喫茶桐島
ヒロミ、と。
どんなに小さな声で呼んでも、それが阪東ヒデトの声である限り、必ず気づくのが桐島ヒロミという男だ。
必ず気づいて、ただし、こちらを向くか向かないかは、そのとき次第。
ヒロミは阪東を気まぐれだと言うが、阪東に言わせれば、ヒロミも相当だ。
一緒に暮らし始めて、もう10年以上になる。
2人を取り巻く環境も、何もかも変わったが、そこは変わらない。
今も。
先刻から、ヒロミはキッチンに立っている。
リビングから、阪東がほんの囁くような声で呼んだのに振り向いた。
「どーした?」
「何でもねー」
久しぶりのオフ日だ。
昼過ぎまで寝ていて、起きたら急にコーヒーが飲みたくなった。
振り返ったヒロミの左手には、2人分のコーヒーカップ、右手にはドリッパーとガラスポット。
面倒なものをわざわざ出してきたのは、インスタントは嫌だと阪東がごねたからだ。
日の当たるリビングのソファの上で、猫のように体を伸ばす。
ほくそ笑む同居人を、「変な奴」とヒロミは一言で片づけ、流しに向き直った。
黒いTシャツの背中は細い。
プリントされたバイソンの角を猛る姿が痛々しいくらいに、小さく痩せている。
そのくせ、首から肩にかけての肉の盛り上がりは、服の上からでも確認できる。
筋肉は、人一倍ついているのだ。
「変な体」
阪東はつぶやいた。
しかし、その変な体に欲情してしまう男が己なわけで。
口にされたのが自分の名前でないからか、今度はヒロミは振り返らない。
後ろ姿でもよく分かる。
ヒロミは、コーヒーを丁寧に淹れる。
ドリッパーに注意深く湯を注いでいる最中だ。
「ヒロミ」
いたずらな気分で、少し大きな声で呼びかけてみる。
が、無視された。
今度は明らかに気づいている。
気づいているのに、振り返らない。
手元に集中したいのだ。
阪東にしては珍しく、ヒロミに無視されても怒りは感じなかった。
寝ころんだまま、両手を伸ばす。
両手の親指と残り4本の指とで、いびつな三角形を作った。
ヒロミの全身、とまではいかないが、ヒロミの姿が三角形の中に収まる。
ヒロミがこちらに注意を払っていないのをいいことに、細い背中を眺めまわす。
正しく視姦だ。
三角形を少し下にずらすと、現れるのは、ジーンズを履いた2本の足。
リーバイスの501だ。
若き日のマーロン・ブランド…とヒロミは全く似ていない。
そして、きっとジジイになっても、あんなふうに太ったりはしない。
そんなことを考えながら眺める。
硬い布地に包まれた尻は、ゴム毬を2つ並べたような女の尻とは全く違った。
硬い
小さい
薄い
狭い
ジーンズの布地に触発されたわけでもないだろうが、ヒロミの後ろ姿を眺めていると、そんな単語ばかりが頭に浮かんだ。
硬くて、小さくて、薄くて、狭くて、物理的にとても気持ちいいとは言えない。
でも、あの中に押し入ると、ヒロミはすごくいい顔をする。
いい声で鳴く。
やりてえ、と切実に思った。
「阪東?」
妄想に耽っているうちに、いつのまにかコーヒーが入っていたらしい。
コーヒーカップを鼻先に近づけられても気づかないなんて。
湯気をたてるカップを手渡しながら、ヒロミは呆れたような顔をした。
モノローグをキャプションで付けるなら、間違いなく、「またロクでもねーこと考えてんな」。
「いいことだぜ」
阪東は言ったけれど、ヒロミは取り合わない。
「冷めないうちに飲め」などと、母親のようなことを言う。
このコーヒーを飲み終わったときがお前の最後だ。
一瞬気分が萎えかけて、でも、負け惜しみのように考えたら、再び高揚した。
ソファの背もたれに腰かけ、見下ろしてくるヒロミの顔を見上げ、思った。
そんな涼しい顔してられんのも今のうちだぜ。
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