黒柴と私 2
ヒロミは、阪東の指示どおり牛乳を買ってきたらしい。コンビニの袋をコタツの上に置くと、中から500mlの紙パックが頭をのぞかせた。
コートを脱ぎ、ハンガーにかける。ひと言も口をきかないのがおそろしい。
子犬を抱いたまま、膝立ちの阪東を見下ろして、
「立てよ」
やっと開かれたヒロミの口から出てきた声は、普段の三割ほど低い、冷えたトーンだった。
「それ、何?」
立ち上がった阪東と向かい合い、ヒロミはその腕の中にある黒い塊を指して言った。黒い塊、すなわち、黒い子犬のヒロミである。
犬のヒロミは阪東の腕の中で、一連のやり取りにも気づくことなく、安らかな寝息をたてていた。愛らしい子犬は、寝顔もまた愛らしい。
ひくひくとうごめく鼻を間近に、阪東は相好をくずした。
「テメー、なかなか大物じゃねーか…」
口元を緩ませながら、湿った鼻先をつついてやる。
「ここ、ペット禁止だぜ」
遊んでいると、冷ややかな声がかかった。見ればヒロミは、阪東もこれまで見たことのないような恐い顔で、すやすやと眠る子犬を見ている。
「拾ったんだよ」
「答えになってねーだろ」
間髪入れずに言われる。仕方がないので、阪東はここ数時間の出来事をヒロミに話した。
アパートの前で子犬を見つけたこと。
懐かれたので部屋につれ帰ったこと。
寒かったのでコタツに入れて寝かせたこと。
話が進むにつれて、ヒロミは不機嫌な顔になっていった。
「…牛乳って、こいつの?」
いつものコンビニで売り切れだったから、俺すげー遠回りして買ってきたんだけど、と。つり上がった眉の間に、みるみるうちに皺が寄る。
「ヒロミ…」
その表情に阪東はぴんときた。きてしまった。
「お前まさか…」
ヒロミの不機嫌の理由に思い至る。阪東の、帰宅してからも脱いでいない上着の腕には、狸のような顔をした真っ黒い小さな犬が、しっかりと抱かれていた。
縄張り意識。
阪東が以前遊んだことのある女に、猫飼いがいた。彼女は、自宅で猫を二匹飼っているのだけれど、二匹目を迎えるときには先住の一匹にとてもとても気をつかったという。
「もうね、すっごいかわいがってあげなきゃいけないの。部屋もね、前からいた子しか入れない部屋っていうのを決めて。立ててあげないと。あと、新しい子と前からいる子の見てるとこで、あんまりベタベタするのもダメ」
動物って意外とやきもちやきなのよ。そう言っていた、自分も猫みたいな、甘ったるい声を思い出す。
ヒロミの不機嫌は、つまり、彼女の猫と同じ。
「こいつに妬いてんのか?」
普段は自分が独占している阪東の関心も腕も、犬のヒロミに横取りされて。
「違う」
もちろん、ヒロミは言下に否定したが、きつい視線を子犬から離さないままでは説得力がない。
そうか、妬いてんのか、ヒロミはヒロミに。人が犬に。いや、むしろ犬が犬に。
犬のヒロミの寝顔を見ているときと同じ、あるいはそれ以上に、緩む口元を抑えることができない。
「んだよ」
阪東は、後ずさるヒロミをつかまえ、犬のヒロミを抱いているのとは逆の腕を腰にまわした。鼻先に子犬を近づけてやると、ヒロミは嫌そうに顔をそむけた。
「犬、嫌いか?」
「そうでもねーけど…」
頬にキスをしてやると、ヒロミは複雑そうに答えた。一度機嫌を損ねてみせた手前、簡単にシッポを振るのには抵抗があるらしい。
視線を外したままのヒロミに、一つだけいいか?と聞かれて、阪東は頷く。
「ヒロミって、その犬の名前か?」
「似てんだろ」
自信満々に答えてやっと、観念したように阪東の腕にしがみついた。
戻る