同病相憐 2
ある午後のことだ。
秀吉は、鈴蘭から三つ離れた駅前のファミレスで、軍司と向かい合っていた。
「……」
「……」
ドリンクバーのカップを間にはさんで、別に、好き好んで、こんな場所にいるわけじゃない。
しかも、こんなヒゲ面と。
秀吉は、対面の軍司の顔をチラリと見た。軍司は、着席した直後から黙りこみ、秀吉の顔を睨むように見るばかりだった。
(何なんだよ、コイツは……)
チッと舌打ちして、秀吉は、胸ポケットのソフトケースを探った。
一杯目のカプチーノは飲んでしまったけれど、立ち上がってお替わりを取りに行く気にもなれない。対面の軍司は喋らないし、目下、秀吉には、喫煙くらいしかすることがなかった。
ことは数日前に遡る。秀吉は、ある後輩からケンカを吹っかけられた。
顔も知らない奴で、お前誰?と言った秀吉に、そいつは、誰でもいいだろ、と吐き捨てた。とりあえず、その時点で、まったく理由は分からなかったが、売られたケンカを買わずに済ませる秀吉ではない。あっという間に、ボコボコにしてしまった。
その後輩が、面倒なことに、軍司の下についている奴だったらしい。しかも、後から知ったところによると、少し前に秀吉が適当に遊んで、割とひどい振り方をした女子中学生の兄だった。
それはもう、名前も知らない彼の怒りもむべなるかな、というやつだ。
知らないうちに騒ぎは大きくなった。日頃の行いがアレなのも手伝って、二年生有志による秀吉襲撃計画が練りに練られたところで……、軍司が出てきた。
岩城一派のボスは、普段あんまり働いていない分、たまには事態を収拾してこい、とナンバーツーに蹴り出されてきたらしい。
原田も残酷なことをする、と秀吉は思った。
いつもの図書室で、いつもの漫画を読んでいた秀吉のところに、単身乗りこんできた軍司は、
「話がある」
そう言いながら、既に腹でも痛そうな顔をしていた。
秀吉の頭を下げさせることが、しかも、後輩相手に下げさせることが、どんなに困難なことか、軍司は知っている。知り抜いている、と言ってもいい。
顔に苦悩をにじませて、自分を見下ろす軍司を見ていると、秀吉は、何だかおもしろくなってしまい、面貸せと言われて素直に応じたのは、だからだった。
しかし、
「……」
「……」
今、秀吉は後悔していた。
学校から離れた場所の方がいいだろう、とわざわざ電車に乗り、この駅まで来て、ファミレスに入った。しかし、それから、
「……」
軍司は、まったく喋らない。
ガラガラの喫煙席に腰を落ち着けて、もう十分以上経つのに、だ。
これが、秀吉を相手に、どうやって話を始めればいいのか分からず、困っているのなら、まだ良かった。そうではないことが、秀吉には分かった。
軍司は待っているのだ。
秀吉を見る軍司の目は、傍から見れば睨んでいるようにしか見えないが、これが、本人は真摯な眼差しのつもりなのだ。こういう眼差しで、じっと見つめていれば、いずれ罪悪感にかられた秀吉が、自分から喋り出す。
そう、軍司は思っているのだ。
勘弁しろよ、と秀吉は思った。
それは確かに、男女関係において、自分にはちょっと不実なところがあるかもしれない。まだ異性に免疫のない中学生の女の子を、もてあそんで捨てるようなことも、しないとは言い切れないかもしれない。
だからって、別に犯罪をおかしたわけでもあるまいし。
そんな、自白を待つ刑事みたいな目で見られる筋合いはないと思った。これで自分の顔にライトが当てられていて、注文した覚えのないカツ丼でも運ばれてこれば、立派な取調べ室だ。
無言の見つめ合いに疲れた秀吉が、もう帰ろうか……と思った、そのときだった。
テーブルに置かれた、軍司の携帯電話が鳴った。
実は、ファミレスに入る前に、原田から軍司に一度電話があった。そのときとは、別の着信音だった。
黙ったまま秀吉を見つめて、ピクリとも動かなかった軍司が、その瞬間、ほとんど光の速さで電話を取った。
「はい!もしもし!」
大声を上げる。
店中の客がこっちを見ていた。
「はい!お、お久しぶりです。いや、そんな……え、ああ、○○駅のガ○トに……はい、秀吉と飯食ってて……え?マジっスか!?いや、全然!全然いいっス!はい!じゃあ、お待ちしてます!」
しかし、軍司は、そんな視線などまったく気づいていない様子で、携帯電話に向かって、ほとんど叫ぶような調子で、
(テメー、さっきまで黙ってたのは何だったんだ……)
まくし立てるように話す軍司を見て、秀吉は、うんざりした気分で思った。
通話を終えても、軍司は、しばらくの間、ポーッとした顔で、秀吉の頭の斜め上あたりを見ていた。
「おい」
「……」
「おい」
「……」
「おい!ってんだ!おい!」
そして、秀吉に何度も呼ばれて、ようやく夢から覚めたような顔で、秀吉を見て、
「あ?……おお、秀吉か」
そんなことを言う。
「は?」
秀吉は、思わず聞き返してしまった。
「テメー、岩城一派のボスとして、ここに来たんじゃねーのかよ?」
徒労感とともに言うと、
「え?ああ、そんなこともあったな」
そんなことを言う。
あんまり突然ふぬけてしまった軍司に、秀吉は怒らせるつもりで、
「その面、不気味なんだよ」
そう言ったが、
「ああ、そう?そうかもなあ」
などと、言われてしまう始末だった。
「……」
「……」
再び無言で、秀吉は軍司を睨みつけ、軍司は再び秀吉の頭の斜め上あたりに視線をやって、ボーッとしたまま、数分間。
「何があったんだ?」
耐え切れなくなったのは、秀吉の方だった。
これで無視したら、殴ってやろう、と思いつつ聞くと、軍司は、
「いやー、ハハッ」
照れたように笑って、頭を掻いた。
(……お前、本当に軍司か?)
そう聞いてやりたくなる。
軍司は、テーブルの上の携帯電話を取ると、それを両手に挟んだまま、胸の前で乙女の祈りのように手を組み合わせ、
「今から、ここに本城さんが来るんだ」
夢見るように、そう言った。
ゴッ!!
次の瞬間、秀吉は軍司の頭を、テーブルに叩きつけるように殴っていた。
「何すんだテメー!」
軍司は額から煙を出しながら、それでも、さすがの打たれ強さで、すぐに顔を上げる。
「俺ぁ帰るぜ」
秀吉は言った。馬鹿馬鹿しくて、つきあっていられない。
しかし、立ち上がろうとした秀吉の服の裾を軍司はつかんで、
「ダメだ!」
引く。ほとんど服が破れそうな勢いだった。
そして、ダメだ、行かないでくれ、俺を一人にしないでくれ、などと、まるで女に捨てられようとしている男みたいなことを口にする。
(お前、本当に軍司か?)
秀吉は、再び思った。
軍司が、ゼットンもかくや、というほどの馬鹿力で引っぱってくるので、このままだと本当に服が破られそうだ、と思った秀吉は、しぶしぶ着席した。
「何なんだよ、テメーは」
そして、言う。
テメーの先輩と会うのに、何で俺が同席しなくちゃいけねーんだ、と。そもそも、テメーが俺を呼び出した用件はどうなったんだ、と。
秀吉に詰問されると、さすがに多少は正気に戻ったのか、軍司は項垂れた。
「スマン」
体を小さくして、呟くように言った。
その姿を見て、秀吉は、自分が悪いと思ったら、すぐに謝りましょう、とその昔幼稚園で先生から言われたことを思い出す。ちなみに、秀吉自身は、その言いつけを、一度たりとも守れたことはない。
「で?」
秀吉は、小さくなった軍司の前に、肘をついて言った。どっちでもいいけど、何でだよ?と聞くと、軍司は、チラリと秀吉を見て、
「俺、卒業してから、ほとんど本城さんに会ってねーんだよ」
そう言った。
秀吉は、脱力してしまった。
それで、久々に会うのに、緊張するから俺にいてほしいって……。
「情けねーな、軍司」
秀吉が言うと、情けねーんだ、と軍司は素直に頷いた。
「あの人が卒業するとき、来年は俺が絶対に鈴蘭を獲るって誓ったのに、いまだにできてねえし、だから、何となく顔合わせづれーっていうか……」
項垂れて言う軍司に、秀吉は、アホか、と思った。
鈴蘭は、他の学校とは違う。そんなに簡単にトップなんて獲れないし、第一、
(テメーの言う「あの人」が、テメーにそんなこと望んでねーだろうし)
そんなことも分かんねーなんて、アホだな、と思った。目が眩んでいる、とも。何に目が眩んでいるかなんて、言うまでもない。
ため息をついて、二年前は坊主頭、今はリーゼントの軍司の頭を眺めていると、
「よう」
背後から、陽気な声が響いた。
秀吉より先に、その声に反応したのは軍司だった。
バッと、音を立てるような勢いで顔を上げ、
「お久しぶりです!」
立ち上がって頭を下げる。
一連の動作を、光の速さでやってのけた軍司に、秀吉は、思わず口をポカンと開けた。さっきまでの醜態はどこへやら、顔つきまでもキリッとしていた。
「何だよ、かたっくるしーな」
本城は苦笑する。
軍司は赤い顔をして下を向き、いや、その……などと言っている。
(モジモジしてんじゃねーよ、ヒゲが)
秀吉は思った。呆れて物も言えないとは、このことだ。
「お前も久しぶりだな」
本城は、秀吉の方を見て言った。
「ハア……」
秀吉は応える。あいまいに会釈のようなものを返すと、本城は、
「お前ら何か食った?俺チョー腹減ってんだ」
などと言いながら、秀吉の隣に腰を下ろした。
「……!!」
瞬間、ひどくショックを受けたような顔で、軍司が秀吉を見る。
言葉にならない声が聞こえたような気がして、知るか、と秀吉はため息をついた。
本城は、単に秀吉の座っているソファの方が、自分の立っている位置に近かったから、そちらに座ったに過ぎない。そういう人だろう、と秀吉は軍司に目配せする。
(何で、あんまりちゃんと喋ったこともない後輩の俺に分かることが、テメーに分かんねーんだ)
そう言ってやりたかったが、なけなしの友情で止めておいた。
どうやら本当に空腹らしく、本城は、着席するとすぐにメニューを広げた。何食う?何食う?と急かすように言って、秀吉と軍司の方へもメニューを押して寄こす。
秀吉は、俺腹減ってねーんで、と言って席を立った。
ドリンクバーの方に向かう秀吉と入れ替わりに店員が来て、本城が、何とかハンバーグのセットを頼んでいるのが聞こえた。
「じゃ、じゃあ、俺も同じものを……」
ついでに、そんなことを言っている軍司の声も。
一派の奴らが聞いたら泣くな、と思った。どの面さげて言ってやがる、とカフェラテを注ぎながら振り向けば、ばっちりキメたリーゼントの、剃りこみのところまで赤くなっていた。
「お前も何か頼めばよかったのに、俺奢ったのに」
何とかハンバーグセットをたいらげ、満足したらしい本城は、食後のコーヒーを飲みながら、秀吉に言った。
「いや、俺はマジで腹減ってないんで」
秀吉が答えると、そうかよ、などと言って苦笑する。
秀吉は、その本城の顔を注意深く観察した。向かいの席から、本城さんに変なこと言ったら承知しねーぞ、と言わんばかりの視線を投げかけてくる軍司に気づかれないよう、注意深く。
観察して、普通の男だ、と秀吉は思った。
不細工では決してない。屈託なく笑う顔は、年上に対して何だが、かわいらしいと言えないこともないかもしれない。でも、
(普通の男だ)
そう、秀吉は思う。
どんな思い入れがあって、軍司が本城に対して「こう」なってしまうのか、どうしても理解できない。かと言って、疑問を少しでも口にすれば、同種の礫が自分にも飛んでくるだろうことは、容易に想像できた。
結果、黙るしかない。
鈴蘭を卒業した後、駅前のバイク屋で働いている本城は、今日も職場の制服と思しきツナギ姿だった。ツナギの上だけ脱いで、腰のところで袖を縛って、下にはTシャツを着ている。
Tシャツの胸に書かれたロゴに、何となく見覚えがあるような気がして、秀吉は瞬きした。
「お、これか?」
すると、秀吉が気にしていた軍司ではなく、本城自身が秀吉の視線に気づいて言った。
Tシャツの胸のロゴを引っぱる。そんな何気ないしぐさに、明らかに動揺している男が一人。けれど、動揺させた本人であるところの本城は、それには全く気づいていない様子で、
「この前さあ、もらったんだよ」
そう言って、秀吉の方を見て、
「ヒロミに!」
満面の笑みを浮かべた。
「あ、ヒロミさんのバンドのやつっスね」
ファミレスのテーブルに乗り出して、軍司が言う。
相変わらず赤面しているし、声は上ずっていた。本城の胸元をのぞきこむ、という行為に、興奮と後ろめたさのない交ぜになった、複雑な気持ちを抱いていることが、明らかに見て取れる。
が、秀吉はもう、そんなことはどうでもよかった。
テーブルの隅に置かれた、おしぼりをぎゅっと掴む。手のひらに汗をかき、小刻みに指が震えていた。
さっきの軍司と同じくらい、ひょっとすると、それ以上に、動揺している。
その原因は、
(テメーだ)
秀吉は、隣の本城を睨んだ。
もはや、軍司の視線を気にする余裕もない。
油断しているところに、いきなり。本城の口から出てきた名前に動揺した。
また、動揺してしまった、という事実が、更に秀吉を追いつめる。
何とか心を落ち着かせようと、カフェラテを啜ったところで、
「どうした?秀吉」
そんなつもりはおそらくまったくなく、再び本城が、
「何かすげー顔赤いけど」
そう言った。事実上のとどめとして。
秀吉はもう、鼻とカップに沈めて、窒息してしまいたい気分だった。
沈黙すること数分、
「……ヒロミさんから、もらったんスか?」
そのTシャツ、とようやく秀吉は口を開く。
「お、おお……」
こちらも黙ったまま、秀吉の様子を見ていた本城が答え、何でかつられて軍司も頷いた。
「どこで?」
秀吉が聞く。
「横浜」
本城が答える。
そして、ヒロミんちに泊まりに行って、と秀吉にとっては聞き捨てならないことも、
「泊まりに行ったんスか?」
口にする。
秀吉の対面から、本城さんに変なこと言ったら殺すぞ的視線を軍司が送ってきたことには気づいたが、応える余裕もない。
うん、ヒロミんちに泊まりに行った、と本城は言った。
「ヒロミさんちに……」
秀吉は反芻する。声音に、誰がどう聞いても嫉妬としか思われないような響きが混じっていたが、もう。
「大丈夫か?秀吉」
本城が聞いてくる。
今の自分は、よっぽどひどい顔をしているんだろう。
会話の途中で、ちょっと名前が出てきただけで、何てザマだ、と秀吉は思う。もう二年も経つのに、未だに強く執着していることに、初めて気づいた。
こうなったらもう、と秀吉は、半ば開き直った気分だった。
「大丈夫ッス」
答えて前を向く。
軍司も、殺すぞ的視線をさすがに収め、困惑した顔で秀吉を見ていた。
(そうだ、コイツだ)
その顔を見て、秀吉は思い出す。
なぜ、自分が、ヒロミの家というワードに反応してしまったのか。
ひと月ほど前のことだ。
何がきっかけだったか忘れたが、秀吉は軍司と、それに確かゼットンと、卒業後の進路の話をした。
地元で家業の左官屋を継ぎたいという軍司。まだ決めていないというゼットン。
まあ、お前はまず卒業できるかが問題だよな、というセリフを挟んで、秀吉は、自分の心積もりを打ち明けた。
具体的に何をするかはさておき、とりあえず、東京に出たい。
しかし、それに対して二人から返ってきたのは、思いがけずネガティブな反応だった。
曰く、きちんと何をするか決めてから上京しろ。東京は恐ろしいところだ、人さらいが出るんだぞ、とこれは主にゼットンから言われた。
人さらい云々はともかく、何をするか決めてから、というのは、もっともと言えばもっともなご意見だったので、秀吉は特に反論しなかった。同じようなことは、既に親からも言われて、知ったことか、という気分だったこともある。
しかし、それ以上に二人から言われたのは、都会の暮らしにくさだった。特に家賃が、そう、家賃がとても高いらしい。その点について、秀吉は、二人から散々におどかされた。
風呂なしのアパートになんか、お前住めねーだろ、と言われれば、まあな、と頷く他ない。
ほんの少し上京を迷い始めた秀吉に、都会の家賃が高いことの実例として、軍司が出してきたのが、ヒロミの話だった。
(そうだ)
困惑した様子の軍司を、秀吉は睨む。軍司は気圧されたようにのけぞり、本城は、秀吉と軍司の顔を交互に見た。
(この(元)ジャリッパゲが、余計なことを言いやがったんだ)
秀吉たちより二年先輩で、本城と同級生のヒロミ。
秀吉が、いまだ執着している(ことを今さっき自覚した)桐島ヒロミは、高校を卒業した後、地元を出た。音楽での成功を夢見て上京したが、いまだ駆け出しで、要するに金がなく、そのため、同じバンドのメンバーと、狭いワンルームに同居している。
「男二人でワンルームだぜ」
大変だろう、とばかりに軍司は言った。都会暮らしの実例として。ゼットンも軍司に同意して頷いた。
が、その言葉は、
(あの人が、誰かと一緒に暮らしてる)
秀吉の耳には、まったく別の意味をもって響いた。
誰か、と面倒な表現を用いる必要も、本当はない。同じバンドのメンバーと言われれば、それ以上聞かなくても、誰か分かった。
秀吉は打ちのめされ、それなのに、軍司は(たぶん無意識に)追い討ちをかけてくる。
「そんで、そのバンドのメンバーっていうのが……」
そう言った。ご丁寧にも、教えてくださろうとする。その続きは、聞きたくなかった。
鈴蘭の卒業生で、ヒロミの一年先輩で、秀吉が一度も会ったことのない……。あの男だ、と秀吉は思った。
思った途端に、頭に血が上る。気がつくと、阪東の「ば」の字に口を開けたまま、殴り飛ばされた軍司と、唖然としたゼットンの姿が目の前にあった。
そうだったな、と思い出す。
そういえば、あのとき殴っていた。ちゃんと殴っていた。
じゃあ、とりあえず今回は許してやろう、と睨みつける視線をやわらげる。何なんスかね?と言いたげに、軍司は本城を見た。
つまり、秀吉が、ヒロミの家、というワードに過剰に反応してしまうのには、そういう理由があった。
嫉妬の対象は、ヒロミの家に泊まりに行ったという本城ではない。
本城がそこに行ったのなら、ヒロミとともにいたはずの男。
(阪東ヒデト)
本当は、名前だって思い出したくない。
秀吉は、手に持っていたカップを、打ちつけるように置き、タバコに火をつけた。
「ほ、本城さん、横浜行ったんスか?」
秀吉が少し落ち着いたのを見て取ってか、軍司が言った。
(秀吉のせいで)硬くなった場の雰囲気を変えようと思ったのだろう。健気だな、と紫煙を吐きつつ、秀吉は思う。
「おお、あちこち行ったよ」
ベタだけどベイブリッジとか、と本城が応じる。ヒロミがバイト休んでつきあってくれてよ、と言って、チラリと秀吉を見た。
からかうでもない、いっそ気遣わしげな視線に、気づかれたな、と秀吉は思った。そして、当然か、とも。
さっきまでの自分は、自分らしくもない。いくらなんでも、分かりやすかった。
大人になろう、と心から思う。
空になったカップを見て、
(今度はカフェラテじゃなくて、ブラックコーヒーにしよう)
そう思いながら、秀吉が立ち上がろうとした、そのときだった。
「そういえばさ」
本城が言った。
昼間はあちこち観光して、夜はヒロミと飲んでヒロミの家に戻って、それから家飲みになった、という話の中で、
「阪東とも飲んだんだよな」
今日は、本城が、よくよく秀吉の地雷的なものを踏む日なんだろう。
暫定この世で一番嫌いな男の名前を耳にして、秀吉は立ち止まる。ゆるりと、一瞬にして纏った剣呑な空気でもって、振り返った。
「阪東って、阪東さんっスか?」
しかし、二人は気づかない。
特に軍司は、いったんは秀吉の様子がおかしいのに正気に戻りかけたのが、再び目の前の本城にのぼせ上がって、秀吉どころじゃない、という感じだった。阪東って、阪東さんっスか?と、一つも情報の増えていない相槌を返して、赤い顔で、自分のヒゲなど触っている。
「そう、阪東、あの阪東」
「へー、意外っスね、何か」
「だろ?俺も阪東と飲んでるとか信じらんねー、っても、ヒロミが風呂入ってるときにちょっと話したくらいなんだけどさ」
「はー、あの人、どんな話するんですか?」
「何だったっけな、あー……、そこ記憶飛んじゃってんのよ、俺」
そう言って、本城はカラカラと笑った。
「使えねー」
聞き耳を立てていた、秀吉は思わず呟く。
二人が話しているテーブルに戻って、カップをテーブルに置いた。ガチャンと音が立つ。
「ンだ?秀吉」
本城さんに失礼な口利いてんじゃねーぞ、と軍司が、秀吉を見上げて言った。
「使えねーから、使えねーって言ったんだよ」
しかし、秀吉も負けてはいない。何が悪い、と言って、軍司を睨みつけた。
このときの秀吉の内心を言葉で表すと、以下のようになる。
本城さんは、ヒロミさんの家に行って、阪東を飲んだと言った。よりによって、俺が今一番耳にしたくない、その男の名前を出した。だいたい、その場がヒロミさんの家だというのにも腹が立つのだ。ヒロミさんの家とは、つまり、ヒロミさんが阪東と暮らしている家だ。腹が立つ。その家で、ヒロミさんが阪東に何をされているのか、想像してしまう自分にも腹が立つ。考えたくもないのに。俺が、卒業以来一度も会ってもないヒロミさんは、今、あの男と日常をともにし、同じ夢を追っている。
だいたい、本城さんも本城さんだ、と秀吉は思った。
せっかく阪東と飲んだのなら、もっと俺の役に立つことをすべきなのだ。酔いに任せれば、普段言えないことだって言えるだろう。お前はヒロミにふさわしくないとか、ヒロミと別れるべきだとか、ヒロミは地元に帰らせるとか。言うべきだったのだ。阪東は、もちろん抵抗するだろうが、そこは押し切って、何とか別れさせて、ヒロミさんを地元に連れ帰ってくれれば、そうしてくれれば、俺だって、卒業後は東京に出ようとか、わざわざ考えずに済むのに。それが、ただちょっと話して記憶飛ばすとか、手ぶらで帰ってくるとか。
(ホントに、ありえねー使えなさだ)
秀吉は思った。こういうとき、どうしても自分に都合のいいことのみを考えてしまうのが、高校時代のヒロミが指摘したとおり、どことなく阪東と似た俺様ぶりだった。
使えないものは使えない。
秀吉が重ねて言うと、もう我慢ならない、という顔で軍司が立ち上がった。上等じゃねーか、とすごまれる。
「誰に言ってんだ?」
秀吉も立ち上がった。すごまれればすごみ返すのが、鈴蘭のルールである。
睨み合う二人に、周りの客がざわざわし出した。
「ほ、他のお客様にご迷惑ですから!」
店員が飛んでくる。
が、もう止まらない。
ひと月前とは違い、先に手を出したのは、軍司だった。
体重の乗ったパンチに、秀吉はふっ飛ぶ。通路の端に並んだ、お子様用イスを巻き添えに倒れると、店内は騒然とした。
「ぜんぜん効かねーんだけど」
秀吉は立ち上がる。同時に蹴りだした足が軍司の腹に入って、テーブルとソファの間に倒れた。
「キャー!」
「ケンカだ!」
「警察呼べ!」
それからはもう、大騒ぎだった。
「うるせーよ」
秀吉は床に唾を吐く。
完全に頭に血が上った軍司と、殴り合い蹴り合い、周囲が右往左往する中で、一人本城だけが涼しい顔で、二人のケンカを眺めていた。
「スミマセンでした!!」
ファミレスの駐車場で、軍司が頭を下げる。
ようやくケンカが収まった後、軍司と秀吉、それに本城は、出禁の言い渡しとともに、店をたたき出された。割れた食器その他の弁償代は、三人の中で唯一財布に一万円札の入っていた本城が払い、となれば、軍司の恐縮も無理はない。
真っ青になったヒゲ面の真ん中に、「失態」と大書されている。もう終わりだ、と口に出さなくても、軍司が何を考えているのか分かった。
「スミマセン!マジすみません!」
今にも土下座せんばかりの勢いで、軍司は本城に謝罪する。
その隣で秀吉も、形ばかり頭を下げた。
申し訳ない、と思う気持ちがないわけではない。が、性分的に、先輩に頭を下げるということが、どうも素直にできない。
だいたい、今回のケンカの原因は、本城の失言(だと秀吉は思っている)で、そう思えば、どうしても謝罪がおざなりになるのも(秀吉的には)仕方がなかった。
「いいよ、別に」
しかし、本城は、あっさりとそう言った。
「久しぶりに、おもしれーもんが見れたし」
な!と軍司の肩を叩き、カラカラと笑った。
途端、軍司の表情がパアッと明るくなるのを見て、単純な奴……と、秀吉は思う。
また、本人がいいと言うなら、もう謝る必要もないだろう、考えた。それで、頭を上げると目が合った。
本城と。
「おもしろかったぜ」
本城は、重ねて言う。
目配せされて、秀吉はそれが、つまり、本城の「おもしろい」が、単に、後輩二人のケンカのことを指しているのではないと気づき、
(腐ってもヒロミさんの友だちだ)
油断ならねーと思った。「腐っても」なんて、万一軍司に聞きつけられたら、第二ラウンドが確実に始まってしまうので、とりあえず内心で呟くにとどめた。
後日談のようなもの。
翌日、秀吉が学校に行くと、例のトラブルは既に解決していた。
例のトラブル、つまり、秀吉が岩城派の後輩に妹のことで恨みを買い、襲撃計画まで練られていた、というアレだ。
遅刻して教室に行くと、マサに言われた。
「何か、お前と軍司がタイマン張ったってことになってるらしーぜ」
「は?」
思わず、聞き返してしまった。
何でも、軍司は、秀吉の尊敬する元鈴蘭の先輩を呼び出し、説教してもらい、反省させた上で、最後は男と男、拳で決着をつけたらしい、と。昨日の出来事が、どこをどう伝わればそういう話になるのか、秀吉には、さっぱり分からなかった。
でも、まあ、事が収まったのなら、とりあえずそれでいい。
秀吉が笑うと、マサは心底不思議そうな顔で、
「だけどさ、お前に尊敬する先輩なんていたっけ?」
聞いてきた。それに、いねーよ、と反射的に返そうとした秀吉は、少し考え、
「さあな」
とだけ答えた。
軍司は、今度は本城を、二人きりの食事に誘うという。
お詫びの意味も含めてどうだろう?と、昨夜、いつのまに番号を知ったのか、秀吉の自宅に電話をかけてきた。秀吉が返したセリフは、もちろん、知るか、で後はひと言も聞かず、一方的に通話を切った。
昨日のことで、何かが吹っ切れたらしい軍司を、何となく羨ましいと感じてしまったことは、
誰にも秘密だった。
戻る
前に書いた『同病相憐』と同系列の話。
いつも書いている秀吉×ヒロミと違って、この秀吉は、ヒロミにやらせてもらっていない……と思います。
しかし、この話は、阪東×ヒロミの『O mio babbino caro』の後日談でもあるんですが、そう考えると、上の設定が今までの色々と矛盾するような気がします。
大目に見ていただけるとありがたいです。