ひでひろ ファイルまとめました。
続きは下にだらだらと。






ファスナー







1



 きっかけは、休み時間に見せられた、一枚の写真だった。
 同じクラスの誰だか知らないけど誰かが、どこだか知らないけど、どこかから持ってきた。
 写真。
 鈴蘭の図書室で、男が二人、抱き合っている。

 目の前のそれから、秀吉は視線を逸らした。

「これ……マジでやってね?」

 マサが言った。
 机に腰かけたまま、秀吉の肩越しに手を伸ばす。
 何も考えていなさそうなマサの口から飛び出したセリフ。
 そのセリフは、だけど、爆弾だった。
 周りの奴らがワッと、それはもう、砂糖に群がるアリみたいに、一斉に集まってくる。
 普段はビビッて秀吉の側になんて来ないような奴まで。
 性欲って偉大だ。
 大半が異性に縁のない男子高校生。
 その鼻先に、(ホモだけど)エロ写真。
 大騒ぎになった。
 写真は奪い合うように、手から手へと回される。

「くっだらねー」

 秀吉は吐き捨てた。
 楽しそうに騒ぐ奴らに、なんでかひどくイライラする。
 男ばかりの学校で、野郎ばかりの高校生活を送るうちに、頭のどこかがイカれて(と秀吉は思いたい)、ソッチの趣味に走る人間もいる。
 それは理解できる。

 だけど。

(それがどーした)

(俺には関係ねー)

 秀吉は思った。
 クラスメイトを押しのけ、イスから立ち上がる。
 鈴蘭の図書室で、男が二人、抱き合っている。
 自分には全然関係ないこと。
 なのに、どうしてイラつくのか、分からない。
 分からなくて、余計にイライラした。
 こんなときは、どこか静かなところで頭を冷やすか、それとも手っ取り早く誰かをブン殴るか。
 後者だな、と決めて秀吉が教室を出ようとした、そのときだった。

「この革ジャン、阪東じゃね?」

 写真を回覧する連中の、一人が上げた声に足が止まった。
「阪東って?」
 阪東じゃね?と言った奴に、別の奴が聞く。
「お前、阪東知らねーの?」
 聞いた奴に、また別の奴が言った。
「阪東って、あの阪東だろ?」

(どの阪東だよ?)

「去年卒業した?」
「そうそう」
「春道さんに負けた?」
「それそれ」

 その阪東なら知っている。
 秀吉は思った。
 阪東ヒデト。
 この辺の不良なら、知らない奴の方がモグリだ。



「この革ジャン、見たことあんだよ。うちのアニキも鈴蘭だったからさ」
 最初に阪東じゃね?と言った奴が、写真を指しながら言った。
 写真に写る二人の男のうち、一人は革ジャンを着ている。
 武装のライダースに見えた。
 ただし、背中に髑髏がない。
 もう一人は、たぶん学ラン。
 革ジャンの背中が邪魔して見えにくい。
 顔もほとんど見えなくて、抱き合う相手の肩越しに、頭だけが見えた。

「阪東ってホモだったのかよ!?」
 誰かが叫ぶ。
 おそろしく下卑た興味丸出しの声だった。
「……」
 秀吉は無意識に唇を噛みしめる。
 唇を噛みしめ、拳を握る。
 どうして腹が立つのか。
 自分でも分からなかったが、腹が立った。
「どうかしたのか?」
 騒ぐ集団の中から、マサだけが、一瞬で変わった秀吉の顔色に気づいたらしい。
 具合悪ィのか?と心配そうに近寄ってきた。

(来るな)

 秀吉は思った。
 そんなことをマサに思うのは初めてだった。
 今の俺に近づくな、と思った。

 そして、気づくな、とも同時に思った。
 今度は、マサにじゃない。
 写真の中の二人の男。
 革ジャンの男が阪東だろうと誰だろうと、秀吉には関係ない。
 ホモだろうと何だろうと、どうでもいい。
 腹が立ったのは、そうじゃない。
 問題は、阪東と一緒に写っている、もう一人の男だった。
 ハリネズミみたいにツンツンの髪。
 まだ黒い髪にも、見覚えがあった。



 その写真が視界に入った瞬間、秀吉は視線を逸らした。
 だから、秀吉が写真を見たのは、ほんの一瞬。
 でも、それだけで、分かった。
 上半分だけ見える頭と、革ジャンの背中に回された手。
 その人を、自分はどれほど熱心に見てきたのか、思い知らされる。
 写真の中の、それが誰なのか。
 秀吉は、分かりたくもないのに分かってしまった。
 だから目を逸らした。
 気づくな、と祈るように思った。

(俺以外、誰も気づくな)

「そういやさ、こっちの学ラン」
 それなのに、別のクラスメイトが口を開いた。
「これ、そーとーヤバい噂なんだけどよ、これ、きりし……」
 言いかけた名前は、秀吉が今、世界で一番聞きたくない名前。
 だから、言いかけたセリフの半分も言えぬまま、彼の体は床に沈んだ。
「テキトー言ってんじゃねーぞ」
 倒れた制服の背中に、念入りに足跡をつけながら、秀吉は言った。
 教室は、さっきまでの騒ぎが嘘のように、静まりかえっていた。
 たった今、たったの一蹴りで沈めた男の手から、秀吉は写真を奪い取る。
 一年B組の沈黙を背に、教室を出た。



 それは、鈴蘭高校に入学する直前のある日。
 秀吉は、マサを誘って出かけた。
 秀吉の、世間一般の十五歳とは、だいぶ違うだろう高校生活への期待。
 だけど、違っても期待は期待だ。
 そして、期待はイコール野心、あるいは野望。
 ありあまるエネルギーを膨らむ胸にブチ込んで、うろうろしていたら、その男に出会った。
「桐島だ」
 鈴蘭の桐島、と秀吉の隣でマサが言った。

 坊屋春道を頂点に、三人横並びのナンバーツー、のうちの一人。
 「狂犬」という異名ほど、キレた男には見えない。
 初めて近くで見た印象は、自分の身長も棚に上げて、意外とちっちぇーな、だった。
 マサの挑発に簡単に乗ってきたところは、「冷静で頭が切れる」という評判とは矛盾していた。
 意外をいくつも並べられて、最後には何でか笑われて、煙に巻かれた感半分。
 よく分からない、という印象が残った。
 訳の分からない印象だけが残って、秀吉は、入学したらまずあの男を叩こうと決めた。
 一年同士の小競り合いなんて、かったるいイベントに照準を合わせちゃいない。
 階段は二段三段抜かしでのぼって、誰よりも早くトップへの挑戦権を得よう、と。
 そのときの秀吉にとって、その人はそんな存在。
 それくらいの存在だった。



 何かを変えたのは、あの喧嘩だった。





2



 翌朝、秀吉は、学校への道のりを一人で歩いていた。
 子どもの頃からの癖で、今でもマサと二人で登校することが多いが、今日は止めておいた。
 制服のポケットには、あの写真があった。
 昨日、家に帰った後、あの写真のことは、忘れたふりをしていた。
 忘れたふりをしていたら、本当に忘れて、持ったまま登校してしまった。
 思い出して焦った。
 紙一枚が、ひどく重い。
 ポケットを上から触って、その存在に舌打ちする。
 チッと舌打ちすると、

(イラつくんなら、なんでテメーは持って返ったりしたんだ)
(ていうか、なんで捨てちまわねーんだよ)

 頭の中で、秀吉の声で誰かが言った。



 校門をくぐったところで立ち止まる。
 朝日がまぶしくて、今日はサボるかと考えた、そのときだった。

「おい」

 背後から声をかけられた。
 自分の声じゃない。
 そのことに安心しながら振り向くと、殺気立った男の顔があった。
 名前は忘れた、同じクラスの奴だ。
「ツラ貸せ」
 そいつは顎をしゃくり、秀吉の返事を待たず、校舎の裏に向かって歩いていく。
 秀吉は、昨日のことを思い出した。
 蹴り倒されたクラスメイト。
 秀吉のつけた足跡はもう消えたらしく、学ランの背中はきれいだった。
 校舎裏では、同じクラスの奴数人と、顔に覚えがないからたぶん別のクラスの奴数人も待っていた。

(そういやコイツら、コメについてた奴らだったか)

 周りを取り囲む顔ぶれに、秀吉は思い出す。
 確か、一年戦争のとき、米崎を推していた連中だ。
 そういえば、昨日の騒ぎのとき、あの男は教室にいなかった。
 最近よく一人でどっかに消えちまう、とコメと仲の良い奴がぼやいていた。

 それはともかくとして。

 秀吉はうずうずしていた。
 昨日の今日でフラストレーションは溜まりまくり、一発蹴ったくらいじゃ解消されない。
 鼻先に指が突きつけられて、
「B組が皆おとなしくテメーに従ってると思ったら大間違いだ」
 なんて。
 幼稚なセリフが耳に心地いい。
 いいから早く殴らせろ、と秀吉は前に出た。



 子どもの頃から、喧嘩ばかりしてきた。
 元の性格に、地元の環境も手伝って、中学時代はもう毎日殴ったり殴られたり蹴ったり蹴られたり、相当場数は踏んできた。
 おまけに、やる前から負けが確定するような強敵に挑むのが好きという(周りに言わせれば)困った性分で。
 だから、秀吉は知っている。
 喧嘩は数じゃない。
 雑魚がいっぱいいるよりも、相手を食い殺したいくらいイカれた奴か、小指一本で何人も倒せるくらい強い奴か、そういう奴が一人いる方が、よっぽど恐い。

(食い足りねえ)

 上着についた泥を払い、秀吉は嘆息する。
 秀吉の足元に転がる、奴らは、まったく歯ごたえがなかった。
 何人いたって雑魚は雑魚だ。

(もう少し楽しませろよ)
 この俺が、わざわざ出向いてきてやったんだから、と不遜に思う。
 上着のポケットからソフトケースを取り出し、煙草に火をつけた。
 ライターをしまう手で、ほとんど無意識にズボンのポケットを確認し、確認して、しまった、と思った。
 くだらねーと呟いて、秀吉は校舎裏を後にした。



「そりゃお前、ゼータク病だな」

 ゼットンが言った。

「テメーに聞いてねーよ」

 秀吉が言った。

 ゼットンという男は、どうも悪い奴じゃないらしい。
 半年足らずのつきあいで、とりあえず、それは分かった。
 が、相手にするとどうも疲れる。
 背中に筆書された「唯我独尊」そのままに、ゼットンがマイペースすぎるせいだと思う秀吉は、けれど、己も我が道を行きまくるタイプだということには気づいていない。

「何だ、ゼータク病って?」

 秀吉の横に立っていたコメが、ゼットンのセリフに食いついた。

 時は昼休み。
 近くにうまいラーメン屋ができたとかで、三時間目に学校を抜け出したマサは、四時間目が終わっても帰ってこない。
 一人でいた秀吉に、コメが話しかけてきた。
 今朝の一件について質され、テメーの舎弟はしつけがなってねーよ、と秀吉は答えた。
「しかも弱ェし」
 イスにふんぞり返って言うと、舎弟じゃねーよ、とコメは苦笑した。
 そこで、詳しいことは自分も聞いていないから教えろ、と言ったコメに、秀吉は、今朝の出来事を話し始めた。
 ……ところに、ゼットンが割り込んできた。
「テメーの教室はここじゃねーだろ」
 秀吉がそう言うと、
「昼ごはん一緒に食べようと思って来たんだ」
 とても、とても気持ちの悪いことを言う。
 そのまま、近くの机で勝手に弁当を広げてしまった。

「ゼータク病はゼータク病だ。ウチのばあちゃんがよく言ってた。
 毎日いいもんばっか食ってると、たまにエビフライとかごちそう食ってもありがたみが感じられなくなるってな」

 ゼットンは、白飯をかきこみながら言う。
 なぜか上機嫌だ。

「ワッケわかんねー……」

 脱力する秀吉の横で、
「お前にとってのごちそうはエビフライなんだな」
 なんでか感心するコメに、秀吉は更に脱力した。

「つまり」
 けれど、ゼットンは、秀吉の脱力など、まるでお構いなく。
 玉子焼きを摘んだ箸で、秀吉の顔を指す。
「鈴蘭に入って早々に、この俺と喧嘩するなんてゼータクしちまったら、そりゃ他の奴とやっても物足りねーだろうよ」
 玉子焼きを口に入れ、次にウインナを口に入れ、頬についた米粒も取ってモグモグやりながら、ゼットンは言った。

(そーいうことかよ)

 脱力しつつも、秀吉は思った。
 ついでに、この男が上機嫌な理由も分かった。
「ウフフフフ……だって、俺様はつえーからな」
 ゼットンは不気味に笑う。
「何だったらリベンジマッチ、やったげよーか?秀吉くん、ン?」
 大きな顔をグイグイと近づけてくるゼットンを、いらねーよ、と秀吉は押しのける。
「テメーじゃねえよ」
 そう言って横を向くと、コメと目が合った。

 ゼットンじゃなきゃ誰なんだ?

 目で問われ、秀吉は思わず視線を逸らした。


 そのときだった。



 秀吉が視線を逸らした先には、教室の窓があった。
 その窓から見えた。
 見てしまった、と。
 反射的に思う。
 渡り廊下を、だらだらと体育館に向かう集団。
 その集団に目をとめて、秀吉の背中を、電流のようなものが走った。
 同じジャージを着た集団は、ジャージの色から見て三年生。
 その中に、一人、見覚えのある金髪。
 秀吉は息をのむ。

「秀吉?」

 秀吉の変化に気づいたのか、コメが秀吉に声をかけた。
 次の瞬間。
 まるでその声が聞こえたみたいに、その人が、校舎の方を振り向いた。



 秀吉は、まるで弾かれたみたいに立ち上がった。
 その人は、ただ振り向いた、それだけだ。
 それなのに、まるで弾かれたみたいに、秀吉は教室を飛び出した。

「秀吉!」
「どーした?」
「どこ行くんだ?」

 コメとゼットン、それに、戻ってきたらしいマサの声も、背中の方で聞こえた。
 でも、足が止まらない。
 気がつけば、学校も出て、駅の前まで来ていた。
 秀吉は、無人の改札を駆け抜け、ホームに滑りこんできた電車に飛び乗った。



 平日の真っ昼間。
 ガラガラの電車に揺られながら、秀吉は、ゼットンに言われた「ゼータク病」という言葉を思い出す。
 あの言葉は半分当たりで半分はずれだった。
 秀吉が鈴蘭に入って今日まで、負けた喧嘩は二回。
 デカい喧嘩だった、と思えるのもその二回だけだ。
 一回は一年戦争の終盤、ゼットンとの喧嘩だ。
 秀吉はゼットンにタイマンで負けて、ゼットンは秀吉に勝って、坊屋春道に挑戦した。

 でも、それじゃない。

 問題は、もう一回だ。
 あの日のことを考えると、今も体が熱くなる。
 写真の中のもう一人に、喧嘩相手のもう一回。
 いつもあんただ、と秀吉は息を吐く。
 車窓に映る自分の顔は、いつもの顔とは全然違う、ひどく間抜けな顔だった。



(あれは……あれは変な喧嘩だった)

 ゼットンとの喧嘩も、確かに変な喧嘩だった。
 殴られて憑きものが落ちるみたいな。
 変な喧嘩は、変な奴相手だったから、当たり前かもしれない。
 でも、それとも違う、変な喧嘩だった。
 売ってもいない喧嘩を、わざわざ買いに来た人。
 二年分のアドバンテージは、予想以上に大きかった。
 最初はともかく、途中からはほとんどやられっ放しだった。
 さびた金網に押しつけられて、サンドバッグみたいに殴られる。
 人の体は不思議なもので、殴られたのは腹なのに、ダメージはまず足にくる。
 ヨタヨタしていると、踊ってんじゃねーよ、とからかうみたいに言われた。
 手を伸ばし、白シャツの襟をつかむ。
 ズルッと滑ってボタンが飛んで、同時に秀吉も飛んでいた。
 殴られたり蹴られたり。
 不思議と痛みは感じない。

(この人、興奮すっと白くなるんだな)

 喧嘩の最中、間近にした顔に、そんなことを考えている自分がおかしかった。
 つり上がった眉も血走った小さな目も、ずっとそれだけ見ていたい。
 この時よ続け、と。
 祈るように強く思った。



 あの喧嘩は変だった。
 正確には、あのときの秀吉は、変だった。
 砂まみれで転がる視線の先に、革靴の爪先が見える。
 アドレナリンが血液の中を、そして、それ以上の猛スピードで体中を何かが駆け巡る。
 何かが、秀吉の何かをバラバラにして、バラバラになった先から再び組み立てる。
 転がったまま視線を上げると、その人の顔は、逆光で見えない。
 ただ、ひと月前まで真っ黒だった髪が、今は金色に染められいて、その髪が光っているのが見えた。
 本当に光っていたか分からない、ただ、秀吉の目にはそう見えた。

 きれいだと思った。

 ボロボロの体で何とか立ち上がり、ラストチャンスのつもりで拳を振り上げる。
 体育館の壁と、金網に挟まれた空間。
 体力的には限界だけど、二人きりのこの場所で、死ぬまでこの人と殴り合っていたい。
 空振りしたラストチャンスの後、今度はさっきとは別の方向に飛ばされた。
 KOされた秀吉の正面に腰を下ろし、煙草に火をつける。
 もう立てないと秀吉が言うと、少しだけ残念そうな顔をした。
 血のにじんだ唇から吐き出される、白い煙を目で追って、

「もう終わりか、秀吉」

 見下したように言いながら、笑っていた。


(確かに……そう、確かに……)

(俺を見て笑った)

 ズボンの布越しに、秀吉は写真を確かめる。

(もし、あんたを抱いてたのが阪東だとしたら……)

 阪東一派と、海老塚三人衆の抗争の話なら、秀吉も知っている。
「元エビ中の桐島が、同じ鈴蘭の阪東に病院送りにされたらしい」
 半年くらい前の噂で、同じ学校の連中も騒いでいた。
 もし、あの人が阪東に病院送りにされたのが、自分としたようなタイマンの末だとしたら……たとえ、そうじゃなかったとしても……。

(そういう相手と、あんたは、ああいうことをするんだ……)

 そこまで思って、秀吉はハッと我に返った。
 電車の窓に映る、自分の顔を見た。
 見て、愕然とした。
 意地汚い……物欲しげな……。
「クソッ!」
 反射的に、窓ガラスを殴っていた。
 俺じゃねー、俺じゃねー、と呻くように呟きながら、何度も拳を打ちつける。
 どう見ても素行のよろしくない少年の、どう見ても奇行に、同じ車両の乗客たちは、そそくさと隣に移動する。
 子ども連れの若い母親が、見ちゃいけません!と我が子の手を引いて行った。
 その様子を視界の端に入れ、少しだけ頭が冷えて、ズキズキ痛む拳を手で押さえながら、マンガみてーだな、と思う。
 そして、俺がマンガみたいに間抜けな目にあってるときに、あんたは体育のお時間で、バスケットボールでもしてるんだろうよ、と拗ねた想像を追加して……。
 なぜか、下腹が熱くなった。






3



 その晩、秀吉は夢を見た。
 中学時代、何度か変わった彼女のうちの誰かと、セックスしている夢だった。
 やわらかい体を腕に抱き、それなのに、ちっとも満たされない。
 彼女が声を上げるたび、快感に身をよじらせるたび、焦燥感が募った。
 甘い声、媚びるようなしぐさに、あんたもこんなだったのか、と。

 悪夢だった。



 翌日、秀吉は学校をサボった。
 あの人との接点は、鈴蘭しかない。
 学校にさえ行かなければ、とりあえず己の平穏は保たれる。

(平穏って……)

 京華中の狂犬の名が泣くな、と自嘲した。
 自嘲で済めば安いもんだと思った。



 そんな感じで。
 ごろごろしていると、夕方、マサが家に来た。
 自分の部屋で、ベッドに寝転がってぼんやりしていた秀吉は、
「よう」
 ぼんやりし過ぎて、人が入ってきたことにも気づかなかった。
 元気そうじゃん、と聞き慣れた声に飛び起きる。
「お前、変なビョーキでももらったんじゃねーかって言われてたぜ」
 クラスで、と笑いながら、マサは、秀吉にコンビニ袋を差し出した。

「何だこれ?」
「みやげ」

 袋の中からカップのアイスを取り出して、秀吉に渡す。
 子どもの頃から、数え切れないくらい出入りしている秀吉の家。
 ここは、マサにとって第二の我が家のようなものだ。
 だから、みやげなんて持ってくるのは珍しい。
 というか、かつてなかったことだ。
 手の中のバニラアイスをじっと見ている秀吉に、
「でも、元気そうじゃん」
 マサはもう一度言った。

(ああ、このアイスは……)

 見舞いのつもりか、と秀吉は思った。
 こないだも、と曖昧に言葉をにごすマサに、心配されていたのかと思うと情けなかった。
 と、同時に、全部話してしまおうか、とも思う。
 何もかも、マサに話してしまおうか。
 この男なら、きっと、何を聞いたって秀吉の味方でいてくれる。



 そう思って、でも止めた。
 何を聞いたって、味方でいてくれる。
 だからこそ、こいつには話せない。
 秀吉はそう思った。
 たとえば、どんなクソみたいな経験でも、ロクでもない考えでも、それがマサに話せるものなら秀吉は救われる。

 たとえば、中学生になったばかりの頃、秀吉は、初めてセックスした女に騙された。
 先輩の紹介で、一度だけ、勢いでやった女だった。
 生理が来ないと泣かれて、金を取られて、後で嘘だと分かったとき、腹を立てるより先に安心した。
 あらゆる意味で、思い出したくもない出来事。
 そんなことだって、マサには包み隠さず話した。
 笑ってもらえると、ホッとした。

 馬鹿みたいなこと。
 情けないこと。
 どうしようもないこと。
 どれだって、マサにできた話なら、笑い話だ。



 冷たいアイスのカップを、温めるように持つ。

「マサ」

 秀吉が呼ぶと、何だよ、とマサが顔を上げた。
 電気をつけていないから、表情は見えない。

「どーした?」

 マサが聞く。
 どーした?秀吉、と言われて、言えるかよ、と秀吉は思った。

「俺さあ、このスプーン嫌いなんだよ、木の味がすっから」
 だから、ごまかした。
「じゃ、俺スプーンもらってくるわ」
 どこまで気づいているのか、ひょっとしたら何も分かっていないのか、秀吉に言われて、マサは立ち上がり、
「おばさーん、スプーンちょうだーい」
 大声で呼ばわりながら、部屋を出て行った。

(マサにはできねー)

 階段を下りるマサの足音を聞きながら、秀吉は思った。
 あの人の話を、マサにはできない。

 あの喧嘩の顛末。
 陽に透ける金髪に感じた、陶酔に似た気分。
 思い出すたび蘇る熱。

 どんな顔をして話せばいいのか、見当もつかない。

 秀吉は、友達の少ない子どもだった。
 マサと仲良くなってからは、マサとばかり遊んでいた。
 中学生になって、秀吉がグレたとき、当たり前のようにマサも一緒にグレた。
 そして、二人で鈴蘭に入った。

 マサには言えない、と秀吉は思った。

「これも食えって」
 やがて、マサは左手にスプーンと、右手に梨の載った皿を持って戻ってきた。
 屈託のない顔に、生まれて初めて、居たたまれない気分を味わった。






4



 その晩も、秀吉は夢を見た。
 前の晩と同じ、セックスする夢だった。
 シチュエーションも同じで、ただ、相手だけが違った。
 秀吉が組み敷く。
 その人は、けれど、これまで抱いてきた女みたいにかわいくはない。
 秀吉が何をしても声を上げない。
 表情だって変わらない。
 余裕の笑みが忌々しかった。
 一方的に煽られて、自棄のように貪る。
 夢中になって貪っていると、突然、視界が歪んだ。

 気がつくと、体がなかった。
 意識だけが、体から弾き出されて、ふわふわしている。
 マジかよ、と呟く。
 と、再び視界がクリアになった。
 秀吉は息をのむ。
 さっきまでの自分が、別の男になっていた。
 髑髏のないライダースジャケット。
 男の着衣が邪魔になって、もう一人の姿が見えない。
 革ジャンの陰から、見覚えのある肌色が覗いた。
 ばんどう、ばんどう、と切れ切れに響く。
 その声は、もう、男かも女かも分からない。
 甘すぎる声に、耳をふさぎたいのにふさげない。

「ヒロミさん……」

 思わず呼んだ。
 そんなつもりはなかったのに、縋るような声だった。
 返事はない。
 秀吉が呼ぶのにも、その声は重なる。
 革ジャンの男は、テメーには見せてやらねー、とばかりに、腕にその人を抱き込んで……。

 そこで、目が覚めた。



 目覚めると、まだ夜で、窓の外が暗かった。
 ベッドの上に上半身を起こし、バリバリと頭を掻き毟る。
 生々しい夢に、不快な下半身。
 自己嫌悪でいっぱいだった。

 シャワーを求めて一階に下りると、居間の時計が、点滅して午前二時を知らせる。
 風呂場の窓から見た空は、未だ夜明けの気配すらない。
 バイクの音が聞こえた。
 どこのチームだろうか。
 家からそう遠くない場所で、連なって走るバイクの音と、派手なホーンの音も聞こえた。
 こんな時間に走ってるバカがいる。
 そう思って、思うと同時に、

(どっかのバカが、バイクで走ってるって、じゃあ、テメーは何してんだよ?)

 このところ、時どき頭の中で響く、自分じゃない自分の声。
 それが聞こえた。
 そいつは、秀吉の耳に痛いことばかり言ってくる。

 逃げるように部屋に戻ると、学習机が目に入った。
 一度たりともそこで学習などしたことのない学習机。
 その引き出し。
 右側に三つ縦に並んだ引き出しの、一番上。
 手をかけて、すぐに引っこめる。
 悶々とした気持ちに、つぶされてしまいそうだった。






5



 翌朝、秀吉は意を決して登校した。
 たかが学校に行くのに、情けない。
 そう感じたが、事実だった。
 意を決して家を出て、意を決してマサの家の前を素通りして、意を決して電車に乗った。
 曇天が街を押しつぶす。
 空一面、雲が低く垂れ籠める。
 扉に寄りかかりながら、秀吉は、ずっと外を見ていた。
 うす暗い空の下、電車に乗っている時間が、今日はやけに長いと思った。



 そして、学校に着いて、正確には、校門が見える場所まで歩いてきて、秀吉は、自分の運の悪さに天を呪った。
 今、世界で一番会いたくない人が、目の前にいる。
 秀吉の目の前を、歩いている。

(何でいるんだよ)

 そう思った。
 けれど、相手だって、同じ学校の生徒。
 だから、秀吉と同じ時間に登校してきたって、おかしくはない。
 駅から学校まで、下を向いて歩いていたせいで、その人がいることに、秀吉はずっと気づかなかった。
 もしかして、電車から一緒だったのかもしれない。
 家はどこだろう、と考えて、こんなときに、と打ち消す。
 唇を噛んで前を見る。
 自分が自分でないようだった。
 再び歩き出し、もう下は向かない、と上を見れば、頭上に広がるのは、雲しかない灰色の空。
 せめて、頼むから、俺がいることに気づいてくれるな、と。
 秀吉は、少し先の細い背中に思う。

 その人は、同じ三年らしい、太った男と話しながら歩いていた。
 といっても、喋るのは主に相手の方だ。
 相槌を打ち、ひと言ふた言、小さく笑う。
 笑う横顔を後ろから見ていると、胸が。
 秀吉の胸から腹の辺りにかけて、気持ちいいような気持ち悪いような、ゾワゾワした感じが伝わる。
 周りに人がいないわけじゃないのに、特に大きくもない、その声だけが耳に届く。
 腹の底は熱いのに、ぎゅっと拳を握った指の先は冷たい。

(スカした面しやがって)

 汗ばんだ頬を握り拳で擦り、八つ当たり気味に秀吉が思った、そのときだった。

 その人――― 桐島ヒロミが、振り返った。



 振り返ったヒロミの視線が、すぐ後ろを歩いていた、秀吉の姿を捕らえる。

「よう」

 片手を軽くあげた。
 その言い方もしぐさも、まるで仲の良い後輩にするみたいに気安くて、怒りなのか、それとも別の感情なのか、顔が熱くなる。
 気安く声をかけられて、それがたとえ万が一にも自分にとって腹の立つだけじゃなくて、万が一にも嬉しいことだって。
 だからって、かわいい後輩みたいに、飼い犬みたいに尻尾なんて。
 振れるわけがない、と秀吉は思った。
 もう下は向かないと決めたのに、思わず下を向く。
 舌打ちして、道路に唾を吐くと、
「何だテメー!」
 怒声を上げた。

 あの人の声じゃない。

 そう思って安心して、頭を上げると、ヒロミの隣の(太った)三年が、青筋立てて怒っていた。
「先輩にそーいう態度ってあるかぁ!」
 叫んだ男を、亜久津、とヒロミが止めた。
「朝っぱらから熱くなってんじゃねーよ」
 苦笑して、肥えた腹を小突く。
 小突いて、お前また太ったんじゃねーの、とからかうように言う。
「ふ、太ってねーよ!これは、き、筋肉だ!」
 太った男が、むきになって反論する。
 じゃれ合いの空気に、ばかばかしくなって、秀吉は二人に背を向けた。
「待て!まだ話は終わってねーぞ!!」
 などと、(亜久津というらしい)(太った)三年が騒いでいたけれど、知ったことか、と思った。

「あいつはあれでいーんだよ」

 そして、数歩行ったところで、耳になっていた全身が聞いた、ヒロミの声。
 同級生を宥めているらしい、その声は、やはり苦笑まじりで。
 落ち着いていて。
 欠片の動揺もなくて。
 ふざけんな、と秀吉は思う。
 今すぐ取って返して、スカした面をブン殴ってやりたいような気分だった。

(あんたに俺の何が分かるってんだ)

 俺なんかの、と。
 噛みしめた唇は、切れて鉄錆の味がした。





6



 それからの秀吉は、荒れた。
 わけもなくイライラするのは、これまでもよくあることだったが、今回に限っては、理由がちゃんとあるのが、かえってたちが悪かった。
 理由はちゃんと分かっているのに、自分で自分をコントロールできない。
 そんな訳で、学校の中でも外でも、相手かまわず喧嘩をした。
 肩が触れた、目が合った、とグレ始めた頃にさえ使った覚えのない理屈をつけて、買い手は一人のときも、複数のときもあった。
 勝つこともあったし、負けることもあった。
 どんな奴との、どんな喧嘩も、あの人とのあの喧嘩ほど、秀吉を熱くすることはなかった。



 目覚めたら、始業の時間もとっくに過ぎていた朝。
 遅刻を気にするような学校でもないから、慌てることなく家を出る。
 駅まで向かう途中で、マサの家の前を通った。
 マサは、もう出ただろうか。
 そんなことを考えながら、通りすぎる。
 あの日から、秀吉は、一度もマサと登校していない。
 学校で会えば、話すくらいはするが、以前のように二人一緒に過ごすことはあまりない。
 あの日、とは登校途中でヒロミに会った日。
 あいつはあれでいーんだよ、などと、分かったようなことを言われて、秀吉は腹が立った。
 お前のことなら何でも分かる、なんて顔をして、その実、あんたは何にも分かっちゃいない。
 俺があんたのことを……と、そこまで考えてハッとする。
 道端の小石を蹴り、落ちていた空き缶を蹴り、それでも足りない気がして、電柱を蹴る。
 さすがに足が痛くて、俺はバカか、と思う。
 マサと顔を合わせづらいのも、当然だった。



 最寄駅から、電車に乗って、学校に向かう。
 ラッシュの時間もとうに過ぎ、車内は空いていた。
 しばらく経つと、鈴蘭の生徒がぼちぼち増え始める。
 みんな俺と同じだ、と秀吉は思った。
 ダルそうな顔を車窓に晒して、その実、周りを気にしている。
 周りを気にし、誰かに気にして欲しがっている。
 ふと、視線を感じた。
 そちらの方を見ると、何となく見覚えのある男が秀吉を睨みつけていた。
 たぶん、数日前ボコボコにした、たぶん、二年生。
 包帯巻きのミイラみたいな姿で、それでも闘争心を失わないのは、いっそ賞賛に値する。
 振り返って目が合って、こちらもあちらも鈴蘭だから、公共の場で喧嘩はちょっと、なんて配慮は一切ない。
 一触即発の雰囲気になった。
 そして、そんな雰囲気になったところで、
「チッ」
 ミイラ男が盛大な舌打ちをする。
 電車は、鈴蘭の最寄駅に着いていた。

 電車を降りた秀吉は、駅のトイレに直行した。
 背後には、ミイラ男のついてくる気配がする。
 歩きながら、秀吉は一人ほくそ笑んだ。
 鈴蘭はいい学校だ、と心から思う。
 イライラとして、無性に人をブン殴りたいとき、鈴蘭ほどいい学校は他にない。
 トラブルは、黙っていたって向こうからやって来てくれる。
 やって来なければ、自分から行くまでで、売られた喧嘩を買ってくれる相手だって必ずいる。
 いい奴ばかりの、いい学校だった。
 駅のトイレに入って、個室に入って、用は足さないけれど、きっかり一分。
 カウントして外に出ると、臨戦態勢のバカが待っていた。

 ラジオ体操みたいな喧嘩を済ませて外に出ると、構内は閑散としていた。
 発着の隙間の時間なのか、駅前にも、人の姿はほとんどない。
 最初に一発だけ喰らってしまった、頬のキズを手の甲でぬぐう。
 服の汚れだけ適当に払うと、秀吉は学校へ向かった。



 ここ数日、遅刻こそするものの、秀吉は毎日サボらず学校に行っている。
 毎日登校して、毎日誰かしらとやり合った。
 ほとんど、八つ当たりの相手を探しに行っているようなものだ。
 それは自分でも分かっている。
 秀吉が荒れている、という噂は校内を駆け巡り、昨日はとうとうコメから、忠告めいたことまで言われた。
 三年も目ぇつけてるらしいぜ、とコメは言った。
 何でテメーがそんなこと……と秀吉が言いかけたのを遮るように、軍司の奴も心配してた、と言われ、情報の出所を知る。
 ああ、ホンジョーさんか、と思った。
 秀吉がキレないように、キレないように、コメは気遣いながら諭してくれた。
 この男も、元は短気なはずだ。
 それが、こんな風に気遣ってくれるんだから、近頃の俺はどれだけ危ない奴に見えていたんだろう、と秀吉は思う。
 しかし、残念ながら、コメの話は、秀吉の胸にはまったく響かなかった。
 要る喧嘩と要らない喧嘩の区別など、できるなら今頃こんな自分じゃない。
 馬の耳に念仏の見本みたいなもので、結果、すべて流してしまった。
 軍司の奴も、とコメが言ったのから、ホンジョーさんか、と導き出し、ほとんど反射的に思い出す。
 思い出せば、コメの明るい髪色さえ癪にさわり、うるせえ、と吐き捨てて背中を向けた。
「待てよ、秀吉」
 珍しく焦ったような声が追いかけてきて、たまらず秀吉は駆け出した。
「金髪は嫌いだ」
 口の中でそう呟き、一瞬立ち止まって、また走り出す。
 いつのまにか、校舎の中の、普段あまり来たことのない特別教室の並ぶ辺りまで来ていた。
 特別教室……といったところで、具体的に何室が並んでいるのか、秀吉は知らない。
 一年生の授業は、それらの使用が必要なほど、まだ進んではいないし、きっと進まないまま一年が過ぎるだろう。
 だから、それらの部屋が何であるのか、秀吉は知らないし、この先もずっと知らないままだ。
「……」
 無言のまま、廊下の先を睨む。
 否、ただ一室だけ。
 知っている、それは……。 「クソが」
 思い至る前に足元に唾を吐き、秀吉は踵を返した。



 その晩も、秀吉は夢を見た。
 またか、と夢の中で意識を得た直後、うんざりしてしまうほど。
 その夢は、もう何度も見ている。
 それはもう、ほとんど毎日と言っても過言でないほど。
 革ジャンの男は、貪り合う二人の背後に立つ秀吉に気づくと、いったんヒロミを離して、こちらに向かせた。
 両足を大きく開かせ、未だ、現実には秀吉が一度も拝んでいない、その部分を見せつける。
 濡れたところを指で開いて、
「お前もするか?」
 と。
「やめろよ阪東、秀吉困ってんじゃん」
 かたまってしまった秀吉の前で、ヒロミが笑いながら、男の背中に腕を回す。
 続きをねだり、自ら腰を揺らして……、その後は、暗転だった。



 目覚めると、もう眠れず、秀吉は、机の引き出しを睨んだ。
 さすがに夢精はもうしない。
 しかし、刺激に体が慣れるほど、何度も見た夢は、見るたび、秀吉の精神に確かなダメージを与えた。

(あいつはもう、俺のことなんか気にしてねえのに)

 自分だけが捕らわれて、盛大に空回りしている。
 秀吉が拘っている、あいつはあれでいーんだよ、という言葉にしたところで、ヒロミの方はどれだけ本気で言ったのか。
 今となっては分かったものじゃなかった。
 本当は、あのときの喧嘩の意味でさえ……。

「クソッ!」

 秀吉は、思わず握った拳を枕に叩きつけ、大きく息をついた。



 次の晩、秀吉は外に出た。
 眠るのが恐いからだ、と言ってしまえばそれまでだが、切実だった。
 家族に気づかれないように家を出て、一路、盛り場を目指す。
 駅前の繁華街をうろつき、押し売りの喧嘩を買ってくれる相手を探す。
 鈴蘭の中ほどではないものの、決して治安がいいとは言えない街だ。
 そんな相手はすぐに見つかった。
 しかも、今夜は、自分から売る必要もなく、向こうから来てくれた。
 雑踏で呼び止められ、路地裏の方へ顎をしゃくられる。
 険しい目つきの男は、見覚えのない顔だったが、ここ最近の秀吉の行状に何がしか物申したい誰かかと思った。
 年季の入った革ジャンの背中に目をとめて、身の内で闘争心が頭をもたげたのを感じた。

 気がつくと、秀吉は一人地面に転がっていた。
 そこは、繁華街のビルとビルに挟まれた細い路地で、向き合った男に、自分から殴りかかっていったことは覚えている。
 何発か殴って、殴られて、また殴って、倒れた相手に馬乗りになって殴っていたら、突然視界が暗転した。
 寝転がったまま後頭部に頭をやると、ぬるっとした感触とともに、強い痛みを感じる。
 懐が奇妙に軽く、探ってみると財布が消えていた。

「ああ……」

 脱力する。  まだ乾いてはいないけれど、とりあえず血は止まっているようだった。
 他にさほどダメージがないところをみると、最初から財布が目的だったのかもしれない。
「バカみてえ」
 思わずつぶやく。
 やられたな、と舌打ちして、手のひらをズボンで拭った。
 拭った手を地面に投げ出し、空を見上げる。
 ビルとビルに挟まれた、細い空だ。
 埃っぽい路地裏は饐えた臭いがし、こんな所に本当は一秒だっていたくないのに、起き上がる気力がさっぱりわかない。
 地面に投げ出して汚れた手のひらを、もう一度ズボンで拭い、俺は何をやっているんだ、と自問する。
 自問して、けれど、自答は避けた。
 視線を少し斜めにすると、表通りの人の行きかいが見える。
 いかにも悪そうな若い奴、くたびれめのサラリーマン、たぶん水商売の女。
 たまに金髪が通るたび、意識の底が緊張した。
 金髪、あるいは明るめの茶髪にさえ反応してしまう。
 ほとんど条件反射のようで、自分でもおかしかった。
 俺は何をやっているんだ、と自問して、自答を避けたのは。
 秀吉は大きく息を吐いた。
 棒状の何かで殴られたと思しき頭がズキズキ痛む。
 俺は何をやっているんだ、と自問して、やっていることはともかく、やりたいことなら、実はあった。
 夜ごと見る夢と、あの日の金髪が意識の底で踊る。
 気づき始めたそのことに、できれば永遠に、秀吉は蓋をしたかった。






〈続く〉



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