明日死ぬ虫の交尾






 その日のことだ。
 午後いっぱい腹が痛いと寝ていたヒロミは、夕方からバイトに出て行った。
 そして、そのまま戻らなかった。
 阪東は、まんじりともせず、夜を明かした。
 その夜だけでなく、次の夜も。
 ヒロミは、戻ってこなかった。



 どういうことだ、と阪東は思う。
 ヒロミがいない間、もちろん、阪東も出かけなかった訳ではない。
 だから、すれ違いになった可能性も……ねえな、と阪東は思った。
 たとえ一時間でも、一分でも、一秒でも、ヒロミが帰ってきたなら、その痕跡に気づけないはずがない。
 この自分が、と阪東は思う。
 その辺りは、自負がある。
 だから、自分が留守にしている間にも、ヒロミは帰ってきていない。
 理由は、一つしか思いつかなかった。
 一つ……否、二つ。
 阪東は、頭の中で指を折る。
 一つは、バンド活動をいったん脇に置いて、就職しようとしたこと。
 もう一つは、翌朝の失言だ。
 あれは、確かに失言だった。
 阪東にだって、それくらい分かる。
 自分たちのような関係の中では、決して口にしてはいけないことだった。
 後悔はある、が、反省はしない。



 孕めばいいのに、と阪東が言ったとき、ヒロミは頭まで布団を被っていた。
 上掛けの端からのぞいた金髪が、かすかに震えた。
 阪東が、そう言ったとき。
 大きく開いた足も、指先に触れた皮膚が、わずかに粟立った。
 だから、それだ。
 それしか考えられない。
 阪東は大きく息を吐いた。
 一人の部屋で、壁際のスタンドに立てられたギターが、こちらを睨んでいる。
 膝立ちで近寄り、パッパッと手で払った。
 ヒロミの言ったように、埃なんて被っていない。

「孕めばいいのに」

 壁に背をもたれ、阪東は言った。
 元々、子供好きなんてことはなく、ただ何となく口にした言葉。
 その先に自分が欲したのは、おそらく、漠然とした未来の幸福だ。
 ギターを払った手を払い、腕を伸ばして、窓を開ける。
 小さな部屋に朝の光が射し込み、けれど、澱んだ空気は変わらない。
 ただ、通りを行く車の音が飛び込んできただけだった。

「孕めばいいのに」

 もう一度言う。
 もし、そうなら、どんなにいいか、と思った。
 もし、ヒロミがそうなってしまえば……。

「……俺は諦められるのに」

 そこまで言って、奥歯を噛んだ。
 なるほど、と思い知る。
 夢を持って生きるのは苦しい。
 腐ってやがる、と吐き捨てて、阪東は、背後の壁を何度も拳で叩いた。
 何度も叩いて、それでも足りない拳をギターに打ちつけようとして……止めた。
 おそるおそる開いた手にも、壁にもたれてずり落ちた背中にも、つめたい汗をかいていた。
 ヒロミ、と呼ぶ。
 もちろん、返事はない。
 代わりに、窓の外で、車のクラクションが鳴った。
 顔をそちらに向ければ、ファミリーを満載したトールワゴンが。
 連なって走って行く。
 みんな、どこへ行くのか。
 今日は日曜だ。
 たぶん。
 正確なところは分からない。
 ライブ等の予定があれば別、今の阪東の生活に、基本、曜日は関係がない。
 予定があれば……と阪東は、ギタースタンドの横に放られた鞄を引き寄せた。
 筆記用具と、いつも曲を作るのに使っているノートを取り出す。
 せめて新曲でも、と思ったのだ。
 しかし、「せめて」なんて思って始めたのが悪かったのか。
 どれだけ待っても、何も降りてこない。
 詞も曲も、まるで思い浮かばなかった。

「クソッ!」

 ノートを投げる。
 こんな風に、一人でじたばたしているのが、自分でもおかしかった。
 馬鹿みたいだ、バンドが上手くいかなくて、弱気になって。
 ブレイクスルーが必要で、しかし、じゃあ具体的にどうしたら、というと、分からない。
 携帯電話を取って、ヒロミの番号にかけた。
 繋がらなかった。






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悩む先輩(珍)。
音楽をやっている人に聞いたら、ギターの人でも作曲のときは鍵盤を使ったりもするそうですが、この上キーボードとか出すとややこしそうなので止めました。
次で終わります。






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