ただいまおかえり
一度皆で合わせたのが、歌の録りだけやり直しになった日の夜。ヒロミが帰ると、阪東はリビングのソファで沈没していた。
暗い部屋の中、壁に手を這わせて電気のスイッチを探る。つい先週、引っ越したばかりの新しい部屋は、自分でも何がどこにあるのか分からない。
早々にあきらめて、ヒロミは床に散乱した酒瓶を足で払いながら、
「ただいま」
ソファに膝をつき、阪東の耳元でささやいた。仰向けに倒れた体がぴくりと揺れた。ただいま、とか。普段はわざわざ言ったりしない。今日は何となく。
「ヒロミ…」
掠れた声。硬い革に包まれた腕が伸びてくる。
ジャケットのまま寝るなよ、お前。
喉の奥で笑う。と、その笑い声を奪うみたいに唇が重なって。
闇に沈む部屋の中、動物じゃないから夜目は利かない。影の男とキスを交わす。
阪東の大きな手が頬を辿る。乾いた手のひらの感触に、それだけで背中が震えた。
見えない分を補うように、他の感覚器官がやたらと鋭くなっているのが分かった。殊更に研ぎ澄ましたつもりもないのに、触覚とか、聴覚とか。
ヒロミはライダースジャケットの懐に頭を突っこんで、シャツの上から阪東の胸に耳を当てた。平らな胸が浅く上下する。酒がまわってんだな、と思った。
心臓はすぐ近くにあるはずなのに、なぜか遠くから聞こえる鼓動の、トーキングドラムみたいな不思議な音。
「…なにしてんだ?」
阪東が聞いてくる。まだ完全には覚醒していない。ふにゃふにゃとした口ぶりの稚さがおかしかった。
「何もしてねーよ」
そう言って、首筋に鼻を擦りつける。革と香水と、いつもの煙草に混じって、今日は酒のにおいもした。
「阪東くせー」
甘がみしてくすくす笑う。鎖骨に沿って薄い皮膚に歯をたてると、
「やめろ、クソ犬」
ヒロミを押しのけながら、阪東もくすくす笑った。
「くすぐってえ?」
「いてえよ」
ヒロミの頭をはたく。どうやら完全に目は覚めたようだ。
「いつ帰ってきたんだ?」
ソファの上に上半身を起こして、阪東は両腕を広げた。まるで飼い犬を呼ぶような、「おいで」の合図。とっくに慣れたから、腹も立たない。
「ついさっき」
ヒロミが阪東の腕に身をゆだねると、阪東はヒロミの髪を掻きまわすみたいに撫でながら、ふん、とおもしろくもなさそうに鼻を鳴らした。
「もっと早く帰ってこい」
不機嫌に言うのが子供のようでもあり、また、父親のようでもある。
ふと身じろぐと、転がった酒瓶の一つに足が触れた。ようやく闇に慣れはじめた目をこらすと、床やテーブルの上ばかりでなく、ついさっきまで阪東が寝ていたソファの上にも、空になった瓶やビールの缶が散乱していた。
「すげー飲んだんだな」
買い置き総動員の惨状にため息をつく。酒は強いけれど、それほど好きではない。その阪東が、誰かと一緒のときならともかく、一人でこんなに飲むのは珍しいことだった。
「ヒマだったからな」
ヒロミの上着のポケットに手を入れ、煙草とライターを探り当てると、勝手に取って火をつける。暗い部屋の中に一つだけ、ぽつんと赤い火がともった。
桂木さんよりタチ悪い、とヒロミは、あの街を出て以来会っていない先輩を思い出して苦笑する。狼煙のように上がる白い煙の行方を目で追ううちに、ぴんときてしまった。
阪東が一人で大量に飲んだ理由。寝室に行かず、みっともなくソファで沈没してヒロミを待っていた理由。
ほんの小さな灯りで、阪東の頬には長い睫毛が濃い影を落とす。ヒロミの体を、確かめるように何度も抱きなおしては息をついた。
要するに寂しかったんだな、お前は。
指摘すると怒るだろうから、口には出さない。
「ただいま」
その代わり、ヒロミは阪東の肩に顎をのせて、もう一度言った。
「おう」
阪東が応じて、今度はさっきよりも優しい手つきで髪を撫でられる。おかえり、とか。当たり前のひと言が口にできない男を、心からかわいいと思った。
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いちゃいちゃする阪ヒロ。
割ともういい年なのに、留守番させられてふてくされる困った男と、そんな男がかわいくて仕方がない困った男です。