ひでひろ





別の名前






「別の名前で呼べよ」
 囁くと、秀吉にしがみついていたヒロミが、うっすらと目を開けた。
 何を言われたのか分からない。
 そんな顔をしている。
 否、分からないふりをしている、か。
 ヒロミの顔を見て、秀吉はそんなことを思い、背中に回されたヒロミの腕を外すと、指先に唇を寄せた。
 ちゅ、と音を立てて口づけ、視線を合わせる。
 ヒロミの手は、どちらかと言えば小柄なヒロミのものらしく、あまり大きくはない。
 ごつくはなく、けれど、華奢と言うほどでもなく、しかし、秀吉は、この手を女の手だと思う。
 そう見える。
 指先に口づけ、手の甲に口づけ、視線を合わせたまま、秀吉はゆるく腰を使った。
「ン……」
 間近でヒロミが息をのむ。  嬌声を飲みこんで、秀吉を睨んだ。
 その目に確かな媚の色をみとめ、秀吉は喉の奥ふかく、ヒロミに気づかれないように笑った。
 再び腰を使いながら、ヒロミの耳に口を寄せる。
 上気した耳朶は、思わず噛みつきたくなる衝動を秀吉に与え、秀吉は、その魅力的な誘いに乗りたい気持ちをグッと堪えながら、もう一度囁いた。

「あの男の名前で、俺を呼んでもいいんだぜ」

 今度は、分からないふりなんてされないよう、ゆっくりと、はっきりと、一語一語、ヒロミの耳に注ぎ込むように。
 ヒロミの両目が見開かれる。
 秀吉がニヤッと笑う。
 ヒロミの顔が赤くなり、次いで青くなり、次の瞬間、秀吉が食らったのは、こんなことの最中だということが、まるで信じられないような、強烈な蹴りだった。
 こんなことの最中、すなわち、尻の穴に男性器を挿入し、挿入されている最中。
「ふざけんなよ」
 吐き捨てるようにヒロミが言う。
 思い切り蹴られて、ペニスがズルッと抜けて、ベッドから転がり落ちかけた秀吉の肩を、ヒロミが掴んで引き戻した。
 それは、親切心から、などでは全くなく。
 ヒロミは、腹に馬乗りの姿勢で、秀吉を殴った。
 さっきまでの媚が嘘のような冷たい目で、殺されるかもしれない、と思ったら、ひどく興奮した。
 笑ってんじゃねえ、とヒロミが言う。
 殴って、殴って、ようやく気が済んだのか、秀吉を離した。
 血がついた手を、いかにも汚いという感じにシーツで拭って、ベッドを出ていく。
「……ヒロミさん」
 呼びかけると、振り返った。
 筋肉のついた腕に、あばらが浮くほど痩せた腹。
 垂れ落ちる鼻血を手で押さえながら、変な体だ、と秀吉は思う。

 変な体、でも、俺の欲しい体。

 ぼんやり眺めていると、ヒロミはため息をつき、秀吉から視線を外した。
 バスルームの扉を開き、腕を伸ばしてタオルを取る。
「お前も懲りねえな」
 ため息一つで怒りを逃がした、そんな声で言って、中に消えていく。
 蛇腹の向こうでライトがついて、換気扇の回る音がした。

 やがて聞こえ始めるシャワーの水音に耳を澄まし、秀吉は、思わず笑い出したくなった。
 ヒロミとセックスをしているとき、自分のことをあの男の名前で呼んでいい、と。
 そう言ってヒロミから殴られたのは、これが初めてじゃなかった。
 たぶん、もう両手の指でも足りないくらい。
 そのたび、ヒロミは秀吉に言う。

 お前も懲りねえな。
 学習能力がねえのか。
 てめえ、いい加減にしろ。

 けれど、何と言われようと、何度殴られようと、止めるつもりはなかった。
 それは、ヒロミが言うように、学習能力がないからじゃない。
 むしろ逆だ。
 秀吉は、転がっていたベッドから体を起こし、ヒロミの後を追った。
 バスルームの扉を開けると、ヒロミは、眉根を寄せて振り向いた。
 濡れて額に貼りついた金髪の間からのぞく目は、ついさっきの冷たさをもう忘れていて、ホッとするより先に、惜しいな、と秀吉は思う。
 秀吉が手を伸ばすと、ニヤッと笑って、すばやく腰をかがめ、シャワーの温度を調節するための栓を捻った。
 赤い方から青い方へ。
 頭から冷水を浴びせられた秀吉が、思わず情けない声を上げると、ばーか、と言って笑った。
「俺もう帰るし」
 金置いとくから、お前は勝手にしろ。
 そう言うと、冷水シャワーを床に放り出し、バスルームを出て行こうとする。
 俺だけ残して、と思ったら、手が出ていた。
 ヒロミの腕を掴んで引き寄せる。
 逸らそうとしたヒロミの顎をとらえ、キスをした。

 あんたの怒ってるときの顔が大好きだ。

 鳩尾に肘が入って、秀吉は濡れたタイルの床に膝をつく。
 見下ろすヒロミは、唇をつり上げて笑った。
「調子にのんなよ、ガキ」
 口元だけで笑い、笑いながら甘い声で、囁くように言う。

 たぶん、俺の目が腐ってるせいだと思うけど。

 その顔が、とてもきれいだ、と秀吉は思う。

 とてもきれいで、だけど、俺は、さっきの顔の方が好きだ。

 さっきの、あの男の名前で、と秀吉に言われたときの顔。
 ぶ厚いガードの下から、秀吉がいつも見たくて見たくてたまらない、ヒロミの地金がのぞく。
 それが見られるなら、殴られようと蹴られようと、セックスが途中で終わろうと。
 全然かまわなかった。
 それくらい、あんたにイカれてるんだ、とヒロミに。
 言ってやりたいと思い、次の瞬間、言ってどうする、と思う。
 秀吉は踵を返し、もう振り向かず出ていくヒロミの背中を見送った。
 硬いタイルの床にひざまずいたまま。
 小さい尻が扉の向こうに消えて、知らず、詰めていた息を吐く。
「ヒロミさん」
 聞こえないことは承知で呼んだ。
 本当は、別の名前、なんて漠然とした言葉じゃなくて、あの男、なんて指示語じゃなくて。
 まるで祈るように、秀吉は考える。



 いつか、俺のこと阪東って呼べよって言って、俺と繋がったままのあんたに殺される。
 あんたに言うつもりはないけれど、それが、今の俺の夢。






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