足りないヴィーナス






 阪東が廊下に出ると、ヒロミがいた。
 いつもの本城や杉原でなく、ざわめきと怒号を引き連れて。
 ヒロミを真ん中に、人波が左右に割れていた。



 その日、鈴蘭男子高校三年某組の教室には、阪東ヒデトの姿があった。
 最近は、毎日一時間目から登校している。
 大川橋の下で美藤竜也に負けて、少しの入院と自宅療養の後、阪東は鈴蘭に復帰した。
 今更、真面目に勉学に励む気になったわけじゃない。
 久しぶりに担任に会って、きちんと卒業しようと思いなおしたわけじゃない。
 ただ、ヒロミのことを考えると。
 あの日、同じ男にやられて、同じ川原の地面に転がった。
 物好きな後輩のことを考えると、もう少しだけ学生でいてやってもいいかと思えたのだ。

 二時間目の休み時間のこと。
 阪東は、自分の席でギターの教則本を読んでいた。
 武装に制裁されて入院中、リハビリがてら阪東はギターの練習を始めた。
 それまでにも、触ったことくらいはあったけれど、本格的に弾くのは初めてだった。
 弾いてみると面白くて、近頃は、学校にいる時間以外は、もっぱら家でギターの練習をしている。
 学校では、図書室にあった教則本を持ち出して、それを開いていることが多かった。

(教科書の内容はサッパリ頭に入んねーのに)

 こっちは入るもんだな、と思いながら、ページを繰っていた。
 そのときだった。
 ふいに、廊下の方が騒がしくなった。
 怒号が響く。
 しかし、阪東の意識は、目の前の本に集中していた。
 だって、鈴蘭なのだ。
 小競り合いなど日常茶飯事の、ここは鈴蘭である。
 ちょっとした喧嘩の一つ一つに、いちいち取り合ってはいられない。
 そう思って、我関せずで、阪東は本を読んでいた。
 どうせ、すぐに収まるだろうと思っていた。

 けれど、廊下の騒ぎは、すぐには収まらなかった。
 すぐに収まらないばかりか、段々大きくなる。
 段々大きくなりながら、阪東のいる教室の方へと近づいてきた。
 誰かが口にした名前に、阪東は思わず顔を上げる。
 よくある名前、ではなかった。
「クソガキが!」
 クラスメイトの誰かが言った。
 イスを蹴り、廊下へ飛び出していく。
「一人かよ!三年ナメやがって!」
 また他の誰かが叫ぶ。
 阪東は、読んでいた本を閉じて、机の中にしまった。
 ギターは確かに面白い。
 だけど、とりあえず、今の自分にとって、ギターよりも面白い、ほとんど唯一のものが。

(自分から来やがった)

 阪東は立ち上がる。
 三年の校舎に一人で乗り込んでくるクソガキ。
 そんな度胸のある「桐島」なんて、鈴蘭広しと言えども奴しかいない。
 阪東呼べ、と教室の外から聞こえた声は、小さくてもよく通る。
 阪東は、立ち上がってドアの方へと向かった。
 周りに群がっていた連中は、掻き分けるまでもなく左右に割れる。
 いつもの本城や杉原でなく、ざわめきと怒号を引き連れて。
 目の前に現れたヒロミを見て、しかし、その予想外の姿に、阪東は言葉を失った。

 廊下の真ん中、左右に割れた人波の真ん中に立つ。
 ヒロミは、ひどい姿をしていた。
 学ランの下に着たシャツは破れているし、学ラン自体も土に汚れている。
 鼻には鼻血と、口元には未だ血がにじんでいた。
「ケンカか?」
 阪東が聞くと、黙って頷く。
「相手は?」
「……知らねーよ、駅んとこで、『鈴蘭の桐島か』って言われたけど、知らねー奴らだよ」
 ヒロミは言った。
 登校途中で売られた喧嘩を買ってやったらしい。
 負けたのか?と聞こうとして止めた。
 負けて自分の前に現れるほど、この後輩は、かわいい性格をしていない。
 血泥にまみれたヒロミを見て、相変わらず物好きな男だ、と阪東は思った。
「テメーも懲りねーな」
 笑ってやると、ゴクリと喉を鳴らした。
 興奮が過ぎて血の気の失せたヒロミの顔の、白い輪郭をなぞるように汗が伝う。
 視線は、阪東に据えられて離れない。
 阪東は、ぐるっと周りを睥睨した。
 二人の周りを、阪東のクラスメイトを中心に、大勢の三年が取り囲んでいる。
 人目もあり、意地もあり、こんな所で、ヒロミはきっと本音なんか言わない。
 よく回る頭と直結した口なんかより、だから、ヒロミの目の方が。
 阪東を見つめる目の奥に、覚えのあるギラついた光を認めて、嬉しくなった。
 目は口ほどに、どころか口よりもずっと物を言う。

(やっぱり俺に会いにきたのか)

 改めて、そう思った。

 そーか、そんなに俺じゃねーとダメか、と愉快すぎて大声で笑いたくなる。
「足りねーんだろ、お前」
 からかうように言ってやると、汚れた学ランの肩が揺れた。
 阪東にも覚えがある。
 大勢を相手に派手な喧嘩をした後。
 相手が強くても弱くても興奮の度合いは高くて、そのままじゃ日常生活に戻れない。
 伏せられた目の奥に、やっぱり同じ光がある。
 当たりだな、と思った。

(いつもスカしてやがるくせに)

 どうしていいか分からなくて、ここへ来てしまった。
 ヒロミは、そんな顔をしていた。
 普段が普段だけに、阪東には、おかしくてたまらない。
 誰よりも冷静なふりをして、たまに狂犬の地金がのぞく。
 のぞいたそれを、どうにかして欲しいと、他の誰でもなく自分に会いに来た。
 かわいい奴だと思った。
 両腕を組んで反り返る。
 再び周りを睥睨すると、阪東の同級生たちは、一様に面白そうな顔をしていた。
 かつて犬猿の仲だった二人の対峙を、面白そうに、けれど、息を詰めて見ている。
 ここからの展開は、阪東次第だった。
 ここで、衆人環視の的のまま、ヒロミと殴り合うこともできる。
 久しぶりにコイツと喧嘩も悪くねーな、と阪東は思った。
 たぶん、それでもヒロミは満たされ、体の熱は抜けるだろう。

「ツラ貸せ」

 少し迷って、でも、そっちじゃねーな、と阪東は思った。
 背中を向けると、ヒロミは黙って後をついてくる。
 落胆したような、ギャラリーの声が聞こえた。
 悠然と廊下を歩いて、階段に足をかけたところで、チャイムの音も。

 階段を下りて、阪東は昇降口の方へ向かった。
 背後からヒロミの視線を感じたけれど、何も言ってやらない。
 あえて何も言うことなく、上履きを靴に履き替えていると、
「……どこ行くんだ?」
 焦れたのか、ヒロミの方から聞いてきた。
 切羽詰まった声に阪東が笑うと、舌打ちして、ギッと音のしそうな目つきで睨んできた。
 機嫌がいいので、腹も立たない。
「帰るんだよ」
 言ってやると、ヒロミは変な声を出した。
 え?とへ?の間の声。
 あんまりおかしくて、思わず口に出して言いそうになった。

(そーか、そんなに俺が好きか)

 校舎を出て振り返る。
 真冬の冷たい風がビュウと吹いて、革ジャンの背中を膨らませた。
 視界に入ったヒロミの顔は、優越感、独占欲、暴力的な衝動……等々、阪東の全てを掻き立てる。
 待てよ、と言われたのを無視して歩き出すと、慌てて靴を履き替え、追ってくる気配がした。
 一刻も早くどうにかしてくれ、とヒロミの言いたいことは分かる。
 分かる、けれど、気づかないふりをする。
 とにかく家に帰りたい。
 何がどうでも帰るのだ。
 学校とか、帰り道とか、そんな所で処理みたいにしても、今度は阪東の方が、満足できるわけがなかった。



「卒業危ねーんだろ?」
 事後、二人で床に転がっていると、ヒロミが言った。
「良かったのか、サボってきて?」
 誰のせいだ、と思いつつ、別に、と阪東は答える。
 どのツラ下げて言ってやがんだ、と引き寄せて顔を見ると、ヒロミの表情は、もう普段と同じ。
 人目も憚らず乗り込んできたときの興奮、得体の知れない熱は抜けていた。
 それだってかわいく見えないと言えば嘘になる。
 けれど、先刻までの、理性も何もかも飛んだヒロミの乱れ方を思い出すに、残念だったな、とも思う。
「来年は同級生だ」
 楽しみにしてろ、と阪東が言うと、ヒロミは本気で嫌そうな顔をした。






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映画のヒロミの、蒼白の顔に汗掻いてハアハア息を切らしながら、まだ暴れ足りねーみたいな顔をしている、アレがたまりません。
「これで一年は俺たちのモンだ」のシーン。
先輩(阪東に非ず)を振り返ったときの目の、瞳孔開いた感じ、瞳の色とか、犬っぽい感じもたまりません。
ありがとう!映画のヒロミに、かわい子ちゃんをキャスティングしてくれた人ありがとう!
あんまりかわいくて、原作のヒロミにも、そのイメージがフィードバックされてされて……たまらん!よね!先輩!(こっちは阪東)









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