ヤスちゃんといっしょ!
どうして阪東なんですか、と。
珍しく、屋上で二人きりになったときだ。俺―安田泰男が、その少し前に小耳に挟んだ話を思い出し、ふと思いついて聞くと、ヒロミさんは黙りこんだ。
ソファに腰かけ、片手を顎に当てて下を向く。マコトさんほどじゃないけれど、どうして、この先輩も口数は多くない人だ。
それでもって、口を閉じているときには、常に何かを考えている。
ヒロミさんは立ち上がり、俺のもたれたフェンスのところまで来て、ポケットから煙草を取り出す。火をつけると、深く吸いこみ、煙を吐いた。
まずいことを聞いたな、という自覚はあった。
でも、思考の淵に落ちたようなヒロミさんと並んで、頭上には、よく晴れた早春の空。風は強く、空気は冷たいけれど、気持ちのいい日だ。
流れる雲をぼんやり見ていると、
「なあ」
黙っていたヒロミさんが、ふいに口を開いた。
「え?」
フェンスに片腕をかけて、横を見ると、ヒロミさんはひどく真面目な顔をしていた。いつになく戸惑っているようなヒロミさんの視線に、俺も戸惑う。
かろうじて深呼吸を一つ。
「な、何っスか…?」
怒られるんだろうか?
恐々俺が聞くと、靴の裏で煙草を消したヒロミさんは、フェンスの上で、祈るように両手を組んだ。
「それ、今答えなきゃいけねーか?」
風が吹き、ソファの上に置かれた、少し前までヒロミさんの読んでいた音楽雑誌のページをめくった。
「いや…」
ヒロミさんの真剣な顔を見たら、まさか思いつきの質問だとは言えなくなってしまった。
思わず一歩、後ずさった俺に、ヒロミさんは少し笑う。
「まさか、思いつきの質問じゃねーよな?」
ほころんだ口元に、目が全く笑っていないのが恐い。
「そ、そんなわけないじゃないっスか!」
苦し紛れに俺は言った。
「だって…ほら、ヒロミさん、別に相手に不自由するよーなタイプじゃないですし… お、男が好きなら、周りに他にいい男がいないわけじゃないし!」
墓穴を掘っているのは承知の上で、まくしたてる。剣呑に細められた目の、見透かすようなヒロミさんの視線。気温は低いのに、俺は、背中に汗をかいていた。
そんなつもりはないのに、段々と早口になっていく。
「正直、俺には阪東…さんの良さが分かんないっていうか…いや、一応は先輩にそういう言い方もないんでしょうけど、だって阪東さんって…」
「わがままだよな」
「へ?」
俺の言葉を遮るように、ヒロミさんは言った。
「俺様で、ガキっぽくて、あたま悪くて」
わけが分からず、金魚のように口を開閉させるだけの俺の前で、ヒロミさんはあげつらう。
曰く、阪東は、他人の話を聞かずに、独り合点する。
キレやすい上に、キレると見境がない。
ボンボン育ちで、金銭感覚が身についていない。
子どもや動物に好かれない。
あらゆる意味で手が早い。
自分は何でも好きにするクセに、俺の行動は制約する。
寝起きが死ぬほど悪い。
あんな身勝手な男は見たことがない。
一つ一つ、指を折って数えながら。正直、俺には悪口としか思えないことを、実に楽しそうに。
「あ、あの…ヒロミさん?」
「ん?」
本当に、ヒロミさんには阪東との間に、春道くんたちの噂していたような関係はあるのか。
いたたまれない気分になって、とうとう俺はヒロミさんを止めた。
「何だ?」
まだまだ言い足りないという顔で、ヒロミさんは俺を見る。
「いや、えーと…」
拳一つ分くらいだろうか。決して長身ではないけれど、それでも俺より背は高い。そのヒロミさんが、上半身を折って俺に視線を合わせる。
それだけで、俺は、金縛りにかかったようになってしまう。
変な奴だな、とヒロミさんは笑った。
ストップをかけられてまで、この話を続ける気はないらしい。俺の後ろをすり抜けてソファに戻ると、ヒロミさんは、再び雑誌を開いた。
「あの…」
「春道たちの言ってたことなら本当だぜ」
誌面から顔を上げずに言う。
「い、いいんスか?」
「別に?あっちは卒業したし、今さら隠す必要もねーし」
微妙に投げやりな口調が気になったけれど、そうかもしれない、と俺は思った。
もしも本気で隠すつもりがあれば、たとえ相手が鈴蘭トップの坊屋春道であろうと、固い結束を誇るトリオのマコトさんや本城さんであろうと、完璧に隠しおおせる。
それが桐島ヒロミという男だ。
しかし、阪東との間に、ただならぬ関係があったというなら、さっきのヒロミさんのあれは何なのか。
そういえば、最初の質問にも答えてもらっていないことを俺は思い出した。
けれど、ヒロミさんは、やはり、もうこの話題に触れるつもりはないらしい。雑誌に没頭する伏せた目に、何なんだろうなと俺は考え、考えても不毛なことに思い至る。
やがて、どこへ行っていたのか春道くんが、次いで亜久津さんと佐川が連れ立って。最後にマコトさんと本城さんが姿を見せ、屋上はいつもどおり賑やかになった。
数年後、鈴蘭を卒業した俺は、仕事帰りに一人で晩飯を食べに立ち寄った店で、偶然本城さんに遭遇した。
「おお、ヤス!」
やはり一人で来ていた本城さんは、店に入ってきた俺の姿を見とめて、嬉しそうに声をあげた。
「久しぶりじゃねーか!何だよーお前も一人かよー」
どうやら、念願の彼女はまだできていないらしい。こっちに来いよ、と誘われ、俺は本城さんと相席した。
「そういえば、これ…」
注文が来るのを待つ間、俺は、鞄の中にしばらく入れっ放しになっていた、一枚のチケットのことを思い出した。
テーブルの上にそれを出すと、本城さんが嫌そうな顔をする。
「本城さんは行きます?」
俺は聞いて、でも、聞くまでもない。
それは、ヒロミさんのバンドのライブチケットだった。
まず凱旋と言っていいだろう。ヒロミさんたちの、初めてのこの街でのライブだ。
そのチケットを、もちろん発売当日に俺は買った。しかし、買って帰ると同じチケットがヒロミさんから送られてきていた。
無駄にするのも勿体ないから、誰かにあげようと。鞄の中に入れて忘れていたのだ。
当然、本城さんが行かないはずはない。
俺はそう考えたけれど、それにしては、本城さんの反応が悪いことが気になった。
「…行かないんですか?」
まさか、と思いつつ聞く。
「いや、行くぜ。もちろん」
ヒロミからもチケット来たし。
そう言う本城さんは、やはり俺と同じ、初日に勇んで買って、一枚ダブっているらしい。
そこで、注文が来たので、話は一時中断。俺たちは、食うことに没頭した。
「お前んとこにもチケット送られてきただろ?」
ヒロミから。
食事が終わって、コーヒーを飲みながらひと息つく。
「はい」
俺が頷くと、本城さんは、送られてきたときの封筒、今持ってるか?と聞いてきた。
「え?…ああ、はい」
チケットと一緒に鞄の中に入れたままだった、白い洋封筒を取り出す。表に俺の住所と名前。本城さんは、テーブルの上に置かれたそれを、くるりと裏返した。
「これ、見ろよ」
トントンと叩いて指す。
封筒の裏面には、ヒロミさんの現在住んでいるのだろう家の住所と郵便番号、それにヒロミさんの名前が書かれている…だけではなかった。
「…阪東秀人」
住所とヒロミさんの名前の間。送られてきたときには気づかなかった。思わず俺は読み上げる。
「だあーっ!!」
俺が言うと同時に、本城さんは両手の拳をテーブルに打ちつけた。店中の視線を集めながら、でも、そんなことお構いなしに叫んだ。
「どー思う?これ!!」
見るの二回目でもムカついた!と立ち上がって、隣の席のイスを蹴り倒す。
「れ、連名っスね」
「ムカつかね!?」
「いやあ…ムカつきは…」
「しねーの?何で?しよーぜヤスちゃあん!」
阪東秀人に桐島ヒロミと、洋封筒の裏に横書きで、二つ並んだ名前は同じ筆跡。多分、ヒロミさんの書いたものだ。
ひがみ根性まるだしの本城さんには言えないけれど、何となく、まるで結婚式の招待状みたいだ、と俺は思った。
「あ!」
阪東にヒロミさん、で思い出した。
ずっと前に屋上でヒロミさんに聞いたこと。ヒロミさんが、阪東を貶しまくっていたことを。
「…あの、本城さん」
ついでに本城さんを宥めるつもりで、俺はその話をした。
「本城さんやヒロミさんたちが、三年になったばっかの頃なんですけど…」
ついでに本城さんを宥める、俺はつもりだった。それなのに、話が進むにつれ、本城さんは段々と不機嫌な顔になっていく。
「あの頃から何かあったんなら、どーしてヒロミさんあんな悪口みたいなことばっか言ったん…」
「だあーっ!!」
本城さんの眉間に深いシワが寄っていくのに脅えつつ、それでも話を続けた俺が話し終わる直前、本城さんはまたもテーブルに、今度はさっきよりも盛大に拳を打ちつけた。
「そんなもんなあ、ヤス!」
「はいっ」
指されて背筋が伸びる。
「の・ろ・けに決まってんじゃねーか!!」
どいつもこいつも!!
その後はもう、手のつけられない勢いで、本城さんは暴れた。殴られ蹴られしながら、俺は、言われてみれば簡単なことに、何年も思い至らずにいた己を恨んだ。
当然、その店は以後出入り禁止。
満身創痍でもヒロミさんたちのライブには欠席しなかった、自分をほめてあげたい。
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