ring
零下二八度でも、今日は暖かいと感じるのがシベリアで、シベリアならバナナで釘も打てる。
鈴蘭の屋上は、まさか、それほど寒くはないし、バナナで釘も打てない。
けれど、鈴蘭の屋上だって、真冬は十分にクソ寒い。
凍死はさすがにないとしても、長い時間いれば、きっと風邪は引く。
そんな真冬の屋上に、放課後、ヒロミは一人足を向けた。
当然、誰もいないだろう。
そう思っていた。
現在、鈴蘭のトップという意味で、屋上の主であろう春道は、冬の訪れとともにねぐらを変えた。
サッカー部の部室を乗っ取り、どこからかコタツを持ち込んで、まるで、冬眠中のクマのように寝ていた。
そんな姿を、昼休みにヒロミは見た。
午後の予鈴が鳴ったので、起きるわけがないと思いつつ、一応声はかけ、やはり起きなかったので、その場に春道を残し、ヒロミは教室に戻った。
そのまま、五時間目の授業にも、六時間目の授業にも顔を出さなかったので、きっとあのまま寝ているんだろう。
春道以外の奴らだって、以下同文だ。
金網のフェンスなんて、防寒には全く役に立たない。
吹きさらしの屋上で、突風に首をすくめ、ヒロミは思った。
真冬の、それもこんな寒い日の屋上には、まず誰も来ない。
来るとすれば、よっぽどの物好きか、何か、どうしても用のある人間だ。
ヒロミは、分厚い扉を閉め、顔を横に向けた。
よっぽどの物好きか、どうしても用のある人間。
自分は後者だ。
ヒロミは、仲間たちの足をこの場所から遠ざける、この寒さにこそ用があった。
(でも、それも無駄になった)
そう思い、横に向けた顔の、視線を下に落とす。
そこには、ソファが置かれていた。
現在、サッカー部の部室に持ち込まれているコタツ同様、春道がどこからか持ってきた物。
茶色い革っぽいビニールの、早晩、中のバネに「こんにちは」されそうな古いソファ。
硬い肘掛にのせられた、仰向けの靴の裏と、そこから伸びる長い脚。
制服を着ろよ、と何となく思う。
それが誰か、気づいた瞬間、ヒロミは、回れ右をしてこの場を去るべきだと思った。
でも、それができなかった。
実際に取った行動は、それとは真逆だ。
屋上の扉を閉め、視線を落とし、それから、ヒロミは、ソファの方へ歩み寄った。
見下ろすと、足とは逆の肘掛に頭をのせ、その男は寝ていた。
このクソ寒いのによく寝られるな、実はバカじゃねーのかコイツ、と八つ当たり気味にヒロミは思う。
「阪東」
そして、少し迷って、呼びかけた。
「阪東」
反応がないので、もう一度呼ぶ。
呼びながら、もし誰かが来て、寝てるところなんて見られたら、俺はいいけどコイツが気まずいだろうから、と言い訳めいた独白が胸をよぎる。
事実は、言い訳「めいた」どころじゃない。
正しく言い訳だ。
こんな寒い日の屋上には、誰も来ない。
それを知っていて、ヒロミはこの場所に足を向けた。
気まずいも何も、本当はありはしない。
誰もいない場所で、乾いた冷たい空気に身をさらして、ヒロミは、頭を冷やすためにここに来た。
頭を……と、考えながら、阪東の顔を見下ろす。
すやすや、と表現できるほど安らかな表情ではない。
が、とにかく寝ている。
(コイツがいたら意味ねーじゃねえか)
途方に暮れたように思う。
友達からも、喧噪からも離れて、一人で頭を冷やしたいと、そう考えて、ヒロミは屋上への階段を上った。
それなのに、阪東がいては意味がないのだ。
他の誰がいたって意味がないけれど、特に阪東がいては。
全く意味がない。
「阪東」ともう一度呼んだが、よっぽど疲れているのか何なのか、阪東は目を覚まさない。
ヒロミは、チッと舌打ちした。
特に阪東がいては意味がない。
つまり、要するに、頭を冷やしたいというのは、他ならぬこの男のせいだった。
きっかけは、今日の昼休みだ。
昼休み、サッカー部の部室で、寝ている春道を横に、ヒロミはヤスや亜久津と喋っていた。
隣にはマコもいた。
喋る内容は、ここ最近の平和さのせいか、他愛のないことばかり。
コタツは暖かく、面子は気がおけず、ヒロミは、そのとき、おそらく油断していた。
油断していたヒロミに、突然、ヤスが言ったのだ。
「ヒロミさん、蚊ですか」と。
言われた意味が分かった瞬間、ヒロミは動揺した。
ヒロミの首元に、蚊に刺されたような赤い痕がある。
ヒロミは、対面のヤスの顔を見返して、息を詰めた。
制服の下で、真冬だというのに汗をかく。
間違いなく冷や汗だ。
「この季節に珍しいッスね」
そうヤスは言い、詰襟の上のところを指した。
知っている、とヒロミは思った。
わざわざ指されなくても知っている。
もちろん、ヤスには何の罪もない。
罪があるとすれば……と考えて、頬に血が上る。
マコが無言のままヒロミの首元を見つめ、たぶん分かっていないんだろう亜久津が、「ああ、赤くなってるな」と頷いた。
「そうか?」
ヒロミは言った。
「そう言えば痒いかもな」などと、更に誰かが口を開く前に、重ねて言う。
実際には、痒くも何ともない場所を、ちょっと掻いてみせたりもした。
首の皮膚に触れた指先が冷たい。
「そうか?」と口にしたときの声が、普段より若干高くなってしまったことを、しまったな、と思った。
顔色を変え、とりあえず表情は変えないでいるのが今は精一杯だ。
寝ている春道にチラリと視線をやり、この男が起きていなくて良かったと思った。
この手の話題には、意外と聡いのだ。
ついでに、この場にポンがいなくて良かったとも。
あの男も意外と聡い。
そんなことを考えていたら、横から手が伸びてきた。
顔を上げればマコで、マコは、煙草のソフトケースをヒロミに差し出し、一本取れ、と言うように顎をしゃくる。
ヒロミが一本取って口に咥えると、更にライターが出てきて、火をつけられた。
落ち着け、ということらしい。
ヒロミは、物言わぬマコの表情を見て思った。
気がつけば、ヤスと亜久津の話題は、もう別のことに移っている。
煙草を吸い、けれど、ヒロミは居たたまれない気分だった。
しばらくして、助け舟のようにチャイムが鳴った。
ヒロミは立ち上がり、どうせ起きないだろうと思いつつ、春道に声をかけ(起きなかった)、一人教室に戻った。
廊下を歩きながら、誰も見ていないのに、「痒いな」と呟きつつ、首を掻く。
居たたまれない気分は消えず、当然、午後の授業など、まるで手につかなかった。
それで頭を冷やしたくて、屋上に来た。
それなのに、屋上には阪東がいた。
テメーのせいじゃねえか、とヒロミは思う。
首元の赤い痕。
阪東は、つまり、真冬の蚊だ。
ヒロミはソファの脇に立ち、眠っている阪東の顔を見た。
いつも鋭い視線を放っている目が、今は伏せられている。
そうしていると、起きているときのクレイジーさは微塵も感じられない、静かな印象すら与える顔だった。
寝顔でも取れない眉間の皺と相まって、何か、とても深遠なことを考えているようにも見える。
(ロクでもないことしか考えてねえくせに)
ヒロミは思った。
ロクでもないことを考えて、言って、して。
立っているヒロミと、寝ている阪東と。
わずか数十センチの距離がたまらず、ヒロミはその場に膝をついた。
ソファに体を伸ばして寝ている阪東の、左手は屋上の地面に落ちている。
いつもの革手袋は、今日はしていない。
乾いた風に揺れるように、時折ピクリと動く。
ヒロミは、阪東の脇に膝をついて、眠る男の姿を眺めた。
楽器を弾いたり、バイクの整備をしたり、手先を使うようなことが阪東は好きらしい。
同じ学校に通って、ほぼ二年。
ずっと知らなかった、そんなこともヒロミは知った。
最近知った。
案外と器用な手の、片方は床に落ちている。
そして、もう片方は、呼吸に合わせて、ゆっくり上下する腹の上に置かれていた。
ヒロミは、その手をまじまじと見る。
正確には、その手の指。
長い指のうち、半分には指輪が嵌まっていて、その中の一つ、中指の指輪にヒロミは見覚えがあった。
赤い石の飾りがついた、ごつい指輪。
ほんの数日前だ、とヒロミは思った。
ほんの数日前、ヒロミは、阪東がこの指輪を外すところを見た。
ヘッドボードの灰皿の隣に、外した指輪を置く。
赤い石の指輪以外も、全部外して、同じところに置いた。
衣服は乱さず、他のアクセサリーもつけたまま。
指輪だけ全て外す阪東の仕草が目につき、じっと見ていると、視線を感じたらしい阪東が振り返った。
振り返って笑う。
目が合って、ヒロミは思わず舌打ちした。
いやらしい笑い方だった。
ヒロミは、詰襟の上に手をやる。
痒くもないのに、また掻いた。
蚊に刺されたとヤスに勘違いされた、赤い痕は、そのとき付けられた。
思い出せば、また頬に血が上る。
そして、ロクでもねえ、とヒロミは思って、
「ロクでもねえ」
言った。
(だから頭を冷やしたかったんだ)
ほんの数日前、ヒロミは阪東に抱かれた。
無理やり、ではなかった。
無理やりだったら、まだ良かった。
「俺にやられてーんだろ?」と言わんばかりの阪東の態度は、しかし、勘違いではなかった。
ただ、それは、ヒロミにとって全く予期せぬ出来事だった。
冬の初め、目の当たりにしたある喧嘩をきっかけに、ヒロミは、そういう目で阪東を見るようになった。
なってしまった。
そのことは、今更もう否定しない。
ただ、だからと言ってどうしよう、というのは考えたこともなかった。
打ち明ける気は端からなかったし、何をしたい、されたい、というのも、とりあえずなかった。
何を……つまり、キスやセックスを。
延長戦上に、そういうことが待っている、それを望む目で、阪東を見てしまうようになった。
その事実は、もう否定しない。
けれど、具体的にどうしよう、と言うのは、考えたこともなかった。
眠る阪東の顔を間近に、神に誓って、とヒロミは思う。
思ってから、神様を信じていないことに気づき、少し迷って、誓うべき何も思いつかないので、止めた。
だからどうした、と替わりに浮かんでくるのは自嘲だ。
考えたこともなかった、と言い訳して、それが何になるのか。
壁を越えてきたのは、確かに今目の前で眠っている男で、けれど、その手を取ったのは自分だった。
嬉々として取った。
確かに己の意思だった。
鏡に映して見たわけじゃないけれど、あのとき、きっと自分は笑っていただろうとヒロミは思う。
指輪の石の色は、阪東に付けられた首元の赤い色に似ていた。
数日前、何度となく触れた唇の色にも。
今も触れたい、と思い屈する。
ヒロミは、ふうと大きく息をつき、片足を軸に立ち上がった。
汚れた膝を手で払い、阪東の顔と、右手の指輪を交互に見た。
赤い色は、たぶん昼休み以来、血が上ったままの自分の頬の色にも似ている。
ことが終わった後、阪東の部屋の窓から見た、日没の色にも。
似ていると思い、もう一度息をつき、「阪東」と呼ぶ。
周囲に視線をめぐらすと、誰もいない寒風の屋上だった。
ヒロミは身をかがめ、眠っている阪東の顔に顔を近づけ……止めた。
思わず笑いがもれる。
それから、今度はすうと大きく息を吸い、首元をひと掻き。
「阪東」
呼んでも無駄だと思いつつ呼ぶ。
それでも阪東が起きないことを確かめ、渾身の力をこめて、ソファを、阪東が頭をのせている方の肘掛を、蹴った。
爪先が痛くなるほど強い力で。
そこでやっと目を覚ました阪東が、驚いたらしく変な声を上げ、ヒロミは、今度こそ腹の底から笑った。
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ひとつ前にアップした「LL」と同趣旨の話。
ポンはサボり。
先輩は物好きです。