明日死ぬ虫の交尾






血の出るような痛みを伴う表現があります。
SMっぽいというか、何というか……。
苦手な方には申し訳ありません。






 目が覚めて、テレビをつけると、タモリだった。
 まだ昼じゃないだろう、と携帯電話を開く。
 ヒロミからの、着信もメールも入っていない。
 そのことを苦く感じながら、時計を見ると、やはり、まだ午前中だった。
 ああ今日は日曜か、とようやく思い至る。
 枕元には、曲作りに使っているノートがあった。
 昨夜、寝る間際まで未練がましく開いていたものだ。
 そんなことをしても、まるで成果はなく、白紙のページが阪東を嘲笑う。
 体を起こすついでに掴んで壁に投げつけた。
 頭を掻きながら立ち上がる。
 阪東の寝ていた部屋も、台所も、シャワーを浴びようと向かった風呂場も、おそろしいほどシンとしているように感じた。
 いいとも!と能天気なテレビの音があるにもかかわらず、だ。
 ヒロミが来る前の一年間、この場所に、一人で暮らしていたことが、もはや信じられない。
 阪東は、思い切るように首を一つ振ると、風呂場の扉を開けた。



 シャワーを浴びると、ようやく完全に目が覚めた。
 髪を洗って、さっぱりした頭をタオルで拭き、いつのまにかタモリの次の番組になっていたテレビを消す。
 ふう、と息をつく。
 今日は日曜日、と起き抜けに確認したことを、頭の中で復唱した。
 ということは、明日は月曜日だ。
 シャワーを浴びて、いくらか覚めた頭に、今度は現実が押し寄せてくる。
 月曜日は、数日ぶりにバイトに出る日で、つまり、数日前、毎日来る気はないか、と阪東に言ってくれたオッサンのいる現場に出る日だった。
 どうするよ、と自問する。
 どうするよ、と言って、さすがに誘いに乗る気はない。
 さすがに、もうない。

 その気はないけど、どうするよ。

 考えているうちに、時間はどんどん過ぎていく。
 気づけば、太陽が、空の一番高いところにあった。
 まぶしいな、と阪東は目を細める。
 窓際から、日の当たらない場所に移動しようと、腰を浮かせかけた。
 そのときだった。



 ガチャガチャと忙しない音がした。
 次いで、部屋のドアが。

「……」

 開いた。
 阪東は、目を丸くする。
 開いたドアの向こうには、ヒロミが立っていた。
 走ってきたらしく、汗に濡れた額を手の甲で拭い、ついでのように金髪をかき上げる。
 もどがしげに靴を脱ぎ、足音も高く部屋に上がってきた。

「ヒロミ」

 阪東が呼ぶ。
 ヒロミは、台所と阪東のいる部屋の間で立ち止まり、たったいま気がついたかのように阪東を見た。

「何てツラだ」

 つぶやいて顎を引き、阪東を睨んだ。

「てめえ」

 阪東は、ふらふらと立ち上がる。
 頭のどこかでは、もしかすると、二度と帰ってこないかもしれない、と思っていた。
 そのヒロミが、突然、目の前に現れた。
 驚きに目を瞠り、喜びに口元が緩む。
 どこに行っていた、何をしていた、など、聞きたいことは山ほどあった。
 しかし、それらの全てが……ヒロミの姿を見た瞬間、声を聞いた瞬間、弾けとぶ。
 ここ数日、萎れていたのが嘘のように、湧き上がった衝動は、とても懐かしいものだった。

 金髪、濡れた白い額、ヒロミの目、そして、俺の好きな声……。

 ふらふらと立ち上がり、歩み寄る。
 いぶかしげな顔をするヒロミの前で、おもむろに身をかがめ、そのとき、手近にあったのは、ギタースタンドだった。
 なけなしの理性で、楽器本体ではなく、スタンド。
 つかみ上げて振り上げる。
 倒れたギターが悲鳴を上げた。
 おそらくは無意識に、頭だけ庇うのは、ある意味喧嘩慣れしているからなのか。
 ヒロミは、苦痛の一声も上げなかった。
 細いパイプが曲がってしまうほど打ち据えて、ようやく落ち着いた。

「どこ行ってた?」

 息を切らしながら、阪東は聞いた。
 ヒロミに聞きたかったことを、ようやく思い出した。
 ギタースタンドが床に落ちて、派手な音を立てる。
 ヒロミは、部屋の壁に背中をもたれるように倒れて、下を向く。
 赤いものがぽつぽつ床に落ちた。
 そのヒロミの前に立って、言え、と阪東は言う。
 しかし、答えの代わりに、ヒロミが返したのは、笑い声だった。
 項垂れたまま、膝に口を押し当てるようにして笑う。
 くぐもった声が不快で、阪東は、笑うな、と言った。
 自分の耳が、ヒロミの声を不快に感じるなんて初めてだった。
 その事実は阪東を戸惑わせ、たまらずヒロミの襟首をつかんだ。
 グッと引いて、顔を上げさせる。
 まだ痛い目にあいてえのか、と言うと、ヒロミは首を横に振った。
 腫れた瞼の下に、とろりと蕩けたような目があった。
 襟首をつかまれた態勢のまま、ヒロミはなおも笑い、息が苦しい、と肩を揺らしながら、

「阪東」

 阪東の名前を呼んだ。
 良かった、とつぶやく。

「良かった、お前まだできんじゃん、こういうこと」

 蕩けた目で見つめられ、襟首をつかんでいた手を思わず放す。
 言われた意味が分からない。
 そう視線で返すと、放した手を追うように、ヒロミの手が伸びてきた。
 ヒロミの鼻から垂れた血で、阪東の親指の付根から下が赤く染まっている。
 ヒロミは、その手を包むように握った。
 足元のギタースタンドに、次いで、倒れたギター本体に視線を遣り、

「かわいそうだな、ギブソン」

 そう言った。

「ギブソンじゃねえよ」

 阪東は答える。
 そんなつもりはないのに、声が上ずった。
 ヒロミは、阪東の手を引いて、自分の前に膝をつかせた。
 間近にしたヒロミの目に、さっきまでの蕩けた熱はもはやなく、阪東は何となく安心する。
 握られた手を返して、指を絡めると、ヒロミは照れたように笑った。
 その後、ふいに真顔になって、

「何にも言わずに留守にしたのは悪かった」

 そう言う。
 変なところで真面目な奴だ。
 ほんの数分前の自分の怒りは棚に上げて、阪東は、そう思う。

 でもさあ、とヒロミは俯き、消え入りそうな声で言った。

「お前も悪い」

 バツが悪くて、阪東は横を向く。

 そうだ、たぶん、たぶんじゃなくて、きっと俺が悪い。

 ふてくされた気分で考えていると、阪東の指と絡んだヒロミの指に、ギュッと力が入った。
 俯いていた顔を上げる。
 阪東が見ると、ヒロミは、血の気のない顔で阪東を見つめて、ちょっと笑った。
 今更なんだよ、と言う。

「俺は、そういうのはいらない」

 今更いらない。
 受け取れねえよ、とヒロミは言った。

「……そういうのって何だ?」

 小さな目の中の、小さな黒い瞳に吸い込まれてしまいそうな。
 そんな感覚に襲われる。
 そういうのだよ、とヒロミは言った。
 ヒロミは、とても勘がいい。
 それは、阪東も知っている。
 けれど、次の瞬間、ヒロミが口にした言葉に、さすがにコイツはエスパーなんじゃないかとか何とか、阪東は思った。
 だからさあ、とヒロミはまた笑う。

「だから、休みの日に家族でミニバン乗って、テーマパークとかショッピングモールとか……そういうのだよ」

 俺は、そういうのはいらない。
 お前のせいじゃなくて、元からダメなんだ、そういうのは。
 だから、お前がバンドに誘ってくれたとき、俺はうれしくて……。
 何か、他の道もあるってことに初めて気づいて、うれしくて。
 音楽とか、自分がやるなんて全然考えたことなかったけど、もう、それだけで十分だと思ったんだ。
 だから、飛びついたんだ。
 俺が欲しいのは、本当に、それだけなんだ。
 なあ、阪東。

 まくし立てるように、ひと息に言うと、ヒロミは、ふと言葉を切った。
 阪東の手を引く。
 失望はしねえだろ?と、なぜか甘い声で言った。

「だって、お前が欲しいのって、そういう俺だろ?」

 そう言って、阪東を見たヒロミは、ヒロミには珍しく傲慢な顔をしていた。
 嫌になるほど、自分と似ている。
 ヒロミは、阪東の手を引いて、自分の足を触らせた。

「ブレイクスルーなら俺がやる」

 再び、エスパーめいた台詞を吐くと、呆然と見ている阪東の前で、ジーンズのボタンを外した。
 ファスナーの小さな引手を摘まみ、下ろした。
 ヒロミが何をしようとしているのか、遅まきながら気づいて、阪東は眉根を寄せた。
 その阪東の表情に気づいて、違えよ、とヒロミが言う。
 何が違うと言うのか。
 馬鹿にしてんのか、と言った阪東の、首にふわりとヒロミの腕が回った。
 引き寄せられ、ヒロミの肩口に額をつけて、阪東は見た。
 前開きのファスナーの下には、下着がある。
 ヒロミは、阪東の首に回したのとは逆の手で、下着をグッと下ろした。



 そこに現れたものに、阪東は、わが目を疑った。

「ヒロミ……」

 呼んだ声の、大方が呼気の中に消える。
 ぐう、と喉が鳴った。

「これ何だ?」

 阪東が指さすと、ヒロミは笑った。
 開いたファスナー、下着の中には性器がある。
 当然だ。
 そんなことで阪東は驚かない。
 ヒロミは、阪東に見せつけるようにファスナーを開け、自ら下着を下ろした。
 そんなことでも、今更。
 驚かないが、見慣れた場所に現れた、ヒロミの性器に、阪東は息を呑んだ。
 ヒロミの性器、正確には、性器の先端近くに付いている物に。

「ピアスだろ」

 しかし、ヒロミは事もなげに言った。
 ピアス、と阪東は思わず復唱する。
 指で掬うように持ち上げると、ヒロミは、少しだけ眉を寄せた。
 上から見ると、ネジの頭のようだったそれは、下から見ると、ボルトのような形状の金属だった。
 裏筋から尿道を貫通している。
 ボディピアスの中でも、性器にするそれのことを、阪東も、知識としては知っていた。
 が、実物を見るのは初めてだった。
 開けて間もないものらしく、穴の周囲は赤くなっている。
 自分の体でもないのに、何となく股間が苦しくなる。
 しかし、痛えだろ、と阪東が言うと、ヒロミは、今はそんなでも、と答えた。
 笑いを含んだ声で、けれど、何でか、ひどく真剣な表情になっている。
 何だコイツ、というのが、正直なところだった。
 これが、ヒロミの言うブレイクスルー、俺に与えてくださるそれなのだとしたら、ずいぶん馬鹿馬鹿しい話だ。
 そう思い、また、口に出しても言った。

「馬鹿みてえ」

 阪東はつぶやく。
 ヒロミは、一瞬泣き出しそうに顔を歪め、それから、眉を下げて笑う、独特の表情で阪東を見た。
 萎えた性器を指でいじる。
 午後の光が部屋の中に射し、ヒロミの金髪が日に透けてキラキラするのが、無駄にきれいでおかしかった。

「開けた店で、しばらくセックスするなって言われたんだ」

 ヒロミが言った。

「傷が治るまで、雑菌が入るから、ダメなんだってよ」

 自らの指で弄び、大きくしていく。
 ヒロミは、半勃ちになったそれを、阪東の手に握らせた。
 ギュッと、一気に血が集まる。
 熱くなったペニスの先、親指の腹で押しつぶすように触れた、金属だけが少し冷たい。
 阪東は、ごくりと喉を鳴らした。
 でもさあ、と至近距離でヒロミが言う。

「それって、俺がお前とやるときみたいなこと、考えてねえよな」

 阪東は、目を瞠る。
 やろうよ、と囁かれた。
 やっぱりそれか、と苦笑いした阪東の唇に唇を寄せて、いいだろ、と追い打ちをかける。

「馬鹿みてえで結構だ」
 耳元で声がする。
 抱き合って転がると、倒れたギターに足が当たった。
 何のコードともいえない音が鳴った。
 確かにそうだ、と頷いて、阪東はヒロミの誘いに乗った。






 翌朝、阪東は、目が覚めるとすぐに電話をかけた。
 かけた相手は、本日行く予定の現場の責任者、つまり、あのえらいオッサンだ。
 阪東が、先日の誘いを断る旨を告げると、オッサンは、そうか、と言った。

「カミさんはいいって言ったのか?」

 またそんなことを言う。
 カミさんじゃねえよ、と阪東が言うと、じゃあ何だ?と聞かれたが、阪東は答えなかった。
 ついでに、今月いっぱいでバイトを辞めたいと言うと、残念だな、とオッサンは言った。
 意外といい奴なのかもしれなかった。
 それから、事務的なことを二、三話して、電話を切った。
 知らず詰めていた息を吐く。
 背中に視線を感じて、振り返ると、布団に半身だけ起こしたヒロミが、こちらを見ていた。

「何てツラだ」

 阪東は言ってやる。
 ヒロミはハッと気づいた顔になると、阪東を睨んだ。
 阪東が笑うと、ようやく安心したように息をついた。






 阪東はギターを弾く。
 後ろに座っていたヒロミが、熱心だな、と言った。

「まあな」

 阪東は言う。

「しばらく弾いてなかったから、指が固まっちまった」

 そう言うと、そうかよ、とさして興味もなさそうに、ヒロミは言った。
 おまけのように、大変だな、とも。
 ヒロミは、さっきから阪東に背中を向けて、ゴソゴソと何かやっている。
 チラリと見えた消毒薬のボトルで、阪東は、ヒロミのしていることに気づいたが、特に何も言わなかった。
 からかって楽しい相手ではない。
 その代わり、阪東が口にしたのは、もっと別のことだ。

「次のライブ、決まったぜ」

 そう言うと、ヒロミは、おう、と返した。
 不義理をしたイベンターに頭を下げに行ったときには、二人一緒だった。
 そのためか、特に驚いた様子はない。
 ゴソゴソしていたのが、どうやら終わったらしく、ヒロミは立ち上がって風呂場の方に行った。

「練習どうする?」

 手を洗って戻ってくると、ヒロミが聞いてきた。
 週末からスタジオ、と言うと、分かった、と頷く。
 それからしばらく、ライブでやる曲や、サポートを誰かに頼むか、などの話をした。
 テーブルの上のノートを開き、そこに挟まれたレポート用紙を取る。
 新曲、と言って差し出すと、ヒロミは目を丸くした。
 やんの?と聞かれて、当たり前だ、と返す。
 ヒロミは、うれしそうな顔をして、

「何だこれ?」

 しかし、渡された紙に目を通すと、眉をひそめた。

「中出しの歌」

 阪東は答える。
 そんな反応は、まったく予想の範囲内だ。
 手元のギターから、顔も上げない。
 それは、毎日中出ししても、ニンシンしない恋人っていいな……と、そういう歌だ。
 久しぶりのライブで、今から気合の入るステージで、歌わせたい歌。

「サイテー」

 ヒロミが言う。
 目の前で、ひらひらする紙の気配を感じる。
 阪東は、思わず笑った。
 コイツ、チ○コにボルト通して、最低もクソもあるかよ、と思った。
 顔を上げると、レポート用紙片手にヒロミは眉をひそめて、けれど、口元が阪東と同じ、僅かに緩んでいた。

「馬鹿みてえ」

 そう言って、今度は、はっきりと笑う。

「馬鹿で結構だ」

 阪東は答えた。
 ヒロミの手から、レポート用紙をむしり取るように奪うと、曲の最初の音を弾く。
 自棄のように同じコードをくり返していると、ヒロミが乗ってくる。
 最低な歌を、大声で歌う。
 ヒロミの声を聴きながら、この歌を、世界で一番かっこいい歌にしてやる、と阪東は思った。






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たまに弱気になる阪東と、たまにでもそんなの許せないヒロミ。
あのときのお前でずっといてよ、とか、そんな感じです。
ヒロミは、今後ピアスの数を増やしたくなったら、先輩にやってもらえばいいじゃない。
……苦手な人には、本当に申し訳ないです。

1巻の鉄パイプが好きすぎて、先輩には、つい物でヒロミを殴らせたくなってしまいます。
あの場面、バイクで撥ねてから鉄パイプで殴る、の流れだと思いこんでいたんですが、さっき読み返して、バイクで追い抜きざまに殴り、バイクを降りて更に殴る、だと初めて気づきました。
どちらにしても悪いですね。






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