みもよも
これは病気だ、と思う。
「どうかしたのか、ヒロミ?」
その日、朝からぼんやりとしていたヒロミに、隣の隣の教室から遠征してきていたポンが聞いた。
窓の外は雨、灰色の空が地上に重たく圧しかかる。
鈴蘭男子高校の生徒は勤勉の二文字とは無縁、ゆえに、天候の悪い日には、教室の人影もまばらだ。
春道もマコも、今日は欠席だった。
「何が?」
机に肘をつき、ヒロミはポンに胡乱な視線を向ける。
ポンはそんなヒロミの顔を見返すと、眉間に皺を寄せ、リーゼントの前髪を崩すように掻いた。
「何がって…」
うつろな瞳に、締まりのない口元。
とても、とても桐島ヒロミらしくない。
「お前、具合でも悪いんじゃねーのか?」
少し考えた後、ポンは聞いた。
そう口にしてみると、心なしか顔色も悪いような気がする。
「…いや」
しかし、ヒロミは少し考えた後、首を横に振った。
「そういうんじゃなくて」
訥々と言う。
これも、ヒロミには珍しい。
「この雨のせいかもしれねー」
そんなことを言って、窓の方を見た。
窓ガラスには、水滴が膜のように張っている。
冷たい冬の雨がベシャベシャと降る、嫌な天気だった。
この雨のせい。
…なんて、嘘をつくな。
けれど、ポンもつられて窓の方を見た後、視線をヒロミに戻して思った。
ヒロミの様子がおかしいのは、実は今日に限らない。
今日の雨が嘘だと言いたくなるほど、昨日の空はきれいに晴れていたけれど、昨日もヒロミはおかしかった。
屋上のソファに腰かけて、誰とも口をきかず、やっぱりぼんやりとしていた。
1か月ほど前、鈴蘭と鳳仙学園との抗争に決着がついた頃からだ。
その頃から、ヒロミはおかしくなった。
元々口数の多い方ではなかったのが、更に無口になった。
薄い紗幕のかかったような目をして、人の話も、聞いているのかいないのか分からない。
ポンは、初めこそ春道と一緒に、ヒロミがマコの真似をして女にモテようとしている、などと騒いでいたのが、さすがに少々心配になってきていたのだ。
ヒロミは、ポンの視線に気づくと、困ったように笑った。
無理笑いは明らかで、本当にヒロミらしくない。
ポンの周りでは誰よりも、この友人は内心を隠すことに長けていたはずだ。
悪い言い方をすれば、嘘をつくのがとても上手い。
「ならいいけど」
ポンがため息をつくと、ヒロミは、困り顔で笑ったまま、首をかしげた。
そのヒロミの仕草が、長いつきあいの相手なのに何だか初めて見るようで、それ以上聞く気が失せた。
「お前、顔でも洗ってきたらどうだ?」
提案してみる。
スッキリするぜ、と言ってみる。
この雨では、屋上に出ることもできない。
「ああ、そうする」
ヒロミは、うなずいて席を立った。
教室を出かけたところで、ヒロミはふと、思い出したように立ち止まった。
「そういや、俺、今日すげえ金持ってたんだった」
言いながら自分の席に戻ってきて、机の中をあさる。
取り出されたクリアファイルには、程よく膨らんだ茶封筒が挟まれていた。
中を見せてもらうと、確かに諭吉。
福沢諭吉の団体様である。
「どうしたんだ、これ?」
驚きつつポンが聞くと、親父が…と口にしかけてヒロミは言葉をにごした。
これも、深くは追究しない。
「ここに置いとくと危ねーから」
ヒロミは、そう言って封筒を学ランのポケットに入れた。
何と言っても、ここは鈴蘭男子高校である。
用心はしてし過ぎることはない。
ヒロミは、特に大事そうにでもなく、封筒をポケットに捩じこんだ。
ふと、感傷的な気持ちが湧きかけて、ポンは首を横に振った。
同情は禁物、ヒロミにもヒロミの家族にも失礼だ。
「俺が見張っといてやろうか?」
だから、殊更に、冗談めかして言った。
「バカ、テメエが一番信用できねーんだよ」
ヒロミはポンの冗談に乗って、笑いながら、すれ違いざま肩と肩をぶつけてきた。
伸び上がるようにして、ぶつけられた位置は、思いがけず低い。
嬉しくなって、言葉をついだ。
「何でだよ、しっかり見ててやるぜ」
ポンは嬉しくなって、それなのに、ヒロミは何故か、信じられないものでも見たような顔をしてポンを見た。
「…どうした?」
小さな目が、きっと限界まで瞠られる。
凝視されて戸惑いながら、ポンが声をかけると、ヒロミは、ハッと顔を上げた。
「何でもねー」
やっぱ預かってて、と封筒をポケットから取り出し、今度はポンの手へとねじこむ。
そのまま、よたよたとした足取りで、教室を出ていった。
「何だ、あいつ?」
ポンは、ヒロミに渡された茶封筒を両手に握りしめた。
二人の会話を盗み聞いていたのだろう、ポンの手の中のものに、物欲しそうな視線を投げてくる同級生を睨みつける。
あのぼんやりの理由も、今のハッの理由も、もっと詳しく聞くべきだったか。
休み時間の終了を告げるチャイムが鳴って、ポンが自分の教室に戻ろうとするときにも、ヒロミは戻ってこなかった。
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