となりの体温 7

 知りたい。
 あの眇めた瞳の奥、骨ばった肩の向こうに何があるのか。
 薄い笑いを浮かべた、その端正な顔の後ろに何が隠されているのか。

 キョンのその衝動は日に日に強くなっていったが、それに反比例するように古泉との距離が空いて行くようにキョンには感じられた。古泉は満足しているのだ。キョンが視界にいるというただそれだけの位置に。それが、キョンにはひどく歯がゆかった。

 その日、古泉は朝から少しおかしかった。校門の前でキョンと一緒になって、ぽつぽつと話しながら下駄箱に進んだが、靴を履き替えるとき上履きを地面にぼとっと落としたのだ。そんなことは男子生徒なら普通だが、古泉はいつも丁寧に床に屈んで置いていたので、キョンはそれがやけに印象に残った。外靴も背中を伸ばしたまま足を曲げて脱いでいたので、器用な奴だとキョンは思った。
 放課後にキョンが文芸部室に行くと、そこには既に長門と古泉がいた。キョンが入ると同時に、長門が顔を上げてそっと人差し指を唇に当てる。何かと思うと、古泉が首だけやや傾けて、椅子に座ったまま眠っているのだった。キョンは足音をひそめてそっと席に着く。古泉の紙のように白い顔は疲れきったように眉根を寄せて、微かに呼吸を繰り返していた。キョンは黙ってその顔を眺めていた。自分のことを好きだと言った唇。追いかけてきた熱のある瞳。笑っていない寝顔は、妙に幼くてとてもかわいそうなもののように見えた。
 前ぶれなくハルヒが扉をバンと開けた時、古泉は驚くべき速さで瞼を開いて体勢を立て直した。その変化は全く、キョンが口を開けて驚くにふさわしい早業だった。
「こんにちは、涼宮さん」
「あら、揃ってるわね。みくるちゃんは?」
「まだですが、もうすぐいらっしゃるのではないかと」
「ああそう」
大股に自分の前を横切った美しい少女を見ながら、キョンが抱いたのは怒りに近い感情だった。すっきりとした微笑みを浮かべた古泉にも。誰に彼の眠りを妨げる権利があるだろうか。そしてまた、彼もなぜそんな風に笑っていられるのか。キョンはやり場のないもやもやとした思いをうまく飲み下せないまま、上履きをきゅっと鳴らした。古泉はにこにことしてキョンを見ると、不機嫌そうなその顔に少し申し訳なさそうな顔をした。自分のせいだと思っているらしい。
「古泉君は今日もきれいな顔してるわねー」
ハルヒはそう言うとじっくりと古泉を見下ろし、やにわに頬をつかんだ。その唐突な振る舞いに、古泉の肩がびくっと震えた。
「これはこれは、恐縮です」
キョンが古泉の一瞬の反応に驚いた時には、もう古泉はハルヒの方に向き直って微笑んでいた。見間違いだったのだろうか、とキョンは目を瞬かせて、古泉を呼んだ。
「悪いけど、後ろにある本取ってくれないか」
「自分で取りなさいよそれくらい」
「いいだろ、近いんだから」
「勿論です」
ハルヒに頬をつかまれたままの笑える微笑で答えると、古泉はしぶしぶ手を離したハルヒに微笑みかけて、ゆっくり立ち上がった。後ろを向いて本を取り、キョンに向き直ると「こちらですね」と言って机に置き、椅子に座り直してそれをキョンに押し出した。
 キョンはまじまじと古泉の顔を眺めた。相変わらず非常によく出来た、出来すぎて面白みがないほどに整った顔だった。微笑も完璧で、髪のセットも一点の乱れも無かった。
「どうかなさいましたか」
機械仕掛けの唇が動く。ずれないな、とキョンは思った。
「古泉、ちょっとこっち来い」
キョンがそう言って立ち上がると、古泉は目を丸くした。古泉の代わりに、ハルヒが身を乗り出して食いついてきた。
「キョンどこ行くのよ!」
「用事思い出したんだよ。俺こいつ呼んでくるの頼まれてたんだった」
「なになに女の子!?さっすが古泉君ね、何でそんな大事なこと忘れてるのよバカキョン!」
「うるさいな、俺もそんな四六時中人の世話焼いてられるか」
「で、どこの誰なのよ!」
ハルヒのきらきらした目をうるさげに払って、キョンは古泉にドアを顎で示した。
「ちょっと、私はあんたにさせることがあるんだから、早く帰ってきなさいよ!」
「何だそれ」
「ちょっとした町内人助けよ」
「あー、どうせお礼かなんか目当てだろ」
何言ってんのよ失礼ねキョン本当に早く帰ってこないと承知しないわよ、というハルヒの声をキョンはドアで封じ込めた。閉まるドアの隙間で、キョンは長門と目が合った。長門は静かに、変わらない透明な視線をキョンに投げ遣っていた。キョンはそこに何を読み取るわけでもなく、軋むドアを乾いた戸口にはめこんだ。途端に、無人の廊下がしんと静寂に包まれた。
「わざわざ申し訳ありません」
古泉はにっこりとしてキョンをまっすぐに見た。それでいてキョンを見ていない。薄い膜が張って、古泉は絵画を眺めるようにキョンを見る。まるで独り言のように、キョンに話しかける。この隔たりは何なのだ、とキョンは苛立たしく唇を噛んだ。
「自惚れるな」
踵を返して廊下を歩き始めたキョンを慌てて追いかけながら、古泉はえ、と訊き返した。
「それとも告白なんて日常茶飯事か嫌味な奴だな」
「なんですか」
「嘘だよ」
廊下の奥の人気無い階段の下で、キョンは振り向きざまにそう告げた。
「え」
古泉のぱちぱちと瞬く目を見ていると、キョンはひどくやるせなくなった。
「お前、怪我してるだろ」
古泉の丸く開いた目はいっそう大きく開き、代わりに唇がきゅっと結ばれた。
「隠すな、面倒くさいから。見てて分かる。背中か?」
古泉はキョンから一瞬目を逸らした。なお嘘をつこうか迷うように視線が漂って、それは再びキョンの目に戻ってきた。数秒か、それとももっと長くか、二人の視線はためらいながら交わった。キョンは本当に久しぶりに、古泉の顔を見たような気がした。古泉の睫毛が僅かに震えて、そのまま目を伏せたので二人の視線は断たれたが、それでもキョンは古泉ととても近いところにいることを感じていた。今手を伸ばしたら古泉に触れられる、とキョンは思った。その柔らかい髪も、薄い耳たぶも、切れ上がったまなじりも、若木のような腕も大きな手も、とてもとても近いところにあって、キョンと向かい合っていた。
「…僕は時々、あなたこそ超能力者ではないかと思いますよ」
古泉は絞り出すようにそう呟いた。
「だいぶひどいんじゃないのか。お前隠すのも嘘もうまいから俺以外気づいてないだろうし、このまま送っていくから帰れよ」
「いえ、放課後くらいまで大丈夫ですよ」
「顔から下は冷や汗でびっしょりの奴がそういうこと言っても信憑性ないぞ。ハルヒの視界に入らなくなったらフラフラだろ、危ないだろうが」
「大丈夫です」
「何度も言わせるな、ここらそれなりに交通量もあるし」
「大丈夫です!」
古泉はいきなり顔を上げて、キョンの腕につかみ掛かった。眉が困ったように寄り、唇が何かを我慢するように震えていた。幾度も瞬かれる瞼が銀粉を振るようにきらきらとしている。鳶色の瞳が甘く光って、瞬きの度に潤み、キョンにすがり、ひきずりこむようにひたすらに光を放った。引き込まれるように視線が絡まったまま離れず、気づくとそのまま二人は唇を合わせていた。その強い磁力は、直後に古泉がキョンを引き寄せていることを、キョンが自ら首を伸ばしていることを自覚してもなお離れがたく二人をそうしてとどまらせた。キョンのシャツを掴んだ古泉の指が震え、古泉の腕に沿ったキョンの手は激しく血を巡らせた。階段の下の埃っぽく仄暗い空間で、二人は崖に掴まる遭難者のように、一心にお互いを捕らえ合った。





となりの体温 6 8


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