キリシマシークレット
とんでもないことになった、と思った。
とんでもなく厄介なことになった。
あるいは、なりかけている。
目の前に立つ男に、ヒロミは精一杯のガンをとばす。
ガンをとばす。
不良少年なら、誰だって得意なこと。
得意なことのはずなのに、今日は上手くできたか自信がない。
上手くできたか、上手くごまかせたか。
上手く気持ちを隠せたか……については、すでに失敗している。
とにかく、今はこれが精一杯。
ヒロミは、目の前に立つ阪東を睨みつけた。
自分の精一杯に、どれくらい効力があったのか。
限りなくゼロに近いだろう、とヒロミは思う。
放課後の図書室。
こんな場所を、正規の目的で利用する生徒など、鈴蘭にはいない。
また、今のヒロミにとっては都合の悪いことに、室内には司書教諭の姿も見えなかった。
周りを書架に囲まれた、二人きりのがらんとした部屋で、足音も高く阪東は近づいてくる。
スピードがゆっくりなのは、わざとに違いない。
肉食の獣が獲物をもてあそぶ、あれと同じだ。
ヒロミはじわじわ追いつめられる。
「ヒロミ」
笑みを含んだ声で阪東が呼んだ。
ヒロミの知る限り、過去最高に機嫌が良かった。
伸ばされた腕から逃げるように、閲覧スペースから壁際へと後ずさる。
指なしの黒い革手袋が、ヒロミの頬をかすめた。
ヒュッと風を切る。
まるでホラー映画みたいな、阪東のその手を避けようとして、ヒーターの角に腰をぶつけた。
痛みに顔をしかめるヒロミを、阪東は笑いながら見ていた。
大人の顔だ。
笑う阪東の顔を見て、腹が立つより先にヒロミは思う。
十七歳の大人の顔。
自分とは違う、悔しいけれど、いい男だ。
そのいい男が、どうしてこんなことをするのか、ヒロミには分からなかった。
空風が、音をたてて窓を揺らした。
隙間風はつめたく、それなのに、いつのまにか体にいっぱいの汗をかいていた。
上履きの踵を踏んで履いた足が、書架に当たって止まった。
気持ちわるい、とヒロミはつぶやく。
ほとんど無意識だった。
つぶやいてから気づいた。
書架に当たった足、そして背中。
学ランの裏地が、汗で背中に貼りついている。
「逃げんじゃねーよ」
振り返って書架を見て、また振り返って阪東を見る。
進退きわまったヒロミに、阪東は言った。
逃げ場なんか、と言われてヒロミは思う。
逃げ場なんかない。
阪東に、ヒロミの秘密を知られてしまった。
「何で知ってんだ?」
そう聞いたときには、だから、もう半ば観念していた。
深く息を吸いこむと、図書室の本の、日に焼けて饐えた紙のにおいがした。
「顔見りゃ分かんだよ」
そう言って、阪東はまた笑う。
無駄に整った顔が、至近距離で歪む。
嫌な顔だ、とヒロミは思った。
嫌な顔だ、と心から思う。
それなのに、身じろげば唇の触れ合ってしまいそうな距離に、心臓が破れそうなくらいドキドキした。
いっそ破れてくれ、と思った。
誰にも話したことのない秘密だった。
それを、どうして阪東が知っているのか。
よりによって、この世で一番知られたくない相手が知っているのか。
ヒロミの困惑に、顔を見れば分かる、と。
阪東が返したのは、実に単純すぎるほど単純な答えだった。
誰にも秘密にしていたことだ。
それを、当人に暴かれた。
いっそ本望か、いや、それにしたってこんな暴き方はない。
頭から体へと混乱が伝わって、膝がガクガクした。
もう立ってられねえ、とヒロミが思った、そのときだった。
ヒロミの目の前、至近距離に立つ阪東が、ほんの少し首を傾けた。
唇が触れ合った衝撃。
逃げをうって書架に阻まれる。
追いつめられて、またキスをされて、頭に血が上って、思わず殴りつけたら、殴り返された。
棚板にもたれかかるように倒れていたら、学ランの襟をつかまれてもう一度。
阪東の拳と汚れた床とでサンドイッチにされて、圧迫された首が苦しい。
朦朧とした頭で、なるほどこれが噛みつくようなキスか、と他人事のように考えた。
「抱いてやろうか?」
ヒロミの唇を痛めつけるだけ痛めつけて、ようやく飽きたのか、阪東は言った。
嘲るように言った。
勝ち誇った態度に、憤りよりも嬉しさが勝る。
勝ってしまう。
死にてえ、とヒロミは思わずつぶやいた。
床に座りこんだまま頭を上げると、見下す阪東の視線があった。
「ついてこい」
阪東は、それだけ言って踵を返す。
言われて素直に立ち上がる自分が情けない。
もし目の前に今の俺がいたら、十回殺したって飽き足らない。
図書室を出たところでされた、何度目かのキスに、思わず応えてしまった。
しまった、と思っても後の祭りだった。
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鴉の本命、阪東×ヒロミです。
ヒロミがどの辺から阪東を好きになっていたのか考えていると、時間はどんどん過ぎてゆきます。
この2人は最初は阪東←ヒロミで、後に阪東×ヒロミとなり。
なった後にもなる前でも、ものすごく独占欲が強い阪東に、ヒロミが振り回されてればいいと思います。