影踏みアリア 5
次の約束の夕方、阿部はやたらと大荷物の三橋に驚いた。理由を訊くと、しばらくもじもじしていたかと思うと、三橋はいきなり抱えていたスポーツバッグを開いて見せた。その中にはグローブとミットと数個の白球やタオル、誰かに借りたのか防具の一部まで納まっていて、阿部はため息をついた。それから、少しだけ笑った。 「とりあえず飯どっかで買って食って、それからな。オレ腹減って」 「う、うん」 阿部の機嫌を損ねないかびくびくしていたらしい三橋は、その言葉にぱっと顔色を明るくした。 「おまえ、あんま期待すんなよ。オレマジで全然キャッチの練習とかしてないかんな。トレーニングはしてるけど運動量めちゃめちゃ減ってるし」 「だ、大丈夫」 「あー、まあおまえが捕りにくい球投げるなんてありえねぇか」 「う」 頑張る、と小さな声で頷いた三橋の肩を押して、阿部はコンビニに向かった。歩きながら、疑問と小さな不安が押さえきれず、ついあらぬ方向を見ながら訊いてしまった。 「なあ」 「ん」 「おまえ、部活でちゃんとやれてんの」 「え?」 「や、だから、キャッチに球捕ってもらってるよな」 「う、ん」 「サインも出してもらってんな」 「うん」 「チームメイトと普通に口きいてんな」 「うん!みんなすごく、いい人、で」 急に勢いづいた三橋は、嬉しそうに頬を紅潮させてチームについて話した。今年に入ってエースになれたこと、正捕手がのんびりした男でバッテリーとしてそれなりにうまく機能していること、チームメイトがみんな優しくしてくれること。阿部はそれを聞いても、思っていたより心情的に引っかかるところはなかった。ただ、じゃあ何でそんなに自分に球を捕ってほしがるのか、と思った。でもそれを訊ねるのは何だか特別な答えを自分が期待しているようでみっともない気がして、結局「よかったな」としか言えなかった。自分が高校で三橋に割いた時間は、前に会った時の三橋の号泣で報われたはずだと、そう自分に言い聞かせた。 間食を終えてからストレッチをして、河原できちんと距離を取り、二人はやけに真面目くさってボールを投げ、受けた。二人とも当たり前のようにバッテリーとしての体勢が取れて、それが何となく阿部には照れくさかった。三橋の嘘のような正確なボールは掌にびりびりと響いて、阿部は何度か息を止めた。 「すげー球威増してんな!速くなったよ、マジで!」 数球の後そう叫ぶと、三橋は顔を真っ赤にして肩をすくめ、 「あ、りがと、う!」 と叫んだので、それを見た阿部の方まで恥ずかしくなった。なんでそんな嬉しそうにするんだよ、と思ってしまうのだ。 しばらく真剣に二人は球をやり取りしていたが、お互いふっと気が抜ける瞬間があって、阿部はそこで防具を取りながら立ち上がった。三橋は額に軽く浮いた汗を拭って、小さく肩を揺らしながら近づいてくる阿部を見ていた。 「想像以上に成長してんのな。面白かった」 と言って阿部がボールを三橋に返すと、三橋はぱっと笑ってそれを受け取り、 「阿部くん、ありがとう」 と言った。それから、地面を見つめて続けた。 「お願いが、あるんだ」 −−−阿部くんの時間がある時で、いいから。時々会って、球を捕ってほしいんだ。 何言ってんだおまえバカか。キャッチに頼めよそういうことは。うまく行ってんだろ。そんなことチームのやつらにバレたら、そいつらも何か気分悪いと思うぞ。大体そんな時間おまえのがないだろ。単位ちゃんと取ってんのかよ。 や、やだ? 嫌とかそういう問題じゃねえだろ。 だめ、だめ、かな。 つか意味わかんねえ。 うん。 うんじゃねえよ。 そう、だね、 おい、 … …っ、泣くなよ!おい! …じゃ、じゃあ、あと一回で、いいから。 あと一回? 一回だけ。 帰りの電車で、結局三橋に泣かれて次の約束を取り付けられた阿部は頭をバリバリとかきむしった。初めは泣かれる度にイライラして怒鳴りつけていたのに、いつの間にか言うことを聞くようになってしまった。 (マジで意味がわかんねえ、あいつ) 阿部が最も意味がわからなかったのは、彼がずっと預かっていたペンを返そうとした瞬間だ。ようやく三橋が落ち着き、阿部も久々の動揺が収まってきた後に微妙な雰囲気で二人は駅に着いた。阿部がペンを取り出すと、三橋はその青色を見た途端に顔をくしゃくしゃに歪めた。阿部は思わずうわっと言って三橋の額を押さえた。別に顔を押さえても涙が止まるわけではないのだが、何とか三橋は自力で踏みとどまったらしく、小さく咳をすると阿部のペンを持った手を押し戻した。 「持ってて」 小声でそう言うので、は、と阿部が聞き返すと、三橋は突然阿部に視線を合わせて早口で叫んだ。 「次まで、あ 預かって、てっ」 そう告げるやいなや踵を返して、見る間に三橋は階段を駆け下りていってしまった。後に残された阿部は呆然とするしかなく、手の中のペンの重さがやけにはっきりと感じられた。 もう三橋は泣かないと、阿部は思っていた。高校三年になってからは、三橋は以前ほど泣かなくなった。先輩という立場を気にしていたようでもなく、単純に安定したのだろう。阿部は再会した三橋が、記憶より流暢に話すのを知った。確かに成長しているように見えた三橋が、まさか以前と同じようにうずくまって泣くなどとは。成長? (球威は増してる。話も上手になった) 阿部はそう思い返して、その瞬間耳に三橋の声が蘇った。 『ずっと、阿部くんに、な、投げたかった。もう、ずっと』 阿部は確かに混乱していた。これじゃ高一の春と同じじゃねえか、と思ってから、違うと思い直した。やたらと鼓動が速くて、不安と疑問と高揚と期待と、この混乱は何なんだ? 電車の開いた扉が、出発のアナウンスと共に軋んだ。阿部はそこがどこの駅なのかもろくに確認せずに、いきなり席を立ち上がるとホームに飛び出した。背後でぴしゃりと扉が閉まって、電車が出発する。それとほぼ同時に、阿部は携帯を鞄から取り出していた。 イライラしていた。呼び出し音の間ずっとイライラしていた。イライラしていることにも、この状況にもイライラしていた。終電なんて頭から吹っ飛んでいた。ようやく掛けた相手が通話ボタンを押して、はいと言うか言わないかの間に、阿部は携帯に怒鳴りつけていた。 「三橋っ!」 『は、はい!』 「てめえ今どこだよ!」 『で、電車…』 「わかってる、どこの駅だ!」 『え、えと、ごめ』 しどろもどろに駅名を答えた三橋に阿部は、じゃあ十五分くらいで行くはずだから、と言った。乗り換えのため構内を走っていて、僅かに声が乱れた。 「おまえの家の最寄り駅で待ってろ」 『え?え、なに』 「行くから。待っててくれ」 『え、行くって、え』 「もう乗る。切るぞ」 『あ、あべく』 ぶつんと通話を切って、阿部は電車に駆け込んだ。自分の記憶が正しければ、この電車の後数本ほどで終電になるだろう。思わず大きくため息をついて、俯くとまた頭をガシガシとかいた。自分らしくなかった、余りにも。それでもこんな気分は久しぶりだった。そう、それは正に、高校の時に何度となく味わった焦燥と高揚だった。 |