その門をくぐると 2
夜道を西根の家を目指して歩く間、オレはずっと西根の腕を掴んでいた。ろくに話したこともないのに悪いと思ったのだが、何かに支えられていないと今にも倒れてしまいそうだったのだ。西根は何も言わなかった。一度オレが道に躓いたとき、大丈夫か、と声をかけてくれたが、それだけだった。俯いて粗相をしないよう全力を尽くして耐えているオレの努力を何となく察してくれているのか何なのか、西根の歩みのペースはちょうどよかったし、会話を強いられないことも有り難かった。 十分弱歩いたところで、着いたぞ、と声をかけられた。のろのろと顔を上げたオレの前には、先程からずっと続いていた長い塀に続く頭を余裕で越えた大きな門と、その向こうにそびえ立つクラシカルなばかに大きい洋館があった。門の隣のひび割れた石柱には、確かに『西根』と古めかしい表札がかけられている。北海道は確かに大きな家が多いのだが、それにしてもこれは規格外だ。第一この歴史を感じさせる趣き、とても一般家庭の家とは思えない。 「…でかっ」 オレが思わず声を漏らすと、数秒の後に西根は、 「以後この住居及び家庭に関する一切の質問を断る」 と独り言のように呟いた。ええー何でだよ、と色々訊きたいことがあったオレが不満そうに西根を見上げたところで、また吐き気の波が襲いかかってきた。玄関へと引きずられるようにアプローチを歩きながら、オレはうんうん唸って背中を丸めていた。 その後ばかでかい玄関ホールで靴を脱いで、背の高い長い廊下を進んだ。 「ぼくの部屋は少し離れてるから、もう少し我慢してくれ」 西根はそう言って少し歩いてから、途中で廊下の途中にあった襖をノックした。襖ってノックするものなのか、とオレはぼんやりと考える。 「おばあさん、ただいま帰りました。友人の体調が悪いので、少し休んでいってもらいます」 西根が襖に向かってそう言うと、いきなりがらりと襖が開いた。中から和装の初老の女性が現れて、西根と猫背のオレを見比べた。 「おかえりキミテル。お友達なんて珍しいこと」 オレは西根のおばあさんらしい人に一言挨拶しようと顔を上げた。孫と同じく、少し冷たい印象を与えるが整った、若い頃はさぞや、と思わせる顔立ちに、乱れなくまとめられた白髪と白い半襟が、とても印象的なおばあさんだった。 「お邪魔します。二階堂、昭夫と、もうしま、」 視界に、何か茶色っぽいものがおばあさんの部屋から飛び出してくるのが映った。それはオレの足の間をすり抜けて廊下を走っていく。オレはそれを目で追いながら、ああ猫がいるんだ、と思って、視線を戻そうとしたところで、目の前がぐるんと回って真っ暗になった。 何か、湿ったものが頬をなぞる。こそばゆい。触れるか、触れないかの距離だ。 (…駄目だよ、ミケ。こっちにおいで) 低い穏やかな声が、上の方から静かに響く。オレの感覚は徐々に目覚め始める。頭の下の柔らかい枕や、使い慣れない感触の毛布、覚えはないが懐かしい感じの匂いを、だんだんに意識する。 ゆっくりと瞼を開くと、視界いっぱいに三毛猫の顔が広がっていて、オレは驚きのあまり悲鳴を上げた。我ながら男子高校生とは思えない甲高い声に猫もびっくりしたようで、ぴょんと体を引くと畳の上を後ずさりした。 「目が覚めたか」 毛布を握りしめてびびっているオレの隣に、影が落ちた。 「あ、西根」 その端正な顔を眺めている間に、オレは一気に先ほどまでのことを思い出した。 「悪い!今何時だ?」 「11時半。そんなに寝ていないよ」 西根はそう言って、じっとオレを見つめた。見られているので、オレも何となく西根を見返そうとするのだが、西根の目はガラス玉みたいで、何だかきまりが悪い。それで、オレは西根の着替えたらしい部屋着の、水色のシャツの襟元を眺めていた。隅々までぱりっと糊がかかっていて、それは西根によく似合っていた。部屋着にこのブランド着るなんて、やっぱり西根はおぼっちゃんだな。服に凝りまくるタイプには見えないし。と、オレがそんなことを考えていると、不意に西根が右手を伸ばして、オレの額に触れた。薄い骨ばった手のひらが、ぴたりと肌に吸いついていく。なんだなんだ、とオレは西根を見上げたが、彼は頓着する様子もなくしばらくそのままでいた。 「熱は無いみたいだな」 その台詞で、オレはようやく彼の意図を理解したわけだが、予想に反して、その手は離れていかなかった。西根の手はそのまま、額から髪の生え際にスライドしていくと、わしゃわしゃと数回髪をかき混ぜて、それから離れた。なんだなんだ。 「起きられそうか?」 「うん、もうよくなった。なんていうか、ヒステリーみたいなものなんだそうだ。ごめんな、迷惑かけて」 オレの記憶が正しければ、オレは廊下でぶっ倒れたはずだ。そこから運んでもらって布団まで敷いてもらったとなると、本当に申し訳ない。 「別に、二階堂軽かったから大丈夫だ」 ちょっと人が気にしていることをさらりと言って、西根はかがみ込んでいた背筋をまたぴんと戻した。その自然な正座の仕方に、オレは躾いい感じだなあ、と思った。オレも体を起こして、西根と向かい合う。オレは重要なことを忘れていた。 「西根、さっきは助けてくれてありがとう。オレ警察に捕まるかと思ったよ」 「…ああ。近所の人から通報があって、あんな廃屋に侵入者がいても何もないんだけど、一応見に行ったら二階堂がいるから驚いたよ。何してたんだ、あんなところで」 「友達と、…星見てた」 本当なんだが、我ながら嘘くさい。西根怒らないかな、と思っておそるおそる顔色をうかがったが、彼はすんなり納得したようだった。 「そうか。今日は晴れていて空が綺麗だったもんな」 「…それにしても、何で警察が西根の言うこと聞くんだ?」 「それは、あそこの土地と建物がうちの所有物だからだろう」 「…ええ?そうなの?」 「うん。次から星を見るときは、ぼくに言ってくれたら問題ないから」 「…あ、ありがとう」 やっぱり西根ブルジョワだろ!親何してんの?とか、おばあさんいっつも着物着てるの?とか、家探検したい、とか、女中さんいるの?とか、色々訊いてみたかったが、質問は禁止されていたのでオレはそのまま俯いて口を噤んだ。友達を連れてくると毎回そういう展開になるから、初めから質問お断りなのかもしれない。 すると西根が、再び手を伸ばして、オレの髪を数回かき混ぜた。いやな感じはしない。慣れた手つきというか、乱暴に撫でる感じなのに痛くはない。ただ西根が無表情な分、その手が妙に優しい動きでギャップがある上に、脈絡がなくて変な感じだ。 「な、なに?」 オレが見上げて訊ねると、西根はきょとんとして自分の右手を眺めた。 「あれ?ああ、ごめん。…なんか、似ているから、つい」 「オレ?誰に?」 「え?いや、髪が。色とか、質感が。知り合いの飼っている犬に」 なんで犬なんだ!というオレの心の叫びをよそに、西根はどうも本当に無意識だったようで、首をひねりながら、ごめんと謝る。 「いいよ、別に。それよりも、本当にごめんな。うちに帰るよ」 オレがもぞもぞと布団から抜け出すと、 「体調悪いだろ。遅いし、泊まっていったらどうだ?」 と西根が言った。相変わらず表情がなくて、真意が読みとれない。社交辞令を言うタイプには見えないのだが。話している最中に、先ほどの三毛猫が西根にすり寄ってきて、膝に足をかけていた。 「そんな、そこまでしてもらったら悪いよ、本当に」 オレはそう言って立ち上がろうとしたが、途端に足下がふらついた。変な時間に寝たせいだろうか。 「危ないよ。風呂に案内するから、疲れてなかったら使ってくれ。使ってない着替えもあるし」 西根はそう言いながら、太腿の上で丸くなった猫を撫で始めた。猫はごろごろと喉を鳴らす。オレは柔らかそうな背中を上下する西根の大きな手のひらを眺めながら、こいつ動物好きなんだな、と思った。一つの発見だ。 「どうする?」 西根にそう問われて、オレは首を縦に振った。家は少し遠かったし、こう遅くては道がはっきりしないから途中まで西根に送ってもらわなければならないかもしれない。それも迷惑な話だ。それに、この謎多き同級生の家に泊まるなんて、ちょっと面白い体験じゃないだろうか。あんまり人を寄せつけない感じがする西根だが、どうも無表情なだけで凄く親切な気がする。オレは、少しわくわくし始めていた。 「電話、借りてから風呂借りてもいい?親に連絡する」 「その方がいいな」 西根はそう言って、猫を抱えたまま立ち上がった。オレはおや、と思った。心なしか、西根の頬がゆるんだ気がする。きりっと上がった眉が、少し和らいだというか。彼はほっとしたように見えた。やっぱり、こいついいやつだ、とオレは思った。 「あ」 部屋を出ようとして、オレは何気なく西根に尋ねた。 「西根、下の名前何ていうんだっけ?」 西根は少し眉を寄せて、まさき、と言った。 「さっきおばあさん、なんか違う名前呼ばなかった?」 「ああ、あの人は好きなように呼ぶんだよ」 西根はそう言うと、机に戻って白いメモに『公輝』と縦に書いた。 「正式にはまさきと読むんだけど、おばあさんはキミテルと呼ぶ」 「へえ、面白いな。確かに日本語は色々読めるよな」 オレはしばらくその字を眺めていたが、やがてはっと思いついて西根を振り返った。 「なあ、これさ!まさって字、分解したらハムに読めない!?」 「…ああ」 なんとなく、西根が居心地悪そうにしている。オレは変にテンションが上がってきていた。 「コウキ、キミキ、ハムキ、ハムテル、…ハムテルが一番語呂いいな!」 「だから?」 「オレも西根のことハムテルって呼ぼうかな!」 西根は一瞬目をみはって、それから深いため息をついた。腕の中の猫がにゃあんと鳴いて、オレを振り返った。睨まれているような気がする。 「…二階堂は、ぼくの母と同じ発想をするんだな」 「え、西根のお母さん、西根のことハムテルって呼ぶの?」 何故か楽しい気持ちになってきた。オレは笑顔で宣言した。 「オレ、これから西根のことハムテルって呼ぶ!いい?」 「…好きにしてくれ。早く電話しないと、ご両親寝てしまうんじゃないか」 そう言って、西根は背を向けると部屋を出た。うんざりしたような口調だったが、どうしてか耳の端がほんのり赤かった。オレにはわかる。西根は、別に嫌がってはいない。オレはそういうことだけは、見誤らない。追って廊下に出ると、猫がにゃあ、と鳴いて、西根の首にしがみついていた。 「ハムテル」 「…」 「ハムテル」 「なんだ」 「今日はありがとう。これからまた遊ぼうな」 彼はちょっと驚いたように目を見開いて、オレの顔を見返した。オレは本当に、こいつと仲良くなりたいと思った。今の友達全員より、全然すごく変で面白い、すごくいいやつだ。訳がわからないけど、なんかずれてるけど、絶対いいやつだ。 「…うん、そうだな」 ハムテルはそう小さく呟いて頷くと、電話はあそこで、風呂はあの扉、トイレはその隣だ、と指し示した。普通通りのさりげない身振りだが、やっぱり耳が赤い。オレはそれを聞いて頷いて、猫を抱いたまま自室に戻る細長い背中を眺めながら、浮き立つような気持ちでいた。きっとオレが風呂から出ても、あいつは先に寝たりしないで待っているだろう。早く風呂から上がって、色々話して、色々聞こう、とオレは思った。取り上げた受話器はひんやりとして、オレの心臓の音のリズムに合わせて、呼び出し音を鳴らした。早く早く、と急かしながら、オレはそっと瞼を閉じた。 【了】 |