「結婚するんだ」
十年来の親友のその言葉に、俺はふぅんと素っ気無い返事をする。しかし返事とは裏腹に、俺は相当のショックを受けていた。聞き返すことも出来なかった。ただじっと、目の前に置かれたグラスを見つめることしか出来なかった。
安っぽい居酒屋の安っぽい照明、安いつまみと安い酒。いつもと変わらない。一週間前だって一緒に飲んだじゃないか。その時は別に何も言ってなかったじゃないか。
「驚いただろ」
「驚いたっつーか……うん」
思えば今日の彼は、いつもより酒のピッチが早い気がする。気のせいだろうか。いつもよりテンションが高い気がする。気のせいか。俺はグラスについた水滴を親指で拭った。
「でも、結婚したって別に何が変わるわけでもないし……お前と一緒に酒を飲むのだって、そんくらい許されるだろ」
って言うか絶対許してもらう。そう言って彼は笑う。
「だから、これからも宜しく頼むよ、奥さんに言えないことだって俺、親友のお前にだったら何だって相談できるし」
親友。その言葉は俺の前に今、大きな壁となって立ち塞がっていた。親友だからと言って引っ付いて歩いて、きっと誰よりも、多分奥さんよりも多くの時間を共有してきた。でも俺にとって彼は親友だけど親友じゃなかった。誰よりも彼に一番近い気がしてたけど、俺はそのポジションに甘んじていただけだったんだって今更気づいた。
「……俺はそうじゃない」
「え?」
「俺はお前に隠してたことがあるよ」
彼は一瞬面食らった顔をして、悪戯をするときのような顔で笑った。
「えぇー、何? 俺にも言えないこと?」
「あぁ」
「親友でも?」
「親友だから」
そんなことってあるの、と彼は変な顔をした。そして、何気なくこんなことを言う。
「俺、山本のことだったら何だって知りたいけどなー」
傾けたグラスの中の氷がガランと音を立てた。今更そんなこと言うなよ、何考えてんだよ、相変わらず鈍いっつーか、何つーか。
俺は溜息をついた。それに気づいた彼がなぁにー、とふにゃふにゃ笑う。この酔っ払いが。少しだけ恨めしくなる。
それから何を思ったのか彼は、俺の好きな山本はねー、と、酒のせいで少し舌足らずになった口調で一人でへらへら話し始めた。それを聞いていると何だか彼の中の俺はまるでヒーローで俺じゃないみたいで、そんな風に好かれている彼の話の中の俺に嫉妬したりして。
「ねぇ山本、山本の中の俺ってどんなやつ?」
やっぱ駄目なやつかなぁ、と笑う。俺はグラスに視線を落としたまま言った。彼の顔は見れない。
「俺の中のツナは……ちゃんと自分を持ってて、昔からすげーやつだなって思ってるよ。思いやりがあって、優しくて、時々心配になるけど、そーいうとこもツナのいいとこだって思う」
数秒の沈黙があった。何かまずいこと言ったかなと思って顔を上げると、顔を真っ赤にしたツナがぽかんとした顔で俺を見ていた。顔が真っ赤すぎて酔ってんのか何だか分かんなかったけど、ツナが溜息を吐きながら額に手をやって言った次の言葉で、ようやく恥ずかしかったんだなって分かった。
「それさ、何か、プロポーズんときの言葉みたい」
ツナは言った。俺は面食らった。プロポーズ、そうか、プロポーズか。何か笑えてきた。ふっと笑うとツナも笑った。グラスを握る。言えねーよ、好きだなんて、ずっと好きだったなんて、今更。
俺はもう一生言えないであろう言葉を、薄くなった酒と共に胃の中に流し込んだ。
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