となりの体温 5

 淡いふわふわした雰囲気、甘い香り、やわらかい手触り、長い流れるような髪。か細い笑い声、華奢な肩。
 キョンは女性の漠然としたイメージに他の同年代の男たちと同じくらいの憧れを持っていたし、他同様に、それ以上の実感を持たせる経験は多くなかった。ただぼんやりと、恋愛はそういうイメージに絡んだものという認識だった。そして今、確かに実感できることは、自分がそれとは全くかけ離れた形で恋愛ごとにぶつからされている、という災難めいた気持ちだった。それは全く理解不能で、訳がわからなくて、とんだ落とし穴にひっかかったとしか思えなかった。

 キョンは一気に学校を飛び出して坂の途中まで走り下りてきてから、ようやく立ち止まって息を整えた。肩で息をしながら、改めて先ほどのことを思い出す。古泉の目がぐるぐるとイメージを占めていて、あまりはっきりと考えることができない。子供のような、まっさらの瞳。
 帰る道すがら、キョンはじわじわと後悔し始めていた。余計なことは考えず、事実だけを羅列すると自分は、友人だと思っていた同性と気まずくなって、言いたいことがあるなら言えと言って、彼から告白されて、それに対して返事もせず彼を突き飛ばして逃げた。
「…最低だろ…」
相手が女性なら、全く違う対応ができたはずだ。いや、別に同性でも。ここまでひどい対応はちょっとないだろう。何が起きてもそれなりに落ち着けるスキルだけは高いと思っていたのに、なんという有り様だ。絶対に、傷つけた。古泉の驚いた顔がフラッシュバックする。熱っぽい囁きの繰り返しも。無視して、踏みにじってしまった。キョンは、自分がそういう行動を取ったことにも、少なからずショックを受けていた。

 帰宅してからも、キョンは自室で自責の念にかられて考え込んでいたが、いくら考えてもらちがあかなかった。あの告白が、いつものように芝居がかっていればよかった。もっと嘘くさくて、冗談めいたものならよかった。この際、罰ゲームなんて胸くそ悪いものでもいい。でも古泉は真剣だった。必死すぎてキョンは身じろぎもできないほどだった。本気で告げた言葉なら、彼は傷ついただろう。傷つけたなら、謝るしかない。とにかく古泉と話さなければ、また部室の雰囲気を悪くしてしまう。立場的には、どう考えても古泉が気まずい。関係を修復するなら、自分から言うほかない。キョンは自らを奮い立たせて、携帯を手に取った。
 呼び出し音が長く続く。キョンは目を伏せて考える。電波は通じているらしいから、古泉はこの着信を知っているのだ。彼はその任務のせいもあって、まず携帯を身体から離すことはない。どんな顔をして迷っているのか、まさか泣いたりはしないだろうが、女じゃあるまいし。
「…出ろよ、早く」
そう呟いた時、ぷつんと回線が繋がって、「はい」という古泉の静かな声が聞こえた。

「あ、…古泉。今大丈夫か」
「ええ」
「…あの、さっきは、ごめん」
「え?」
「話、最後まで聞かなかった。…つ、突き飛ばしたのも悪かった。ごめん」
古泉は、電話の向こうで息を吐いて、またゆっくり吸った。
「…僕は…」
あの饒舌な男が、口ごもっている。表情は、キョンにはちょっと想像できない。
「僕は、あなたがてっきり怒っているのでは、ないかと」
「怒るか」
「怒ってないんですか?…怒っているように、見えました」
「意味がちょっとわからなくて、戸惑ったけど、怒ってない。びっくりしたんだ、それで。でもあんな風に話ぶっちぎるのはあり得ないから、それで謝ってる」
古泉は、しばらくの間返事をしなかった。ひそやかな呼吸音が続いていた。
「…古泉?」
「…それで、意味はわかりましたか?」
何の話だ、とキョンは言いそうになって、はっとした。
 一瞬返答に詰まったキョンに、おそらく古泉は気付いて、小さく笑った。
「いいんですよ、別に」
「…」
「僕が先程まで考えていたことを申し上げましょうか。柄にもなく僕は発作的に行動してしまった。別にそれはそんなに問題ではありませんが、いかんせん相手があなただった。鍵にこんな行動をするなんて、身の程知らずも甚だしいです。このことを機関に報告することを考えただけでもうんざりしますし、報告で済むはずありませんし。それにもしあなたが僕を気持ち悪がってSOS団を辞めたいなんておっしゃったらどうしようかと思いました。まあそれには僕が辞めればいいだけなんですが、僕はそれを考えると、ちょっとどうしようかと呆然としてしまいまして」
「古泉、俺は気持ち悪いなんて思ってない。辞めたいともおも」
「あなたが好きなんです」
古泉は、キョンの言葉をかき消すように呟いた。決して大きな声ではなかったが、キョンにはまるで悲鳴のように聞こえた。
「僕は有り体に言うと、SOS団なんて辞めてしまっても構わないんです。もちろんあの女性陣たちは楽しくて優しい方たちですが、僕には執着するほどの思い入れはありません。ですが、あなただけは別です。SOS団を辞めて、そうしたらきっと転校するでしょう、そうしたらもうあなたには会えなくなってしまう。今さっき僕はそれを、そんな考えたくもないことをリアルに想像して、おかしくなるかと思いました。僕はあなたに会うのを楽しみに学校に行っていたんですが、僕のこの無味乾燥な生活の中では、学校に行くとは即ち生きるということと同義なんです。この気持ちを自覚する前から、あなたは僕にとってそういうかけがえのない人でした。どうしてこんな風になってしまったのか、僕が一番よくわかりません。でも否定できないんです。隠すこともできない。あなたが僕を普通の友人かそれ以下くらいに思っているのは、僕が一番よく知っています。ずっと観察し続けてきましたからね。だから僕はあなたに何も求めません。期待しません。迷惑をかけるつもりはありませんが、ただ好きでいることだけは許してください。気持ちを知っていてもらうだけで、心のバランスが取れる気がするんです」
古泉は少しだけ早口で、熱に浮かされたようによどみなく言葉を連ねた。キョンはそれをぼんやりと聞きながら、息が苦しくなって浅く呼吸した。
 キョンは心の中で、お前が好きなやつが、お前を好きだったらよかったのに、と呟いた。
 そんなことを言うほど無神経ではなかったが、これから先、自分が彼のように誰かを想えるとは思わなかった。それだけの強い感情を持ったなら、相手からも等しく想われるべきではないか、と感じずにはいられなかったのだ。
「…俺は、古泉のこと大事な友達だと思ってるし、大事な副団長だと思ってる。古泉からどういう風に思われててもいい。明日も、部室で普通に会いたい」
キョンが何とか絞り出した返事に、古泉はふっと息をついて笑った。
「ありがとうございます。それでも僕には過ぎたことです。…明日、またお会いしましょう」
「ああ、…じゃあな」
しばらく間があって、お互いになかなか電話を切らなかった。逡巡の後にキョンが勢いをつけて通話を切り、時計を見上げると、もうすぐ日付の変わる時刻だった。





となりの体温 4 6

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