安げな顔をした・・・・・
「・・・・・・・・・・キャロル。」
「なに?」
薬を塗った布が、ぽとりと褥に落ちる音がする。
「巻いてやろう。」
「だから話さないって言ったでしょう?」
「話さずとも良い。・・・・・分かった。」
ゆっくり向き直り、傷だらけの背中に指を触れる。不器用に格闘して、それでも巻けない包帯を取り外す。
「くくく・・・ミイラ職人にはなれぬな。」
「ひどい!またからかって!」
向こうを向いたままのキャロルがむくれる。僅かに見える頬が赤いのは怒っているためか羞恥のためか。
「この傷・・・私のために受けてくれたのだな・・・」
幾つもの感謝と愛を込めて。鞭の跡一つ一つに消えない刻印を刻む。白い肌に紅の花びらが咲いてゆく。
一つ咲くたびに白い肌が薄紅に染まってゆく。かぐわしい香りが立ち上る。
「そうだ・・・。お前は何も知らぬ。何も知らぬのに連れ去られて責め苦を受けた。」
「なに?・・・どう言う・・・」
刺傷に。
熱い唇を押し当ててメンフィスが呟く。
「お前は何も知らぬ。何も見ておらぬ・・・・・ゆえに何も話せぬ。・・・そういうことだ。」
唇を離し、後から大きな胸に包み込む。
「後はエジプトとヒッタイトの国同士の問題だ。お前一人の手ではもうどうしようもない。」
腕の中の身体が震える。
「そうだな・・・それでもお前が話したいというなら、いつか・・・そう、だれもこんな戦があったことなど忘れて
穏やかに暮らせるようになった頃に、こっそり私にだけ話すが良い・・・」
「メンフィス・・・」
「それまで封じて置くが良い。お前が封じたこと、恐らく私には理解できたと思う。それで良い。」
「メンフィス・・・・」
「・・・・・どうした・・・・・?」
「・・・ありがとう・・・ごめんなさい・・・」
向こうを向いた肩が震えていた。
「さあ、包帯を巻いてやろう。」
気付かぬ振りで身を離す。キャロルが背筋を伸ばし、メンフィスの手が布を取り上げる。
「しかし・・・たかが包帯なのに、巻くというのはなかなか難しいものだな。」
「あっ・ちょっと痛いわ、もう少しゆるめに・・・」
「こうか?」
「それじゃゆるすぎよ。もうちょっと・・・」
ぽとん。
「あ、また落ちた。」
「おのれ・・・動くなよ、キャロル。」
「もう良いわ。お医者様にやってもらいましょう。」
「なんのこれしきのこと。侍医に出来ることが、この私に出来ぬわけがない。」
ぽとん。
延々繰り返してやっと巻き終わった。
「ふふふ・・・」
「なんだ?」
「ミイラ職人にはなれないわね。」
苦笑した。キャロルの肩には不恰好な包帯が巻きついている。
首筋に白い腕が回される。
「ありがとう・・・・・」
後は柔らかい沈黙が部屋を満たしてゆく。
ヒッタイト皇女のこと、再度調査せねばならぬ。これは私が招いたことだ。
そして姉上が絡んでいる。
そろそろこの国の暗部に、刃を入れねばならぬということか。
だが。
キャロル。お前だけはそのまま笑っておれ。何を見ても何を知っても。
お前は私の宝、掌中の珠。この王家という汚泥の中にあって、なお美しく咲く睡蓮なのだから。
END
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