LL
鈴蘭の昼休み。
二年C組の教室で、桐島ヒロミは、その開始を告げるチャイムが鳴ると同時に立ち上がった。
「よー、ヒロミ」
しかし、教室を駆け出さんとするときにかかる声。
思わず目線を険しくして、ヒロミは振り返った。
「何だ?」
立ち止まって言う。
自分を呼び止めたのが誰か、声だけでヒロミには分かった。
だから、目線を険しくしつつも振り返った。
他の奴なら無視して終わりだ。
「何だよ」
しかし、ヒロミの中でのそんな格付けなど、知るよしもないのだろう。
睨まれて、声をかけてきた相手―春道は、ムッとした顔をした。
「お前こそ何の用だ?」
ヒロミは言う。
呼び止めておいて、何だよとは何だと思ったが、今、この男とケンカをしている暇はない。
「用がねえなら行くぜ」
そう言って、踵を返しかけたヒロミに、春道が言った。
「外に飯食いに行かねえか、って言おうと思ったんだけどよ……」
春道は、この男にしては歯切れ悪く言うと、ヒロミの顔をじっと見た。
「……何だよ」
まじまじと見られて、ヒロミは眉を寄せる。
何度かパチパチと瞬きして、春道は、大きな溜め息をついた。
「いや……いいわ、他の奴誘うわ」
そう言うと、行け行けと言うようにヒロミに向かって手を振った。
まるで犬でも追うような仕草が、不快でなかったと言えば嘘になる。
が、とにかく今は時間がない。
ヒロミはチッと舌打ちだけして、今度こそ踵を返した。
駆け足で教室を出て、そのスピードで隣の校舎まで走り……ヒロミが向かった先は、鈴蘭の図書室だった。
もちろん、本を借りるために急いで来るわけもなく。
ヒロミは、周りに人がいないのを確かめて、扉を開けた。
何となく息を詰めて、図書室に入る。
貸出カウンターにも、その先の司書教諭室にも、人気はなかった。
窓際の閲覧スペースで、イス……ではなく、机に腰かけて、煙草を吸う男がいた。
扉の方に背を向けたまま、ヒロミが声をかけるより先に、「遅え」と言った。
遅えも何も……と、ヒロミは壁の時計を見る。
教室を出しな春道に呼び止められて、それでも、まだ昼休みが始まってから、五分も経っていない。
俺が遅えんじゃなくてテメーが早えんだ、とヒロミは思った。
「四限サボったのか?」
ヒロミが聞くと、男は、「いや」と首を横に振った。
こちらに背中を向けたまま、一瞥も寄越さないのが、実に阪東だった。
「足の速いことで」
何となく悔しい気分で、ヒロミは、言外に呆れをにじませて言う。
「まあな」
そのつもりで言ったのに、阪東は、何故か機嫌の良い声で応じた。
どうしてか、誉められた気になったらしい。
足元に転がったコーヒーの缶で煙草をつぶすと、おもむろに振り返る。
冬の日ざしが逆光になって、阪東の表情は分からない。
けれど、それでもヒロミには分かった。
「ヒロミ」と呼ばれて、鼓動が速くなる。
初め背中を向けていたのが、ようやくこちらを向いた。
ヒロミに向ける、阪東の視線には欲があった。
きっと、この男は隠すつもりもないに違いない。
数メートル離れていても、ヒロミには分かった。
お前が欲しい、と。
ひりつくような欲望の視線を向けられて、背中がぞくぞくする。
思わず顔を伏せ、唇を舐め、また顔を上げると、阪東と目が合った。
阪東は、ヒロミの顔を見ると、何故か目を丸くした。
「……こっち来い」
上ずった声でヒロミを呼ぶ。
呼ばれて、ヒロミは弾かれたように駆け寄った。
図書室の扉に、鍵をかける時間ももどかしい。
同じように阪東も、もどかしげな顔をして腕を伸ばし、ヒロミの腕を掴んだ。
「いてえよ」
骨が鳴るほど強く掴まれ、ヒロミは言った。
「……」
阪東は、何も言わない。
無言で見つめられ、ヒロミもまた口をつぐむ。
それから、互いに黙ったまま、見つめ合うこと数十秒。
突然、阪東が立ち上がった。
ヒロミの腕を引き、図書館の奥、背の高い書架の陰に、まるで押しこむように連れこむ。
「ヒロミ」と呼ばれて顔を上げ、「阪東」と言いかけた瞬間、口づけられた。
ヒロミの声も奪うように、キスはひと息に深くなる。
唇と唇を隙間なく合わせて、ヒロミが苦しがって身をよじると、書架に背中を押しつけ、更に貪った。
互いの舌がどろどろになるほど絡めて、ようやく離したときには、二人とも息が上がっていた。
「……すげえな」
肩を上下させながら、ヒロミはつぶやく。
唾液まみれの口元を、手の甲で拭う。
同じように息を切らしていた男は、そんなヒロミの様子に何故か悔しげな顔をした。
指輪だらけの手が音もなく伸びてきて、頬を掴んで固定されると、再び口づけられる。
舌先を喉にねじこまれて、ヒロミがえづいたような声を上げると、ようやく満足したのか、唇を離した。
目が合うと、阪東は笑い、ヒロミを抱きしめる。
抱き返し、距離を詰めると、革と香水の匂いがした。
「ヒロミ」
呼ばれて胸に顔をすり寄せる。
ネックレスのチェーンが額に触れ、かすかな音を立てた。
自分の皮膚全部が耳になってしまったような感覚で、阪東の鼓動を聞いた。
その鼓動は、まるで駆け足の後のように速く、たまらなくなってヒロミは顔を上げる。
と、また口づけられた。
今度は優しいキスだった。
ヒロミがその場に膝をつくと、阪東が覆いかぶさるような姿勢になる。
上から唇が降ってくる。
その唇は、ヒロミの顔中、耳や首にも触れた。
阪東らしくねえな、と声には出さず、ヒロミは苦笑する。
すると、その内心の声が聞こえたのか、学ランの裾から手が入ってきた。
裸の背中を指が這う。
くすぐるように触れられて、肌が粟立つ。
「ふっ……」
こらえきれなくなって、吐息とともに小さな声をこぼすと、阪東はまた笑った。
少しだけ体を離し、手が前に回る。
阪東の手は、腹筋を這って上がり、辿りついた平たい胸を飽かず撫でる。
長い指が何度も乳首をかすめ、嬉しいような悲しいような、切ない気分にヒロミは細く息をついた。
やばい、と思った。
体がどんどん熱くなってくる。
制服のズボンの上からでも分かるほど、ヒロミのそこはもう大きくなっていた。
それなのに、何故か阪東は下半身には触れない。
触れてくれない。
焦れったくなって、ヒロミの方から阪東の下半身に手を伸ばすと、ピシャリと払いのけられた。
阪東だって、ヒロミと同じように大きくなっているのに。
見上げた阪東は、涼しい顔をしていた。
恨めしげにヒロミが睨むと、涼しい顔を崩さないまま、愉悦の色を瞳に宿らせる。
獲物をもてあそぶ猫の目だ、とヒロミは思った。
「阪東」と、とうとう耐えられなくなってヒロミは呼んだ。
みっともなくても構わない。
もっと触れてほしい、と言外に込める。
けれど、それが分からないはずもないだろうに、阪東は、ふいにヒロミの体を離した。
平らな胸の谷間にあたる部分を、指一本でスッと辿り……それでおしまい。
阪東は、ヒロミを突き放すと、立ち上がった。
体の支えを突然失って、ヒロミは大きく前方に傾いだ。
「え……」と思わずつぶやく。
阪東は、床に手をついたヒロミの前で、図書室の扉の方を振り返った。
視線の先には、壁時計がある。
阪東がそちらを向いた瞬間、まるで待っていたかのようにチャイムが鳴った。
時計の上のスピーカーから、昼休みの終了を告げるチャイムだった。
ヒロミは、膝立ちのまま阪東を見上げた。
阪東もまた時計からヒロミへと視線を戻す。
そして、腕を伸ばし、おそろしいほど優しい手つきでヒロミの頭を撫でた。
「続きは放課後だ」
身をかがめ、そう囁いた。
これも、おそろしいほど優しい声で、弄られているのだ、と瞬時にヒロミは理解した。
理解して、なのに、怒りは湧かない。
顔を上げると、見下ろす阪東の顔があった。
阪東は、ヒロミの腕を取って立たせ、「俺んち来いよ」と言った。
上から命じるような言い方に、ようやくヒロミはムッとして……けれど、素直に頷いてしまった。
阪東が図書室を出て行った後、ヒロミもまた乱れた着衣を直し、図書室を出た。
廊下には誰もいない。
直接の刺激を与えられることなく、放置された下半身は、けれど、ゆっくりと歩いている間に元に戻った。
確か、自分は元々性的に淡白な方だったはずだ。
歩きながらヒロミは考える。
春道やポンが女の話で盛り上がっているのを、横で聞いていると、よく分かった。
たぶん、同年代の男の中では、そうしたことに興味の薄い方だ。
それが、どうしてこんなことになってしまったのか。
教室に向かって歩を進めながら、さっきまで触れていた、そして、数時間後また触れることになるだろう阪東の唇や指のことを、くり返し思っている。
ヒロミは、ふと視線をやった廊下の窓に、頬を赤く染めた自分の顔を見て、恥ずかしくなった。
慌てて近くのトイレに駆けこみ、水道で顔を洗った。
指先がしびれるくらい冷たい水が、かえってありがたかった。
洗いながら、何だこのザマは、と何度も思った。
そうして、飽きるまで顔を洗い、ヒロミが教室に戻ると五時間目の授業は既に半ばを過ぎていた。
黒板に向かっていた教師は、後方の扉からヒロミが入ってきても、一瞥もしない。
それもそのはずで、教室の席の半分ほどが空いていた。
午後イチの授業なら、鈴蘭ではこれが常態だ。
席に着いている連中も、その多くが机に突っ伏して就寝中。
一人教科書を読み上げる教師を少々気の毒に思いながら、ヒロミが席に着くと、春道の背中が見えた。
結局、昼食は外に行かなかったのか。
春道は、また珍しく居眠りをしてもいなかった。
ヒロミが戻ってきたことに気づいたらしく、チラリと振り返る。
そんな気配がした。
ヒロミは春道の方を見ず、空の机をのぞきこみ、教科書を探すふりをしていた。
そのうち、春道は諦めたのか、前方に向きなおる。
ヒロミはようやく頭を上げた。
同じ教室にいれば、どうしたって視界に入る、派手な金髪とスカジャンの背中に居たたまれない。
ヒロミは、阪東とのことを春道に話してはいなかった。
春道だけでなく、ポンやマコにも。
要するに、誰にも話していない。
もちろん、殊更に喧伝するようなことではないけれど。
隠している、という意識が、はっきりとヒロミにはあった。
おそらく、同性だから、というのが理由ではない。
また、かつて敵対していた相手だから、というのでもなかった。
ヒロミは、空の机の下に手をやって、自分の腹に触れた。
上半身裸の上に学ランだけ羽織り、腹を晒して街を歩いていても、恥ずかしいなんてヒロミは感じたことがない。
剥き出しの腹も胸も、女じゃねえんだから当たり前だ、と思う。
それが、二人きりの場所で、阪東に見られると、何故かとても恥ずかしい。
ただ硬いだけの腹が、あの長い指に触られると、途端、性感帯になる。
ヒロミは、腹に当てた手を、ぎゅっと握り拳にして、奥歯を噛んだ。
溺れている、という自覚が、はっきりとある。
だから言いたくないのだ、とヒロミは思った。
こんな自分を友達には見せたくない、と。
そこまで考えて、ヒロミは再び春道の背中を見た。
赤いスカジャンの大きな背中に、自嘲気味の笑みがもれる。
俺はお前を友達だと思ってたんだな、と今更ながらに気づいた。
本日最後の授業が終わって、ヒロミは昼休みのときと同様、慌ただしく教室を出た。
今度は春道も声をかけてこない……というか、そもそも六限に出ていなかった。
下駄箱のところで靴を履きかえていると、「ヒロミさん!」と誰かが駆け寄ってきた。
何だよ急いでるのに、と思いつつ、ヒロミは顔を上げる。
今度も、声だけでヒロミには誰か分かった。
二年の下駄箱の方から来たヤスは、ヒロミの前まで来ると、キョロキョロと周りを見た。
「ヒロミさん、早いっすね」
そう言って、次に、「春道君は?」などと聞いてくる。
「一緒じゃないんすか?」
聞かれて、何で……と言いかけたヒロミは、そこで思い出した。
思い出して、しまった、と思った。
今日の放課後、いつものメンバーでカラオケに行く話になっていた。
そうだった、どうして忘れていたのか。
約束をしたのは、ほんの二、三日前のことだ。
また、タイミング悪いことに、そのとき、廊下の方から、これも聞き知った声が聞こえてきた。
「あ、本城さんだ」
ヤスが言う。
ポンが来たということは、声こそ聞こえないが、きっと同じクラスのマコも一緒だろう。
ヒロミは、慌てて靴を履きかえて、ヤスに言った。
「悪ぃけど、俺、急用ができたから」
靴を履いて、足元の鞄を掴む。
「お前らだけで行ってくれ」と言うと、ヤスは残念そうな声を上げた。
「ヒロミさんが来ないとしまんないっすよ」などと、普段ならありがたい、けれど今は迷惑なことを言って、引きとめる。
一時間くらい何とかならないか、などと言われても、無理なものは無理だった。
下駄箱の向こうに、ポンとマコが姿を見せ、もうダメだ、とヒロミは踵を返す。
「オフクロが、その……つまり、バイトで……違う、とにかく急用なんだ!」
最終的には、怒鳴りつけるように言い捨て、その場を去った。
「今のヒロミか?」とポンの声が背中を追いかけてくる。
ヤスは呆気に取られた顔をしていた。
何だこのザマは、と校庭を横切って走りながら、ヒロミは思った。
自分は、もっと嘘が上手かったはずだ。
本来なら、ポンとマコが来た後、三人を前にしても平然と嘘を並べられる。
急用なら急用で、もっともっともらしい作り話のできる、悠然とあの場を去ることができる、そういう人間だったはずだ。
何だこのザマは、とくり返し思う。
きっと、ヤスにも、ポンやマコにも変に思われたに違いない。
そう思いながら、それでも足は止まらない。
砂埃の中、遠景になった校舎の屋上で、何かがキラリと光る。
視界の端でそれを捕えて、春道だ、あそこでサボってたんだ、と思い、それでもやはり。
この後、自分を待っている阪東との時間。
ひりつくような、あの男の欲望が、今は何ものにも替えがたかった。
走りながら、思い切るように舌打ちを一つ。
ヒロミは鈴蘭を後にした。
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LLはLunchtimeLoversの略。恥ずかしいのでそのままは出せず。
注意書の「性描写あり」を付けるか否か迷って、結局付けました。用心に越したことなしで。この程度で!?と思った方がいらしたらすみません。
恋をして、ヒロミの普段の冷静さが崩れて、自己嫌悪に陥ったり慌てたりしたらかわいいなあ、と思って書きました。
裏テーマは、二年越しでヒロミを手に入れた先輩のはしゃいだ感じ。好かれて嬉しいんですよ。
春道とヒロミの、少し遠い距離感が好きです。
ヒロミは、もし春道が望めば、嬉々として2の仕事をしまくったと思うんですが(それこそ汚いことでも)、しかし、それを望まない春道だからこその、欠けたとこなんてねーぜ、なんだろうとも。