修ちゃんケンカしちゃ駄目だよ、って千秋が言う。 オレたちは先週中学に入ったばかりで。 生意気な新入生には、先輩がたの呼び出しも途切れることのない今日この頃。 退屈しなくていいや、ってオレは思ってたけど、千秋の意見は違うらしい。 授業後オレを迎えに来て、うちのクラスの奴から、オレが呼び出されてどっか行ったって聞いて。 一年をシメるには、校舎裏が定番の場所。 だけど、千秋が血相変えて駆けつけたときには、もうケンカは終わってた。 一昨日は二年生が三人。 昨日が五人。 今日はとうとう三年が出てきた。 入学してまだ一週間。 なのに、この場所には、もう片手じゃ足りないくらいの回数来てる。 一年同士のケンカもないわけじゃないから、一日平均二、三回は来てんじゃねーか? 「でも、勝ったぜ」 ピースしながらオレが言うと、そういう問題じゃないよ、って。 いつもの下がり眉が、今日は上がってる。 「だって、あいつらムカつくんだもん」 心配すると怒るんだよな、こいつは。 オフクロみてえ、ってちょっと思った。 でも、オフクロに叱られたときみたいに、反発したい感じはしない。 制服の埃を払いながら立ち上がろうとすると、グローブみたいな手が、目の前にさし出された。 ぎゅっと握ると、強い力で引っぱり上げられる。 いつのまにか、オレより大きくなってた千秋。 「…一人で行っちゃ駄目だよ」 それなのに、オレが立ち上がってもオレの手を放さないとこ、泣き出しそうな顔は変わらない。 「せめて、ボクもつれてってよ」 役に立たないかもしれないけど、と付け加えるのが実にお前らしい。 「あんな雑魚ども相手に、わざわざお前が出てく必要ねーよ」 そう言って、握られたのとは逆の手で、オレは千秋の額を小突いた。 本心だった。 あんな弱っちい奴らの相手を、わざわざ千秋がしてやる必要なんてない。 「修ちゃん…」 オレの手を握ったのとは逆の手で、千秋は額を押さえる。 と、突然、ハッと何かに気づいた顔になって手を放した。 「どうした?」 上着のポケット、ズボンのポケット…と順に探る。 最後にシャツのポケットから、取り出したハンカチを、千秋はオレの顔に当てた。 「口の横んとこ、切れてる」 「そーか?」 無傷で勝ったつもりが、どうやら一発くらってたらしい。 興奮してたから気づかなかった。 アドレナリンのおかげだ。 口の中を舌で探ってみると、錆びた鉄みたいな味がした。 「口ん中も切れてんな」 オレが言うと、千秋はひどく悲しそうにオレを見た。 何でか分からないけど、オレの顔がすごく好きらしい。 こんな怪我、痕も残んないのにな。 千秋から借りたハンカチで、傷口を押さえて離す。 「血ぃ止まったか?」 腰をかがめてのぞきこんできた千秋に聞くと、千秋は、うん、と頷いてハンカチを受け取った。 オレが笑うと、つられたように笑う。 「帰ろーぜ」 早足で歩き出せば、千秋は慌てて追ってくる。 校舎の角を曲がると、西の空はもう赤く染まり出してた。 グラウンドの反対側では、運動部の連中が走りこみの最中。 「ちあきー」 「なに?修ちゃん」 「お前さ、部活とか入んねーの?」 今だって身長は十分高いし、きっとまだまだ伸びるだろうし、バスケでもバレーでもできるだろ? でも、千秋は、ボクはどんくさいから…と、困ったように笑って頬を掻いた。 逆に、修ちゃんは入らないの?と聞かれてしまった。 「んー…かったりーからヤダな。先輩にいばられたらキレそーだし」 ちょっと考えて、オレは答える。 振り返ると、千秋がハンカチを上着のポケットにしまうところだった。 四隅に飛行機の刺繍が入った青いハンカチ。 千秋が貸してくれたからだけど、血を拭いたのは、ちょっと勿体なかったかもしれない。 「そのハンカチさ、千秋」 「うん?」 「小五んとき、家庭科で刺繍したやつだろ?」 不器用な千秋は、授業中に終わらなくて、宿題にされた。 家に持って帰って、祖母ちゃんが、代わりにやってやろうかって言うのも断って。 オレは、千秋んちの姉ちゃん経由でその話を聞いた。 ガタガタの飛行機と、絆創膏だらけの千秋の指と。 やっぱ、血拭いたのは勿体なかった。 「うん、そう。よく覚えてるね、修ちゃん」 忘れるかよ…てゆーか、悪かったな、汚しちまって。 言おうとしたけど言えなかった。 だから、オレは代わりに言った。 「…お前さー、もしオレが手芸部に入ったらどうする?」 犬走りを一列縦隊で歩きながら、 (このまま一緒に歩いていけるのはどこまでだろう?) オレは考える。 だけど、千秋は少しの迷いもなく答えた。 「一緒に入るよ」 「じゃあさ…」 「手芸でも合唱でも華道でも茶道でも一緒に入るよ?」 「…華道も茶道もねーよ、うちの学校」 オレが笑うと、千秋はやっぱりつられたように笑った。 次の日。 前日と同じように上級生に呼び出されて、オレは校舎裏へと向かった。 「高梨っスけどー」 ハンデをつけてやるつもりで、大声で名乗りながら。 校舎の角をゆっくり曲がると、そこには信じられない光景が広がってた。 「修ちゃん!!」 息を切らした千秋が駆け寄ってくる。 その背後には、痛めつけられて動くこともできない二年生、三年生の山、山。 千秋が強いのは、もちろん知ってたけど…。 正直、オレだってここまで酷いことできねーぞ。 「お前がやったのか?」 信じられない心持でオレが聞くと、千秋は小さく頷く。 埃まみれの制服を手で払って、千秋にしては珍しく、ぴんと背筋を伸ばした。 昨日あの後考えたんだけど。 前置きして、深呼吸を一つ。 さし出された大きな手に、オレは思わず自分の手を重ねる。 「修ちゃんがケンカしたいなら、ボクはもう止めないよ」 そう言って、千秋はオレを見た。 思いつめたような顔。 「千秋、それどういう…」 「止めないから…その代わり、ボクにも一緒にやらせてよ」 見捨てられるかも、とか、一瞬思ってしまった。 ぎゅっと、痛いほどの力で手を握られる。 だけど、次の瞬間、そう言った千秋の顔には、覚悟がいっぱいにみなぎってた。 「一人で危ないことしないでよ」 呟いて鼻をすする。 やっぱり、お前には敵わない。 「二人でさー」 「うん」 「二人でこの学校シメたらさー、千秋」 「うん?」 「タイマンはろーよ」 犬走りを並んで歩きながら、オレは千秋を見上げる。 そしたらお前が勝つからさ、お前がナンバーワンで、オレがナンバーツー。 そんでずっと一緒にいんの。 そう言うと、ボク修ちゃんとケンカすんのヤダよ、と。 「変なこと言わないでよ」 本気で嫌そうな顔をして、千秋は横を向く。 「悪い、冗談」 むくれる千秋を宥めながら、でも、本当は冗談なんかじゃない。 誰も見ていないのを確かめて、歩きながらオレは背伸びした。 千秋の影にオレの影がキスするみたいな、千秋に気づかれないようにそっと、そんなことをした。 |