ドメスティックバッドボーイ
夏の終わり。
もうじき死ぬセミたちが、最後の気力をふりしぼるように鳴きたてる。
降りしきる雨のようなその声の中、秀吉は、一人教室を出て裏庭に向かった。
時は昼休み。
残暑の熱気に追われてか、校舎の外に人影はない。
というより、学校全体に人が少ない。
それが、暑さのためか、それとも、二学期の既に始まっていることを、認識していない生徒が多いためか、教師にさえ分からない。
中には、夏休みボケの進みすぎで、うっかり学校を辞めている奴までいて、そんなことも全部含めて、鈴蘭だった。
「暑いな」
誰もいない体育館の横を歩きながら、秀吉はつぶやいた。
夏休みが明けたばかりの学校。
出てくる奴が少なければ、逆に出たくなる。
残暑厳しい屋外。
出る奴が少なければ、逆に出たくなる。
秀吉は、天邪鬼な男だった。
しかし、自他ともに認める天邪鬼な秀吉の思うところ、この鈴蘭には、他にも天邪鬼な男がいる。
秀吉と同じように、あるいは、秀吉よりももっと。
今日みたいな日。
この、ウンザリするほど暑い日の、ウンザリするほど暑い時間帯。
太陽の光を遮るものもない場所に、あの人はきっといる。
そう考えたとき、頭に浮かんだのは、裏庭の白いコンクリートで、ゆえに、秀吉は一人そこに足を向けた。
約束は、していない。
夏休みが終わってから、校内で姿を見かけたこともない。
けれど、秀吉には確信があった。
コンクリートの照り返しにあぶられて、不機嫌な顔で汗を拭いながら、こういうときには一人でいる。
そういう人だ。
それは知っている。
建物のつくる影から出て、秀吉は、一歩踏み出した。
照り返しのまぶしい場所に、それよりも、ずっとまぶしい、
「ヒロミさん」
秀吉は呼んだ。
ゆっくりと、暑さで動作が緩慢になっているのか、それとも、秀吉の目にそう見えるだけなのか。
ヒロミが振り返る。
何をするでもなく、一人佇んでいた。
やっぱり、この人は、俺よりもずっと捻くれ者だ。
そう思って秀吉は、ヒロミが口を開いて何か言うより先に、近づいた。
逆立てた金髪の下、剥き出しの白い額に浮かんだ汗が見えるほど近づいて、
「会いたかった」
と。
言おうとして、秀吉には言えなかった。
そんなことが口に出せる性格なら、そもそもこんなところには来ない。
代わりに、ヒロミの顔をじっと見る。
「何だよ」
見られてヒロミは苦笑した。
眉根を寄せて、あんま見んな、と言うと、手を伸ばす。
秀吉の頭を、ポンポンと軽く叩いた。
ガキじゃねえのに。
途端、胸の芯がカッとして、秀吉は、自分の頭に乗ったヒロミの手を払った。
目を丸くしたヒロミに抱きつく。
不意打ちだ。
成功した。
秀吉は、ヒロミを抱きしめる。
渾身の力でもってそうすると、
「痛えよ」
頭の上で声がした。
更に、あちいよ、と。
ヒロミの頭越しに見える空は、晴れているのに青く見えない。
むしろ白い。
真っ白い。
太陽のせいだ、と秀吉は思った。
だから、痛いと言われても、熱いと言われても、まるで聞く耳持たなかった。
たとえば、遅刻上等の日常を送っているため、ほとんど経験がないが、満員電車に乗っているとき。
隣の乗客と腕が触れ合うのは、不快以外の何ものでもないのに、それがどうして、この人だと。
汗をかいた腕と腕とが合わさって、離れたくねえ、と一瞬で思う。
顔を合わすこともなかった、約四十日分。
だから、秀吉は、聞く耳を持たない。
けれど、秀吉の持っていない聞く耳を、ヒロミの方は持っていて、
「何の用だ?」
何か言いたいことがあるんだろ、と言った。
力いっぱい抱きしめられて、まともに身動きさえできないくせに、ヒロミの口調は余裕だった。
ついでに顔は涼しげ。
まるで、お前なんかどうとでもあしらえるというような。
年上のアドバンテージか、と思ったら、急に腹が立った。
「やらせろよ」
だから、秀吉は、秀吉の知っている中で、最も直截な言葉を選んだ。
口から出したはずの言葉が、出した後で喉にからむ。
嘘じゃなく、でも、それだけが全部じゃなく、けれど、それしか選べない。
ヒロミは、小さな目を少しだけ大きくして、秀吉を見た。
秀吉から向けられる感情が、至極単純な言葉に集約されて、その顔は、何だかホッとしているようにも見えた。
ふう、と息を吐いて、苦笑いする。
これは望みがありそうだ、と秀吉は直感した。
ヒロミさんも、その気だ。
そうすると現金なもので、さっきまでの腹立たしさはどこかに消え、ヒロミの肌の温度、間近に感じる息づかいに、改めてドキドキしてくる。
あんたの、と秀吉は言って、ますます強く抱きしめる。
「あんたの、家に行きたい」
そこでやりたい、と希望を告げた。
言ってから、さすがに調子に乗ったか、と思った。
秀吉は、今まで一度もヒロミの家に行ったことはない。
行きたいと言ったことは何度もあるけれど、ない。
毎度、ヒロミに却下されている。
秀吉の方も、ヒロミを自宅に招いたことはないので、実はお互い様だったが、自分勝手な胸のうちで、秀吉には、それが不満だった。
今更、何を守っているのか。
しかし、不満に思いつつ、きっと今回も却下だろう、と。
が、
「いいぜ」
ヒロミが言った。
予想外だった。
「へ?」
思わず間抜けな声が出る。
間抜けな声が出て、抱きしめる腕の力もついでに緩む。
ヒロミは、秀吉の腕の中から、するりと体を抜いた。
空っぽになった輪っかを慌てて崩し、あんたも犬のくせに、と秀吉は思った。
犬のくせに、まるで猫のような身ごなしだった。
自宅に来てもいい。
何の気まぐれかは知らないが、ヒロミはそう言った。
せっかくのチャンスに、逃げられてはたまらない。
秀吉は腕を伸ばし、ヒロミの手をぎゅっと握った。
痛えよ、とヒロミが言う。
逃げんなよ、と秀吉が言うと、どっちがだよ、と笑われた。
それから、二人で学校を出て、駅に向かった。
北町第三駅から、普段とは逆方向の電車に乗る。
促されて降りた駅で、秀吉が思い出したのは、中学時代だった。
駅前に広がる風景に、見覚えがある。
斜め前に立つヒロミの顔を、秀吉はじっと見た。
「エビ中……だったよな?」
何だ、と首を傾げたヒロミに、秀吉は聞いた。
知っている、が、確認だ。
「ああ」
ヒロミは頷いた。
中学時代、敵対していた北地区の連中、海老塚中学と揉め事が起こるたび、秀吉はこの辺りまで遠征してきた。
大抵は誰かの自転車、あるいは原付の後ろに乗ってだったから、電車に乗っているときには、ピンと来なかった。
思い出して、ついでに元海老塚中の同級生を思い出して、舌打ちをする。
元海老塚中の同級生、つまり、軍司の坊主頭だ。
喧嘩の場所は、駅裏の空き地が定番だった。
「俺らんときもそうだった」
秀吉がそう言うと、ヒロミも笑って頷いた。
それから、ふと真顔になり、後ろを向いた。
一瞬だけ目が合って、秀吉の心臓が跳ねて、ヒロミの視線は、駅舎を越えた向こうに投げられる。
秀吉もつられて振り返り、視線の先を追った。
「もうねえよ、あの空き地も」
ヒロミの視線の先、秀吉の追った先には、一年前にはなかったはずの、大きなビルがあった。
「パチンコ屋だってよ」
ヒロミが苦笑いする。
それと意識して見れば、確かに巨大な看板があった。
あんな派手なものに、振り返った瞬間気づかなかったのが不思議だった。
そう思って、ヒロミの方を見ると、ヒロミはもうこちらを向いてはいなかった。
視線を前に戻して、歩き出している。
秀吉は慌てて後を追った。
ヒロミさんはパチンコ……と言いかけて止めた。
言いかけて止めて、
俺は、この人に夢を見過ぎている。
そう思った。
自覚はある。
が、何にもならない。
ズボンのポケットに入れた手で、握り拳をぎゅっと作った。
無言のまま、歩く速度を少しだけ速め、秀吉はヒロミの隣に並んだ。
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