獲物
大地を南北に貫き、悠々と流れる母なるナイル河
はるか昔から変わらぬ恩寵をもたらす河はこの地に、黄金と青の娘を使わした。
豊穣を約束する黄金の髪、深き潤いを与える青い瞳。
若きファラオは忽ち恋に落ち、この娘を王妃にと定めた。
「ファラオ。この後の予定でございますが、ヌンの領地を視察後帰宮して宜しゅうございますか?」
「特に何もないし、良いであろう・・・ヌンは?」
「は、本人は高齢でもあり、拝謁は叶わぬためと献上の品を届けて来ております。ファラオの御世に大いなる感謝を申し上げるとの事。」
「良かろう。後ほど使者を送ってこれまでの働きをねぎらってやれ。」
前方で騒ぎが起こったのはそのときだった。
兵士達が何か騒いでいる。
「何事だ?」
「は・・・暫くの猶予を。」
だがそう言った従者の足元をすり抜けて、白い塊が走って行った。
塊は瞬く間に隊列の中に紛れ込み、後方の潅木の茂みに飛び込む。
兵士が走って来た。領主ヌンからの献上品の中に生きたマウが含まれていたのだが、油断した隙に逃げられたのだという。
どうやら先刻の白い塊がそれらしい。
ヌンが、拝謁できない侘びとファラオとナイルの娘への挨拶を兼ねてわざわざ東方より手に入れた珍しい長毛のマウだ。
「・・・・・良かろう捕らえよ。ああ、兵士達に茂みを取り囲ませ、こちらへ向かって追い立てさせよ。生け捕りにしてやろう。」
ファラオがチャリオットから弓矢を外し、構えて合図をする。
兵士達が声を上げ、地を叩いて一斉に獲物を追い出した。
白い猫はファラオの眼前に飛び出し、そのふさふさした尻尾を地に縫い止められてあっさりと御用となった。
だが、ファラオ直々に捕らえられるのをこの獣が喜ぶはずもない。
小さな牙を剥き、威嚇と共に伸ばしたファラオの腕に爪を立てる。
「こやつ!無礼な!!」
「・・・・・良い。たかか猫だ。皮袋にでも放り込んで置け。帰宮する。」
兵士達が驚いている。いつもならその場で引き裂かれ、献上した者も咎を受けるのに。
だが、どうやらファラオはそれより、愛しい娘に渡す土産が出来たことと、その白い手で、受けた傷を介抱してもらうほうが問題らしい。
兵士達の驚きが手に取るように分かるだけにメンフィスは内心苦笑した。
我ながら・・・・恋する者とはかように変わるものか。
だがそれも良かろう。あの青い瞳がこれを受け取ったときに驚き、そして満面の笑顔を自分に向けることを想像するだけで
このような痛みなど雲散霧消すると言うものだ。
帰宮するまで、ファラオは腕の傷を誰にも触らせず、それどころかすこぶる上機嫌だった。
王宮の表がざわめく。侍女が奥宮殿へとファラオの帰着を伝えて行く。
黄金のチャリオットが止まり、従者が手綱を受けて馬を宥めている。
地上に降り立った青年王は黄金の冠をラーの光に輝かせながら、愛しい少女の姿を追い求める。
侍女からファラオの帰りを聞いた少女は、ベールを被りもせずに、輝く日差しの中へ飛び出してきた。
「お帰りなさい!メンフィス!」
黄金の髪を煌かせながら、喜びを隠すことなく青年王の胸に飛び込んでくる。その様子がたまらなく愛しい。
だが白い顎に指をかけ、仰向かせて顔を近づけるとあわてて逸らそうとする。
「・・・・・嫌か?」
「あの・あの・み・みんなが・・・みんなが見てるから・・・」
多少の落胆を込めて溜息を落とし、白く丸い額に口付けた。
気を取り直して従者に合図をし、皮袋を持ってこさせる。これを見たら絶対に嫌とは言うまい。
「キャロル。お前に土産だ。」
「お土産?嬉しいわ。なあに?」
「マウだ。視察に出た先の領主が東方より手に入れたと申しておった。珍しいものらしい。」
だが、合図で袋の口が開かれた途端に土産は王宮へ飛び込み、その場にいた者は皆あっけに取られたまま動くことも出来なかった。
それから暫しの刻、王宮のあちこちで物の壊れる音やひっくり返る音がしていたが、結局白い土産は出てこなかった。
ファラオの機嫌が悪い。こうなったらナイルの娘にお願いするしか・・・・
兵士や臣下、侍女達の視線がありありと訴えて来る。
「メンフィス・・・・・怒ってる?」
「別に。」
「ご機嫌斜めね。私はがっかりなんかしていないから機嫌を直して頂戴。」
「別に怒ってなど居らぬ・・・・・あやつめ・・・」
舌の根も乾かぬうちに、白い獣に向かって悪態を吐いてしまう。キャロルの笑顔を見られると思ったのに、計画があっさりと壊れたのだ。
この怨み、如何にしてやろうか。
「それよりこの傷・・・聞いたけどあの猫を捕まえようとして引っ掻かれたんですって?手当てをしなきゃ。」
メンフィスの顔がぱっと輝く。周りの者が仰天する。
見たこともない笑顔、満開状態というのはこのことだろう。薬箱を取ってこようとしたキャロルが皆の顔に驚き、振り返って首をかしげる。
「どうしたの?」
「なんでもない。薬箱など侍女に取りにやらせろ。猫は侍従にでも命じて探させる。だから・・・・・」
後は片手を振って周りの者を追い出し、長椅子にふんぞり返ってこっちへ来いとキャロルに命じる。
「どんな猫だったの?」
「白くて毛が長かった。」
「・・・・・それだけ?瞳の色は?」
「分からぬ。」
「大きさは?」
「分からぬ。」
「子猫?」
「分からぬ。」
「分からぬばっかり。もう・・・・」
「仕方無かろう。走り回るのを捕らえて皮袋へ放りこむだけで皆精一杯だったのだ。私も腕を引っ掻かれたし、あやつはかなりすばしっこい。」
「あ・・・・そうなの・・・皆にも迷惑掛けたのね。御免なさい。」
「何故お前が謝る?」
「だって私にって皆一生懸命になってくれたのでしょう?返って迷惑掛けたんだし・・・」
「そう思うなら・・・礼が欲しいな。」
「お礼?」
「そうだ。」
「分かったわ。後で皆にお礼を言うわ。上げられるものが無いし・・・」
「・・・・・お前のその言葉だけで皆は喜ぶだろうがな・・・。だが今言っているのは私に・だ。」
「貴方に?」
「そうだ。」
「え・・・と・・・何が良いの?私なんにも持ってないわよ?」
長くしなやかな褐色の指が、薔薇色の唇に触れる。
「これが欲しい。」
薬箱と盥を抱えたまま、侍女達は扉の陰から出るに出られない。
ファラオとナイルの娘が熱い抱擁の真っ最中なのだ。
お互いにお互いを見つめあい、睦まじく何か囁いて二人の距離がどんどん近くなっていく。此処で声を掛けたら間違いなくお手打ちものだ。
街中の恋人同士の逢引場面なら解放的なこの国のこと、ありふれた風景だ。
だがこの一組は素晴らしく美麗だ。精悍なファラオとたおやかな女神の娘。見ているだけでうっとりしてしまう。
どうしよう。もうちょっと。もうちょっと。もうちょっと機会をうかがってから・・・・・
その足元目掛けて何か白い塊が走り抜けていく。
「あっ!ちょっと!駄目よお前・・・・・!!」
止める暇も有らばこそ。土産はファラオとナイルの娘の前へ飛び出す。
覗き見ではない(断じて)。どうやって声を掛けようかと悩んでいたその足元をすり抜け、不意を突かれた侍女が悲鳴を上げる。
「きゃあっ!!」
「ああっ!!」
・・・・・大きな音がした。
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
ファラオ、ナイルの娘、侍女二人。沈黙がその場を支配する。
扉の影の侍女の気配には気付いていたが、さすがに猫の気配にまでは気が回らなかった。
ファラオとナイルの娘の眼に映ったのは、薬箱と水の入っていた盥をを放り出して大理石の床に前のめりで倒れている二人の侍女。
騒ぎの原因はとっくに窓から飛び出し、中庭を駆け抜けていって影も形も見当たらない。
薬箱の蓋が開いて派手に中身が散らかっている。盥も同じく中身をぶちまけ、空っぽになって窓の下でうつ伏せになっている。
ファラオは一瞬あっけに取られたが、次の瞬間怒りが突き上げてきた。
「この・・・・・」
何をしている!!と怒鳴りつけようとした瞬間。
「きゃああああぁぁぁっ!!!!!」
少女が悲鳴を上げた。
「ど・・・どうした!?キャロル!?何処か痛むのか?見せてみよ。キャロル、キャロル!」
「み・・・見てたの!?いや―――――っ!!」
真っ赤になっている。先刻の夢見るような表情はとうに吹っ飛んで羞恥心に身を捩って顔を覆っている。
「どうした!?何か申せ、侍女の無礼が気に入らぬならこの場で手打ちにしてやる。大丈夫だ。だから落ち着け。」
「馬鹿!!」
「ば・・・ばか?」
「どうしてそっちへ行くの!?信じられない!私はただ、自分に警戒心が無かったことが恥ずかしいって言ってるだけよ!!
こんなことで人殺しなんかしたら、一生口きいてあげないから!!」
メンフィスを突き飛ばして身動きできない侍女達に駆け寄る。
「大丈夫!?怪我は無い?ごめんなさいね、怖がらせて。私のせいで・・・」
「とっ!とんでもありません!!勿体のうございます。」
「とんだご無礼を致しました。どうぞお許しを・・・・」
「いいの。私こそ御免なさい。どうかしてたのよ。周りが見えなくなっちゃって・・・・」
そこでぽぽっと赤くなる。連られて侍女も赤くなって、後はもごもごと意味の無い言葉の繰り返した。
面白くないのはメンフィスだ。女三人が一種の連帯感みたいなことで盛り上がっている。
「いい加減に致せ。この私を馬鹿だと?よくも申したな。」
侍女がひいっと悲鳴を上げる。
だが、キャロルがそんな二人に片目をつぶって見せた。
「そうよ。こんなことくらいでいちいち人殺ししてたら、宮殿に侍女がいなくなっちゃうわ。まさかそんなことも分からない、なんて事は無いわよね?」
「当たり前だ。私はただお前が・・・・・」
「私のためなら下らないことで人殺しはやめて頂戴。これは私が悪かったの。この人達は命令を言い付かっただけ。それから・・・・・」
「なんだ?」
「あの『お土産』何処へ行ったのかしら。あの勢いじゃきっとあっちこっちで騒ぎを起こしているわ。それを捕まえるほうが先決なんじゃないかしら。
それに傷の手当もしなきゃ。最初はそれだったんでしょう?」
確かにそうだ。
「いいわね?手打ちは無しよ?この人たちは何も悪くないの。」
「・・・・・分かった。下がれ。」
「私は薬箱をとってくるわ。ちょっと待ってて。」
ぽつんと長椅子に放り出され、ファラオは手持ち無沙汰に腕など組んでみる。
傷はとっくに治っていて、かすかに痛みが残る程度だ。そもそも、最初から傷の治療ではなくキャロルを側に呼びたいが為の命令だったのだから
たいしたことは無いのに決まっている。
反対に何か釈然としない気分がふつふつと沸いてくる。
何だろう・・・・何かが・・・・引っかかる。
「どうしたの?」
ふと気付くとキャロルが薬箱を片手に顔を覗き込んでいる。
「いや・・・・・」
「怪我を見せて。ああ、本当にたいしたこと無いのね、良かった。」
「当たり前だ。たかが猫に引っ掻かれたくらいで・・・・・周りが大騒ぎしただけだ。」
「包帯はどうしよう。」
「良い。傷も乾いているしそのままで構わぬ。」
「じゃあ消毒して薬を塗るだけね。」
手当てが終わり、キャロルが薬箱の蓋をぱちんと閉じる。その音で先刻の釈然としなかった原因が分かった気がした。
立ち上がろうとしたキャロルが腕を引っ張られてバランスを崩し、メンフィスの膝に座り込んだ。
弾みで手から離れた薬箱が、かろうじて長椅子に落ちてぼんと弾む。
「ちょ・・・何?」
「先刻の続きだ。」
「や・・・やだ。また誰が見てるか分からないのに・・・・」
白い身体に腕を回しながら、気配を探る真似をする。
「大丈夫だ、誰も見ておらぬ。私の勘を疑うか?」
「で・でも。」
「お前・・・騙したな?」
「だっ・騙したって何が?」
やはり。声が裏返っている。
「先刻の悲鳴、恥ずかしいのではなくわざとだろう?私が怒鳴りつけたので止めようとしたのだろうが。」
「そっ・そんなんじゃないわ!!本当に恥ずかしかったのよ!?」
「・・・・・ふふ・・・まあ良い・・・これで許してやろう・・・・ 」
二人の間の時間が止まった。
さわやかな風が吹き抜け、花の香りが漂う部屋で、恋人達の熱い抱擁と接吻が繰り返される。
甘い雰囲気は濃くなり、お互いのこと以外まるで目に入らない。
だが気配に鋭い勘を持つファラオの耳は、再び近付く何かの声を捕らえていた。
「・・・・・・・・・・」
無言で白い身体をさらに強く抱きしめ、より深く口付けを与える。
「・・・・・っ・・・ふっ・・・・・」
「キャロル・・・・・」
合間に愛しい名を呼んで、どちらとも無く再び唇を重ねる。
「にゃ〜〜〜〜」
白い身体がびくりと緊張する。
「猫だ・・・安心致せ。こやつだけだ、誰も見ておらぬ・・・・・」
「あ・・・駄目・・・よ・・・これ以上・・・」
「なにが?」
再度の口付け。
「・・・・・う・・・?」
膝が重くなった。二人の視線が同時にキャロルの膝に向かう。
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
白い猫が、居場所を決めた。とでも言うように座って、じっと二人を見上げている。
「この子なの?かわいい・・・・・」
ゆっくり抱き上げて、キャロルが頬ずりする。嬉しそうな笑顔は、想像していたよりももっとメンフィスを喜ばせるものだった。
これだけで何もかも忘れられる。
「ああ・・・気に入ったか?」
「とっても。有り難うメンフィス。」
「やっと聴けたな・・・」
「何が?」
「なんでもない。」
黙っておこう。お前のその一言を聴きたいがために猫を追い掛け回したことも。侍女を怒鳴ったことも。
穏やかな口付けを交わしながら白い腕の中の白い猫に目をやる。
青空色の瞳が「黙っていてやる。」と笑ったような気がした。
END
BACK