黒柴と私
バイトから帰ると、アパートの前にヒロミがいた。
阪東の顔を見てキャンと鳴き、黒く短い尻尾を振る。
正確には、ヒロミに似た子犬がいた。
「お前、名前は?」
阪東が聞いても、首をかしげるだけ。よちよちとした足取りのくせに、妙にすばやく寄ってくる。子犬は、阪東の足に身をすり寄せ、キューンと小さく鼻を鳴らした。
触っても大丈夫か?
しゃがんで視線を合わせると、もの言いたげな目で見返してきた。
こわごわ、傍目にはそう見えないだろうが、こわごわ手を伸ばす。阪東が頭を撫でると、子犬は、実に気持ちの良さそうな顔をした。
ぬいぐるみのような手触りに、思わず口元が緩む。
「テメー、ちっとは警戒しろよ、脳みそ入ってねーのか?」
毒づきながら、内心は満更でもなかった。
何しろ、生まれてこのかた、動物に好かれたことの一度もない己だ。好かれたことがないというのは、正確ではない。正確には、嫌われなかったことが一度もない。
阪東を前に、吠えもしなければ逃げもしない犬は初めてだった。
下顎のあたりを指で擦ってやると、目を細める。猫なら確実に喉を鳴らしているだろう顔で。抱き上げても暴れない。素直に腕におさまって、不思議そうに阪東を見上げる。
そんなところもヒロミだ。
今は冬。子犬が外で夜明かしするには厳しい季節だった。
「うちに来るか?」
そう言うと、子犬はまたもやキャンと、答えるように高く鳴いた。
阪東が子犬を抱いて家に入ると、ヒロミは、まだ帰ってきていないらしい。部屋の中はひんやりとしていた。
すぐにコタツの電源を入れ、あたたまるまでの間、コタツ布団で子犬をくるむ。
こうして明るい部屋で改めて見てみると、子犬は本当にヒロミによく似ていた。毛が黒いので、現在というよりは数年前の、高校生のヒロミに。
一体何がポイントなのか。阪東は、小首をかしげる子犬の前で、腕組みをして考えた。全体の雰囲気か、それとも短い眉毛のようにも見える、目の上の白い斑点か。
熟考しつつ、帰り道で牛乳買ってくるように、いまだ帰らぬヒロミにメールを打つ。
あたたまったコタツに足を入れて寝そべり、
「こっち来い」
手招きすると、子犬はすぐに阪東の横にもぐりこむ。
「いい子だ、ヒロミ」
頭を撫でて、阪東は子犬を傍らへと迎え入れた。
便宜上、子犬のことはヒロミと呼ぶ。
あとしばらくすれば、人間のヒロミも帰ってくる。便宜も何もなくなるだろうが、阪東の知ったことではなかった。俺様が他の名前で呼ぶ気になれなかったのだから、仕方がない。
犬のヒロミは、阪東の横に寝そべり、阪東の胸元に鼻先をつっこむようにして、においを嗅いだ。ピスピスと小さな音をたてながら、黒い鼻をうごめかす。そして、クシャミをいくつか、やがて、安心したように欠伸をひとつ。
眠ってしまったヒロミを腕に抱き、いつしか阪東も眠りに落ちていた。
どれくらい時間が経ったのだろうか。
「…ヒロミ?」
夜半、阪東はふと目を覚ました。時計を見れば、阪東が犬のヒロミを連れ帰ってから、すでに2時間近くが経過していた。
家の中はしんとしている。人間のヒロミは、まだ帰ってきていないようだった。
普段の同じの曜日なら、もうとっくに帰宅している時間である。
「まさか…」
一瞬にして、悪い想像に埋めつくされる阪東の頭に、ふと、ある疑いが生じた。
寝転んだまま、コタツ布団をそっと持ち上げる。そこには犬のヒロミが、体を丸め、すやすやと眠っていた。
「まさか…」
睡眠中にもピンと立った黒い耳、目の上の白い斑点に触れる。途端、苦悶しているような顔になるのが、実に似ていた。
「まさか…」
壊れたレコードのようにくり返す。少なくとも阪東の目には、似ているどころの騒ぎではない。まるで同じに見えた。
突然、布団を剥ぎ取られて体が冷えたのだろう。子犬は、小さなクシャミをした。そして、それがまたヒロミのそれと。
疑いは、一気に確信へと変わった。
「ま、まさかお前…」
眠るヒロミをかき抱く。
犬になっちまったのか!?
「嘘だろお!!」
「何してんだ、阪東?」
阪東が叫ぶのと、部屋の電気が点くのとが同時だった。振り返ると、人間のヒロミが、コンビニの袋を片手に呆然と立っていた。
「…お前、ヒロミ、か?」
長い沈黙の後、子犬を抱いたまま、阪東はおもむろに口を開いた。わけが分からないと言う顔で、ヒロミはため息をつく。
「俺じゃなきゃ何だって言うんだ?」
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