君子豹変
ほんの数か月前まで、桐島ヒロミは、阪東秀人のことが本当に大嫌いだった。
彼が無期停をくらったと聞いたときには、男としてあるまじきことだが、正直うれしかった。
もっとも、無期懲役が終身刑ではないのと同様、無期停学は、適当な期間が経過すれば明けてしまうのが玉に瑕だったが。
もう二度と顔を見たくないから、停学が明けても学校に来てくれるな。
心からヒロミは思った。
これも男としてあるまじきことだが、このまま学校をやめてくれればいいのに、と強く願っていた。
それが今はどうだ。
ヒロミは苦笑する。
寝返りを打つと、枕に肘をついてタバコを吸っていた阪東がこちらを見た。
阪東のこめかみには、怪我の痕がある。
生傷というほどには新しくなく、古傷というほどには古くない。
普段はサングラスの蔓で隠れていることの多い場所に、うっすらと残っている。
激しく動いたせいで、額に落ちた阪東の前髪を、ヒロミは手を伸ばして払ってやった。
傷あとに、以前、大川橋の下の川原で目撃した阪東のケンカのことを思い出す。
相手は鳳仙の美藤竜也。結果は阪東の負けだった。
そして、そのケンカを境に、ヒロミは変わった。
かつて、本当に、死ねばいいとまで思うほど嫌悪した阪東が、一転、恋の相手になった。
自分でも容易には受け入れることのできなかったそれは、しかし、遠い過去の話ではない。
ほんの数か月前のことだ。
男子三日会わざれば刮目して見よ、という言葉がある。
ヒロミは成長したわけではない。
また、期間も三日ではない。
けれど、その数か月で、ヒロミは変わった。
主観的には、阿蒙が呂蒙になるのにも劣らない変化だ。
正確には、変わったのではなく、変えられたというのが少し悔しいけれど。
大川橋より長いスパンを取って、この一年。
あるいはもう少し短く、この半年。
ヒロミは、二度変化した。
原因は二人の男だ。
一度目は、美藤兄弟の事件から遡ること更に数か月。
他校ともめるのではなく、ヒロミが校内で、ポンやマコとともにケンカに明け暮れていた頃のことだ。
その頃、鈴蘭は、阪東秀人の率いる勢力と、ヒロミたちを含むそれに抵抗する勢力とで二分されていた。
もっとも、後者は、まとまりを欠いていたので、二分というのには実は語弊があるが。
校内は、常に一触即発の状態で、寄ると触ると生徒同士が角を突き合わせる。
大人から見れば単なるガキのケンカである。
けれど、当時はそれが、鈴蘭の基準で考えてさえリミットを超えた荒み方だった。
争いの渦の中心にいたのは阪東、今、ヒロミの隣に体を横たえ、つまらなさそうな顔でタバコを吸う男である。
あの頃の阪東は、明らかにおかしかった。
鈴蘭を獲るためなら、死ぬことも殺すことも厭わない。
たった一人の意志が、学校全体をまるで雲のように覆い、子供のケンカを命がけの抗争へと変えていた。
理解不能な情熱は、もっと簡単に言えば狂気である。
ヒロミにとって何が嫌かといって、わけが分からないことほど嫌なものはない。
淀みきった空気に濁った暴力。
ヒロミは、心底うんざりしていた。
それを、ある日突然現われて、一気に変えてしまったのが、坊屋春道である。
一人目の男だ。
転校してきたばかりの春道に殴り飛ばされたとき、ヒロミは不思議な感覚を味わった。
痛くも悔しくもあるのに、何故か視界が晴れていく。
こいつは拳に浄化能力でも秘めているのか、とその後の経過も含め、冗談でなく思った。
そして秋、二度目の変化がヒロミにもたらされた。
今度は春道ではない。
より内的な変化は、ほんの数か月前、誰より嫌いだった阪東によりもたらされた。
すでに語った、鳳仙との争いの最中である。
ヒロミの視線に気づくと、阪東は、おもむろにタバコを灰皿に押しつけて消した。
体勢を仰向けに変えて、ヒロミの肩を抱く。
うす暗い部屋の中、ゆらゆらと立ち上る、最後の煙の行方をヒロミは視線で追った。
腕を上げると、その腕をつかまれた。
阪東は、ヒロミの体を布団の中に押しこみ、ひと言、寒いと呟いた。
仰向けから再びうつ伏せへ。
しかし、今度はヒロミの横ではなく、ヒロミの上へ覆いかぶさってくる。
すぐに背中に腕がまわり、直後、口づけられた。
阪東の寒いは、ヒロミが腕を上げて隙間ができると、つめたい空気が布団の中に入って寒い、という意味。
そう推測して、ヒロミは、抱きしめられながらもベッドの下に手を伸ばした。
床に落ちているリモコンを拾う。
エアコンの温度を上げる。
と、阪東が、閉じていた目をうっすらと開けた。
お互いに喫煙者だから、ざらざらとした苦い舌同士を擦りあわせる。
唇を離して、ヒロミは、阪東の肩口に顔をうずめた。
好きの反対は嫌いではなく無関心、などと陳腐なことを言うつもりはない。
数か月前、ヒロミは、晩秋のつめたい風に晒されながら、阪東の敗北を見届けた。
まるで、自分が記録映画のフィルムと化したような。
カラカラとフィルムの回る空音に耳を澄ましながら、ヒロミは、自分の中で、何かが変わっていくのを感じた。
何か、などと、ごまかしても仕方がない。
たとえば、阪東に対して抱いているのとは種類が違うが、春道など。
ヒロミには、興味を持ったもの、好きになったものを、ひたすらに理解しようと努める癖がある。
場合によって、良くも悪くもある癖だ。
どこで混乱があったのか。
いつのまにか、前後が入れ替わった。
好きだから分かろうとする、から、分かるから好きになる、へ。
阪東を理解した、と思った瞬間。
ヒロミは恋に落ちていた。
理解の内容については自信があるが、自身の変化については、正直なところ自信がない。
勘違いと思うところもないではない。
けれど、ヒロミが考えるより先に、阪東が動いた。
動物的な直観で、真理に達したらしい。
俺のことが好きだろう、と。
勝ち誇ったように阪東から言われたとき、ヒロミは、春道に殴られたときとは全く違う種類の、けれど、やはり不思議な感覚を味わった。
名状しがたいそれは、あえて言うなら、喜びではなく悦びである。
もっとも、春道が意識せずにしたのとは異なり、阪東は、ヒロミの生活を一変させたわけではない。
阪東に抱かれるのが日常になっても、ヒロミは、表面的には何も変わらなかった。
食後の歯磨きや屋上での談笑。
阪東は、ヒロミの生活に、何食わぬ顔をしてコンテンツを一つ加えただけだ。
けれど、とヒロミは考える。
同じことが、もし、一年前あるいは半年前に行われていたとしたら。
同じ行為の、ヒロミにとっての意味は全く異なっていたに違いない。
一年前のヒロミが阪東に抱かれるなら、強姦の他にありえない。
それなのに、ほんの数か月の時を間に挟んだだけで、まるで同じことを躊躇いなく、むしろ進んで受け入れる自分がいる。
「どうした?」
天井を見つめて、ぼんやりとするヒロミの顔を、阪東は怪訝そうに覗きこんできた。
「何でもねえ」
ヒロミは、そう答えた。
阪東は、抗争の最中にも、ヒロミを抱きたくてたまらなかったという男である。
説明しても分かってはもらえないだろう。
目の前にある阪東の鎖骨に鼻を擦りつけながら、
「お前が好きだ」
そう言うと、阪東はヒロミの体の上で、変な顔をした。
嗅ぎ慣れた男の肌の匂いを嗅ぐ。
一見、怒っているようにしか見えない顔だが、ヒロミには分かる。
阪東は照れているのだ。
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