■ 第話 「特務中尉殿」
「あの男を、殺したのか?」
涼しい顔で手に付いた血を洗い流している男に角松は聞いた。支那服の男は立ち上がってハンカチを取り出した。あの男は大陸浪人で、依頼者のことは吐かなかったらしい。
「どうしてあの男が偽者だと?」
「両手をポケットに突っ込んで人と話す海軍の人間はいない、いまも、これからも」
腰が抜けた状態で二人のやり取りを見ていたは、どうやら角松がそうとう優秀な軍人であると気付いた。
「海軍中尉、如月克己」
「角松洋介だ」
二人の短い自己紹介をぼんやりと眺めていたは、本物の如月がこちらを見ているのに気付いて慌てて名前を言った。
「松下、明です」
慌てるあまり本名を言ってしまうとか、そんなミスをしなくてよかった。ほっとするのもつかの間、すぐに大連駅に移動することとなり、はへとへとになりながら付いて行った。
特急アジア号は、当時の最先端技術の結晶なのだそうだ。大連から新京までを八時間で繋ぐその列車の中は、空調が効いていての補助脳も27度の適温だと言っている。
「すごいですね……」
もっと古風なSLようなものを想像していたは、自分たちのブースを見回して驚きの声を漏らした。
「東京オリンピックの新幹線みたいなものだからなあ」
角松の例えがいまいちとらえ切れなかったが、はとりあえず頷く。
「食堂車に行きませんか」
如月がブースに顔を出したので、はびくっとした。
「ちょうど良かった。腹が減っていたんだ。松下さんはどうする」
「いいえ、私は結構です」
膝の上で手を組んでしまいそうになるのを押しとどめて、は断った。そうかと追求せずに角松たちは出て行く。は本当のことが言えずにがっくりとうなだれる。食べられることは食べられるが、の体は機械であるためほとんど食べ物を食べなくても大丈夫だ。サイボーグになったばかりのころはなにを食べても脂肪にならないからと言われて、太らないと喜んだものだが、大人になるにつれそれが人間としての一つの欲求を失い、喜びを一つ失ったということだと気づいて、食事をあまりしなくなってしまった。
「それに、あの人……」
それに如月という男が味方だということは分かったが、あの現れたときの姿のせいで、どうしても彼の前で平然と振舞うことが出来そうになかった。は大きなため息をつく。
「なんだか、こっちに来てからため息ばっかり」
は窓ガラスに自分の顔を映してみた。見慣れない顔だからかもしれないが、酷い顔をしていると思う。頬に触れてみると、やつれたみたいにごつごつとして感じる。
「髭とか生えてきちゃったらどうしよう」
がもう一度ため息をついたときだった、窓に目をやると、自分の背後にいつの間にか如月が映っていて悲鳴をあげそうになった。
「な、なんですか?」
悲鳴をあげるかわりに勢いよく立ち上がって振り返る。如月はにあいかわらずの無表情を向けて言った。
「本当に食事はいいのか」
「え?」
「新京まで時間がかかる。いま食べておいた方がいい」
角松は先に行ったのだろうか。は角松の姿を探して体を曲げた。だが廊下にも角松の姿は見当たらない。
「いいえ、本当に食べなくても大丈夫ですから」
「そうか」
は手をズボンの横につけるよう注意しながら頭を下げた。
「ご心配いただいてありがとうございます」
「いや、倒れられたらこちらが困るからだ」
その如月の台詞に、はいくらか火を点けられた。少しムキになって、つっけんどんに答える。
「ご心配なく。絶対に! 倒れませんから」
そう言ってが椅子に座ると、如月は踵をかえした。ブースの扉を開けて出て行こうとして、振り返る。
「思ったより頑丈そうで安心した」
「はい?」
まだ少し怒っていたは、如月を睨んだ。すると如月は会ってからはじめてみせる笑みをに向けた。
「耳飾などしているから、どんなに軟弱な男かと思ったが」
は右耳のカフスのことを言われているのだと気づいて手をやった。池田にプレゼントされてからずっと付けていて外すのを忘れていた。
「上官の盾になるくらいの度胸はあるらしいな」
が何か言おうとする前に、如月はブースの扉を閉めてしまった。
涼しい顔で手に付いた血を洗い流している男に角松は聞いた。支那服の男は立ち上がってハンカチを取り出した。あの男は大陸浪人で、依頼者のことは吐かなかったらしい。
「どうしてあの男が偽者だと?」
「両手をポケットに突っ込んで人と話す海軍の人間はいない、いまも、これからも」
腰が抜けた状態で二人のやり取りを見ていたは、どうやら角松がそうとう優秀な軍人であると気付いた。
「海軍中尉、如月克己」
「角松洋介だ」
二人の短い自己紹介をぼんやりと眺めていたは、本物の如月がこちらを見ているのに気付いて慌てて名前を言った。
「松下、明です」
慌てるあまり本名を言ってしまうとか、そんなミスをしなくてよかった。ほっとするのもつかの間、すぐに大連駅に移動することとなり、はへとへとになりながら付いて行った。
特急アジア号は、当時の最先端技術の結晶なのだそうだ。大連から新京までを八時間で繋ぐその列車の中は、空調が効いていての補助脳も27度の適温だと言っている。
「すごいですね……」
もっと古風なSLようなものを想像していたは、自分たちのブースを見回して驚きの声を漏らした。
「東京オリンピックの新幹線みたいなものだからなあ」
角松の例えがいまいちとらえ切れなかったが、はとりあえず頷く。
「食堂車に行きませんか」
如月がブースに顔を出したので、はびくっとした。
「ちょうど良かった。腹が減っていたんだ。松下さんはどうする」
「いいえ、私は結構です」
膝の上で手を組んでしまいそうになるのを押しとどめて、は断った。そうかと追求せずに角松たちは出て行く。は本当のことが言えずにがっくりとうなだれる。食べられることは食べられるが、の体は機械であるためほとんど食べ物を食べなくても大丈夫だ。サイボーグになったばかりのころはなにを食べても脂肪にならないからと言われて、太らないと喜んだものだが、大人になるにつれそれが人間としての一つの欲求を失い、喜びを一つ失ったということだと気づいて、食事をあまりしなくなってしまった。
「それに、あの人……」
それに如月という男が味方だということは分かったが、あの現れたときの姿のせいで、どうしても彼の前で平然と振舞うことが出来そうになかった。は大きなため息をつく。
「なんだか、こっちに来てからため息ばっかり」
は窓ガラスに自分の顔を映してみた。見慣れない顔だからかもしれないが、酷い顔をしていると思う。頬に触れてみると、やつれたみたいにごつごつとして感じる。
「髭とか生えてきちゃったらどうしよう」
がもう一度ため息をついたときだった、窓に目をやると、自分の背後にいつの間にか如月が映っていて悲鳴をあげそうになった。
「な、なんですか?」
悲鳴をあげるかわりに勢いよく立ち上がって振り返る。如月はにあいかわらずの無表情を向けて言った。
「本当に食事はいいのか」
「え?」
「新京まで時間がかかる。いま食べておいた方がいい」
角松は先に行ったのだろうか。は角松の姿を探して体を曲げた。だが廊下にも角松の姿は見当たらない。
「いいえ、本当に食べなくても大丈夫ですから」
「そうか」
は手をズボンの横につけるよう注意しながら頭を下げた。
「ご心配いただいてありがとうございます」
「いや、倒れられたらこちらが困るからだ」
その如月の台詞に、はいくらか火を点けられた。少しムキになって、つっけんどんに答える。
「ご心配なく。絶対に! 倒れませんから」
そう言ってが椅子に座ると、如月は踵をかえした。ブースの扉を開けて出て行こうとして、振り返る。
「思ったより頑丈そうで安心した」
「はい?」
まだ少し怒っていたは、如月を睨んだ。すると如月は会ってからはじめてみせる笑みをに向けた。
「耳飾などしているから、どんなに軟弱な男かと思ったが」
は右耳のカフスのことを言われているのだと気づいて手をやった。池田にプレゼントされてからずっと付けていて外すのを忘れていた。
「上官の盾になるくらいの度胸はあるらしいな」
が何か言おうとする前に、如月はブースの扉を閉めてしまった。