踵の記憶





ヒロミの家族について、いつもに増して大捏造注意です。













中三の夏。
高校には行かないとヒロミが言った夜のこと。
ヒロミの母親は、前年離婚したばかりの父親に電話をかけた。
「ヒロミ、お父さんと話しなさい」
母に言われて、「話すことなんかねーよ」とヒロミは答えた。
もちろん電話にも出なかった。
「話すことなんかねーよ」と答えて、電話にも出ず、けれど本当は嬉しかった。
ほんの少しだけ、本当に。
バラバラになった自分の家族が、まだどこかで繋がっているような気がして、気のせいでも嬉しかった。






高一の冬。
久しぶりに父親と電話で話した。
父からかけてきた電話だった。
「ヒロミか?」と。
半年ぶりに耳にする父の声は、何だか知らない男のようで、ヒロミは戸惑う。
母親は仕事でまだ帰っておらず、家には自分ひとり。
「実はな……」
受話器の向こうで父が言う。
ひそひそ話みたいにしゃべり出すのは、何か嬉しいことがあったときの癖だ。
そうだったな、思い出した。
思い出した、とヒロミは思う。
思い出した、ヒロミが思った次の瞬間、父が言った。
父の再婚相手が、子どもを産んだ。
そういう話だった。
「……そーかよ」
息を呑んで、言葉に詰まって、やっと言えたのはそれだけだった。
「どうした?嬉しくないのか?」
父が言う。
ヒロミは、反射的に電話を切りそうになった。

(こいつ、ホントに俺の親父かよ?)

頭の中で、言葉にすると、頭が冷えた。
何気なく電話の横の壁を見る。
家で取っている新聞のカレンダー。
それを眺めて、今日は4月1日じゃないよな、と考える。
ずっと一人っ子だったのが、兄貴になったなんて突然言われても、実感なんて湧かなかった。
「嬉しくないのか?」と聞かれた。
聞いた彼にとっては多分残念ながら、答えはイエスだ。
嬉しいとも悲しいとも思えない。
ただ、もう俺に親父はいない、と。
しゃべり続ける男に生返事をしながら、ヒロミは漠然とそう思った。



その夜、仕事から帰った母親をヒロミは玄関まで出迎えた。
外から鍵を開ける前に中から戸を開けた息子に、母は驚いた顔をした。
「何かあったの?」
パンプスを脱ぎ、ヒロミの靴も一緒に揃える。
立ち上がった母は、いつのまにかヒロミよりも背が低くなっていた。
「親父から電話があった」
台所に入り、ヒロミは言った。
母は、鞄の中から弁当箱を出して、流しに置く。
「そう」
水道の蛇口をひねりながら、母は言った。
その後は無言で、洗い物を始める。
気のない言い方が気に障った。
「子どもがさ」
だから言った。
「子どもが産まれたんだってさ」
父親の再婚相手の名前を出して言った。
母は何も言わなかった。
洗い終えた弁当箱を、朝の食器の上に積み、水道の蛇口をひねる。
濡れた両手で流し台の縁をつかみ、寄りかかるように母は立っていた。
黙りこんだ母と、言うことは言ってしまった息子と。
ごめん、と口をついて出かけた言葉を、寸でのところでヒロミは止める。
口元を手のひらで押さえた。
謝るようなことじゃない。
うつむくと、母の足が見えた。
ストッキングに包まれた足首が細く、見てはいけないものを見てしまったように、ヒロミは目を閉じる。



「ヒロミ」
どれくらい時間が経ったのか。
ふいに、黙りこんでいた母がヒロミを呼んだ。
目を開けて、顔を上げると、母はようやくこちらを向いていた。
濡れた手をタオルで拭く。
その動作が、ひどく緩慢に見えた。
「ヒロミ」と息子の名を呼んで、ようやく振り向いた。
けれど、母の目には何も映っていない。
ヒロミは気づいた。
何も映っていない。
俺も映っていない。
「食器」
抑揚のない声で母が言った。
「食器、拭いて仕舞っておいてね」
そう言って、台所を出ていった。

(たとえば、古い靴みたいに)

階段をのぼる母の足音を聞きながら、ヒロミは思った。

(たとえば、足に合わなくなった古い靴みたいに、俺を捨てたくなったことはあるか?)

ギッギッと階段をのぼる。
軋んだ足音に、ふいに、そんなことを聞いてみたくなった。



ヒロミの両親は、ヒロミが中学生のときに離婚した。
けれど、それよりもずっと前から、父親は家には寄りつかなかった。
絵に描いたような新興住宅地の、絵に描いたような一戸建て。
ヒロミはそこで、ずっと母親と二人暮らしだった。
父の再婚相手が子どもを産んだことについて、ヒロミは父から母に伝言を頼まれたわけではなかった。
まったくの独断で、彼女にその話をした。
夕方、父からの電話を切った後、ヒロミはしばらくその場を動くことができなかった。
受話器を置いた姿勢のまま、電話の前に突っ立っていた。
廊下の窓、ガラス越しに見える空が暗くなっていく。
日暮れを心細く感じるなんて、小さな頃に戻ったみたいだった。
門扉を開ける音が聞こえて、ほとんど無意識にヒロミは玄関へと走った。
擦りガラスの引き戸の向こうに、ハンドバッグを探る母の影が見える。
そうしようと思うこともなく、鍵を開けて戸を引いた。
驚いた母の顔は、嫌になるくらい自分と似ていた。
たとえば胸にぽっかりと穴の開いた気分。
その穴に、隙間風がピューピュー吹きこんでくるような。
そういう気分を、そのときヒロミは多分母と共有したかった。
共有したいと言えば聞こえはいいが、何のことはない、八つ当たりだ。
父からの電話の内容を話した後、見慣れた台所の風景を背に、母はようやくこちらを向いた。
血の気が失せた、人形の顔だった。
真っ白なその色に、ヒロミは自分の目論見が成功したことを悟り、同時にひどく後悔した。



その夜更け、寝ていたヒロミは、階下から聞こえる声に目をさました。
母親の声だった。
廊下に出て下の様子をうかがう。
夕方、ヒロミが父親と話した電話の前に、パジャマ姿の母が立っていた。
真冬の廊下に素足で、寒くないのかと思う。
何を話しているか、全部は聞こえなかった。
ただ、電話の相手も会話の内容も、推測できないこともないだけに憂鬱だった。
部屋に戻り、枕元のラジオをつけて布団にもぐりこむ。
冷たい廊下の床を踏む、裸足の母の小さな足……。
目を閉じると、ろくでもないことばかり頭に浮かんだ。
ヒロミの部屋は南向き6畳の板の間。
今はベッドとオーディオくらいしか置かれていない部屋にも、昔は学習机があった。
学習机と、自分で高さの調節できる本棚。
窓には青いチェックのカーテンが掛かっていた。
昔と言っても、ほんの数年前のことだ。
数年前、この部屋は、絵に描いたような子ども部屋だった。
この部屋から、学習机や本棚やカーテンが、姿を消した日のことを思い出す。
ヒロミが中学一年の、あれも冬だった。



中学時代のヒロミは荒れていた。
鈴蘭高校に通っている、今だって不良だ。
けれど、今とは比べものにならないくらい。
ポンやマコと仲良くなる前は、特にひどかった。
校内暴力でも発散しきれない負のエネルギーは家の中で。
人ではなく、物に対して爆発した。
渡り廊下で先輩を、殴るどころかボコボコにして、職員室に呼び出された。
しばらく自宅で頭を冷やせと担任から言われた日、学校から帰ったヒロミは、自分の部屋に置かれていた物を根こそぎ捨てた。
学習机に本棚にカーテン。
ヒロミの部屋を子ども部屋らしく彩っていた物たち。
それらは、たった一日でほぼ全てが姿を消した。
本当のところ、そのときヒロミのしたことは、捨てたなんて表現じゃ生易しい。
学習机も本棚も、力任せに叩き壊し、ノコギリでバラバラにした。
ノコギリは、父親が置いていった工具箱から持ってきた物だった。
山と積まれた板切れを、近所の空き地に運んで焼いた。
ご丁寧に灯油もかけた。
日の暮れる頃だった。
母はまだ帰っていなかった。
うす暗い空に白煙が上がる。
煙が上がって早々、誰が通報したのか、消防車がやって来た。
住宅街に響くサイレンの大きな音に、野次馬も大勢集まってきた。
「君がやったのか!?」
駆けつけた消防士に詰問される。
中学生のヒロミは制服のまま、火柱の横で煙草を吸っていた。
努めて悠々と吸いながら、ヒロミは見ていた。
自分の家を、開かない玄関を見つめていた。



「馬鹿だったな」
今になって思う。
ヒロミは、無意識につぶやいていた。
寝返りをうって窓の方を向く。
青いチェックのカーテンも、窓から引き剥がして他の物と一緒に燃やした。
板切れの上にカーテンをかけて、その上から灯油を撒いたような記憶がある。
カーテンは布で、当たり前だけどよく燃えた。
思い出したくないことばかり、芋づる式に思い出す。
火事騒ぎの後、ヒロミは警察で叱られて学校で叱られて、けれど、家では叱られなかった。
ヒロミの母親は、反省の色を見せない息子の代わりに、頭を下げて回るので忙しかった。
父親は、たぶん騒ぎそのものを知らなかった。
それから一年と少し経って、両親は離婚した。
枕元に手を伸ばしてラジオを消した。
部屋の外からは、話し声がまだ聞こえる。
淡々としたその声に、泣きたいような気分になった。



次の日の朝、ヒロミはいつもより早く目を覚ました。
おふくろが出かけるまで寝てるつもりだったのに。
舌打ちしながら体を起こす。
階段をおりたところで、洗面所から出てきた母親とぶつかった。
「……」
「……」
二人とも何も言わないまま、ヒロミは母の後について台所に入った。
「座りなさい」
台所に入ると、黙っていた母が口を開いた。
促され、向かい合って座る。
何もない食卓の向こう、化粧気のない四十女の顔がヒロミの前にあった。
「昨日、お父さんに電話したの」
母が言った。
知ってる、と息子は思う。
あんたのボソボソボソボソした話し声が、ずっと聞こえて俺は眠れなかった。
「ヒロミの生活は、これまでと変わらないわ」
台所のイスに腰かけ、母はヒロミを見つめる。
隈の浮かんだ目元は昨日よりも疲れた様子で、けれど、その目にはヒロミが映っている。
そのことに、ヒロミは安堵した。

「ヒロミが高校を卒業するまでは、お父さんとお母さんと、きちんと半分半分でヒロミを育てるって約束なの。
 養育費もちゃんと出してもらうし、お父さんの状況がどう変わろうと、それは変わらないから。
 学校のことも何も、ヒロミは心配しなくていいのよ」

息子に、というより自分自身に言い聞かせるように、母は言った。
言うだけ言って席を立つ。
今朝の母の目には、ちゃんと自分が映っている。
安心すると現金なもので、腹が立った。
そんな言葉が聞きてーんじゃねーよ、と思った。
「養育費」や「育てる」といった言葉が、はがゆいと思った。
実際、俺は甘ったれのガキなんだろうけど。
「金の話じゃねーよ」
身支度をする母の背に、それだけ言った。
やっとのことで言った。
ヒロミが言うと、鏡に向かっていた母は、弾かれたようにこちらを見た。
「そうよ」
低い声でささやく。
お金の話じゃない。
そう言って、台所のイスに座ったままのヒロミにゆっくりと近づいてきた。
「ごめんね、ヒロミ」
腰をかがめて、自分より低い位置にあるヒロミの目と視線を合わせる。
性別こそ違えど、その顔は、三十年後の自分の顔に違いない。
いたたまれなくてヒロミは目を閉じた。
「ごめんね」
もう一度言って、母は息子の頭を撫でる。
頭を撫でられるなんて、本当に久しぶりだ。
ごめんね、ごめんね……とくり返す。
その声に、腹の底から喉元まで、何か熱いものがせり上がってくる。
泣きそうだ、と思ったけれど、涙は出なかった。






高三の冬。
「卒業したら、この街を出る」
ヒロミがそう言ったとき、ヒロミの母親は、もう父親に電話をかけることはなかった。



学校から帰ると、玄関に母の靴があった。
珍しく定時で帰れたらしい。
母は、台所のイスに腰かけてテレビを見ていた。
「なあ」
ヒロミが声をかけると、こちらを向いた。
小さな蛍光灯に照らされて、色白の母の顔が更に白く見える。
ヒロミは、ぐっと息を詰めた。
「卒業したら、この街を出る」
そして、言った。
意を決して言った。
卒業したらこの街を出る。
この街を出て横浜に行く。
横浜で音楽をやる。
阪東の名前は、出せなかった。



「そう」
息子の言葉に、母は一瞬目をみはった。
それから、いつもの顔に戻って頷いた。
あっさりした反応に、そういう人だと分かってはいても、ヒロミの方が驚いた。
「……いいのかよ?」
「何が?」
「何がって、その…俺がこっちで就職とかしなくて」
ヒロミが聞くと、母はうつむいた。
うつむいて、少し考える。
おもむろに頭を上げると、「ヒロミの好きにしなさい」と言った。
「ヒロミが好きにするのが、お母さん一番嬉しいから」
小さいけれど、はっきりとした声だった。
それだけ言うと、母は立ち上がる。
流しを指して、「食器、洗っておいてね」と言うと、台所を出て行った。
その背中を見送り、母の言葉を反芻し、ヒロミはふと思った。
俺のおふくろが自分のこと「お母さん」って言うの珍しいな。
珍しい、あのとき以来だ。
台所を出て階段をのぼる、軋んだ母の足音に、ヒロミは一瞬、本当に一瞬だけ、阪東との約束を反故にしようかと思った。






「俺は、顔も性格もおふくろにそっくりなんだ。
 けど、男だから、おふくろと上手くいかなかった親父の気持ちも、本当は何となく分かるんだ」



いつだったか、二人で暮らし始めてすぐの頃だ。
ヒロミは、自分の家族のことを阪東に話した。
初めて話した。
「もうぶっ壊れたもんだし、別に未練はないんだけどさ」
ヒロミが言うと、阪東は、阪東のくせにひどく優しい顔をした。
「物分かりのいいのがテメーの悪いところだな」と言った。
「物分かりなんて……」
良くねーよ、とヒロミは苦笑した。
俺は、おふくろに迷惑なこともいっぱいしてきたんだ。
「馬鹿か」
うつむいたヒロミの頭を阪東は撫でた。
阪東に頭を撫でられるのは初めてだった。
くしゃくしゃと、セットを乱すように撫でながら、「だからテメーは馬鹿なんだよ」と阪東は言った。
「物分かりがいいから、そういうことすんだろーが」
そう言って、ヒロミの鼻をぴんと指で弾いた。
「せめて、物分りのいい『ふり』くらいで止めとけ」
そして、抱きしめた。
まるで力任せに。
「いてーよ」と押しのけるヒロミの腕をつかんで、腕ごと抱きしめる。
阪東の目に映ったヒロミの顔。
母の顔に似ていると思った。
それを口にすると、「似てねーよ」と怒ったように阪東は言う。
一度もヒロミの母親に会ったことなんてないくせに。
裸の胸に鼻を擦りつけると、煙草のにおいがした。
この男との約束を反故にしなくて、やっぱり良かった、とヒロミは思った。





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