朝のおと
微かな息遣いの変化で、彼の目覚めを僕は知った。少しの間、彼はそのまま黙って身じろぎもしない。僕は何となく瞼を開けずに、寝たふりをして耳を澄ませていた。睫毛がちりちりする。彼の視線が睫毛を焦がしているのだ。眩しくて、くすぐったくて、僕は瞼を開くことができない。しばらくすると、彼は静かに静かにベッドを抜け出した。一瞬ひんやりと布団に冷気が入り込んで、すぐ彼が丁寧にそれを直してくれる。そのまま屈み込んでいるのであろう彼の吐息が近付いて、瞼の上にそっと優しい熱が触れるとすぐ離れた。 僕は頭が真っ白になって、それから、ねぼけているんだなあ、と思った。普段は絶対そんなことをしてくれない。実際僕は色々期待して彼の前で昼寝のふりをしたことがあるのだが、彼は意識がしっかりしているときは見つめるだけなのだ。一度だけ、頭を撫でてくれたことがある。その時は死ぬほど嬉しかったけれど、彼はすぐいけないことをしたみたいに手を離してしまった。だから今僕は気が遠くなりそうになりながら、目覚めるきっかけを完全に失って死んだふりを続けている。布団の中は僕の鼓動の音で一杯で、今布団をめくったらうわあっと僕の気持ちが流れて洪水になってしまいそうだ。だから拳をぎゅっと握って、僕はひんやりと凍りつく。 彼の身体の温度が離れて、スリッパの音が離れていく。僕はじっとその音を追う。足下がふらついて、方向性が左右する。血圧の低い彼が転んだりしないか心配で、一瞬僕は起きて彼についていこうか考えるが、寝室の木製の扉の立てる柔らかい小さな開閉音に、やはり思い直す。少しして聞き慣れた水音が響いて、僕は彼が無事に蛇口をひねられたことに安堵する。そんなことを心配しているなんてわかったら彼に怒られてしまうから、僕はベッドの中でじっとこらえて彼の様子を音だけで窺っているのだ。 水音が止まって、棚のパタンという音がする。タオルを出して顔を拭っているのだろう、彼用の薄い水色のタオル。白い顔を伝う水滴を拭き取って、彼は顔を上げる。まだ瞼の開ききらない顔をぼんやり眺めているのか。ガラスの擦れる音、間延びしたプラスチックの音、水音。彼は青い柄の歯ブラシとガラスのコップを手にしている。僕の瞼の裏にまざまざとそれが浮かぶ。歯磨きをしている微かな小気味いい音がする。口を濯いで、かたんと歯ブラシとコップを棚に戻す。彼の立てる音はごく静かで、それはものを大切に扱う彼の習慣や優しい仕草を思い出させる。トイレに向かうのだろうスリッパの床を摺る小さな音に、僕は彼の足取りがだいぶしっかりしてきたのを知る。 僕が彼と付き合い始めたのは数ヶ月前のことで、それは僕の泣き落としに近い懇願と天変地異かと思うような彼の反応から生まれた奇跡だった。未だに僕は何でこの気持ちが通じたのか理解できないし、ずっと長い夢を見ているような気分だ。まあ現実と思っていてもそれも涼宮さんの夢だったりするかもしれないわけなので、とりあえず僕は今自分をごまかしごまかしこの幸せを享受している。 スリッパの静かな音が近付いてきたので、僕はようやく意を決して目を開いた。 「お。起きたか」 ベッドの傍の彼が微笑んで、僕はその笑顔に、胸がずぶずぶにとろけてしまうのを感じる。 「おはようございます」 「うん、おはよう」 彼は僕が買ってきたストライプのパジャマを着てくれていて、昨日見たのに今日見るとまた嬉しくなる。寝癖がついた短い髪が朝日を通してうっすら茶色に光っている。細められた目がとても暖かくて、涙が出そうだ。そうだ、昨夜もこの目が閉じるのがすごく寂しかった。彼はベッドの端に腰掛けてこちらを見ている。起き抜けで肌が真っ白だ。寒いのだろうか。見つめれば見つめるほど、いとおしくなる。 「どうかしたのか」 僕が黙り込んだせいか、彼は少しかすれた声でそう訊ねた。 「いえ、やはり視覚的情報は大事だと実感しまして」 「なに訳のわからんことを言ってるんだ」 彼は眉をひそめて呆れた顔をした。その顔を見ると、自分でもどうかと思うが、反射的に腕が伸びて彼を抱き込んでしまった。 「古泉!いきなりなんだ!」 「寒いでしょう、もうちょっと中にいて下さい」 「エアコン入れたぞ。というかおまえこそ布団から出ろよ」 「そうですねえ」 「おまえ、そんなに朝苦手だったか」 「そういうわけでも、ないんですけれど」 「…なかなか、部屋暖まらないな」 「そうですね。この部屋、寒いですよね」 「うーん。寒い部屋寝室にするって間違ってないか?」 「そうですねえ、今度別の部屋と入れ替えましょうか」 「するならどこと?」 「手伝って下さいます?」 「なんかおごれよ」 「別に手伝って下さらなくても、僕としては今すぐ生涯の全衣食住をおごって差し上げたいところですが」 「おまえはよくそんな科白がすぐぺらぺらと口から出てくるなあ」 「でもやっぱり、別の部屋は朝日が眩しいのでやめましょう。多少寒かろうとあなたがいたら平気ですから」 「…おまえ、もう黙れ」 腕の中にいる彼は、僕の過剰な科白が照れ隠しだと知っているのだろうか。やさしい暖かな低めの声で、僕に沢山返答をくれる。僕はいくら何を言っても、この気持ちには全然足りない。彼が答えてくれる度に、感情がみるみる溢れてきてしまう。この気持ちに栓をするために、僕は飽きず言葉を紡ぎ続ける。彼の肩に顔を埋めると、石鹸の匂いと彼の匂いと、彼の体温がふんわり伝わってきて、いとおしさに胸がきりきりと痛んだ。 「古泉?どうした?」 「いえ、何でもありません」 彼が大切でどうしようもない。 自分でもおかしくなるほど彼が大事で、大事で、僕は自分のしたいこともわからなくなってしまう。 この胸が決壊してしまわないよう、僕は唇を噛みしめて、しばらくの間彼の首筋に鼻をこすりつけていた。 |