――……夢を見た。俺は船に乗っていた。大きな旅客船で、父さんと母さんも一緒だ。まだ子供の俺は、手摺から身を乗り出して海面に手を伸ばす。海面は太陽の光が反射して、きらきら光っていて綺麗だった。波が生き物みたいで夢中で手を伸ばした。身を乗り出したら――船がぐらりと傾いて、その拍子に足が滑って――遠くで母さんの悲鳴が。
そこから先のシーンは断片的でよく分からなかった。下にあったはずの海面は気付いたら上にあって、射し込んだ光できらきらしていてやっぱり綺麗だった。もがいてみたけれど足が着かないからどうしようもない。あ、俺、多分死ぬ。頭の中に映画のフィルムのようなイメージが浮かんだ。あぁ、走馬灯ってホントにあるんだ、多分、俺、このまま、
――気付いたら、俺はゴムボートに引っ張りあげられていた。父さんはやっと安心した様子で、母さんは俺をがむしゃらに掻き抱いてわんわん泣いた。父さんが言った。水中に尻尾が見えた、イルカが助けてくれたんだ――……。
でも俺は知っている、いや、思い出した。この夢は夢じゃない、俺の過去の記憶で、俺が実際に体験した話。あの時――誰かが、沈んでいく俺の身体を水中で抱き止めた。覚えている。霞んだ視界の中、うっすら見えたのは魚の尾びれみたいな形。そしてきらきら反射していて綺麗な――……鱗。
温かさで気が付いた。水の音。ゆっくり目を開ける。強化プラスチックの白い壁が眩しくて、二、三度目をしばたかせた。ここ……うちのお風呂場だ。俺は湯船に浸かっていた。シャワーが水面に柔らかく落ちて、優しい水音を立てていた。山本は俺に凭れて抱きついている。俺は手を伸ばして、山本の頭をそっと撫でた。
「……ツナ」
俺の肩口に顔を埋めたままの山本は、うめくように俺を呼んだ。
「ツナは、学校に通って、成長して大人になって、誰かを好きになって、社会に出たりして、結婚して子供ができて、普通に幸せな人生を送って、な」
山本は俺にしがみつく腕の力を少しだけ強めて、絞り出すような声で変なことを言った。
「……俺、帰りたくねーんだ」
どこへ帰るっていうんだ、帰るところなんか他にあるか。俺は信じられなかった信じたくなかった、“どうして人間になったのか”、“どうして俺なのか”、例えその辻褄が合ったとしても、俺は信じない。
「……山本は、明日も明後日も、大人になってからもずっと、俺と一緒にいるんだ」
山本の背中に腕を回して抱き着いた。
「俺だってツナと一緒にいてぇよ、」
ずっと気になってた、あん時からずっと。山本は言った。耳を塞ぎたかった。それ以上言わないで欲しいと思った。
「何、変なこと言ってんだよ山本、ずっと一緒にいればいいじゃん」
「駄目なんだ、駄目なんだよツナ、ごめんな、ごめん、でも知ってほしかったんだ、俺のこと」
もう言わないで、の一言が言えなかった。言ってしまえば認めたことになる。目を背けたい真実だった。
だって、山本が――……あの時海に落ちた俺を助けてくれたのが山本だったのなら、全ての辻褄が合うのだから――!
「……尻尾」
最後の賭けだった。
「出してみてよ」
山本はあの時のように拒否をするものだと思った。そうしたら、ほらやっぱり嘘なんじゃん山本の嘘つき、と無理矢理笑ってやろうと思った。
けれど山本は俺の予想に反して、そんなに見たいんなら、と言った。ツナには知ってほしいんだ。俺の肩口に顔をうずめたまま呟いた。笑い飛ばせるような雰囲気じゃなかった。怒り出せるような雰囲気でもなかった。シャワーの優しい音だけがバスルームの中に響いていた。俺は泣きたかった。生涯で一番混乱していて切なくて悲しかった。これ以上ここにいたら、会話を進めたら二度と立ち上がれないような打撃を受けるような予感がした。それでも山本は俺を逃がそうとはしてくれないみたいだ。山本はもう決心しているらしかった。“明日でお別れ”。
「……触るから」
尻尾に触るから。だって火傷するんだろ、人間の手のひらの体温で、魚って火傷するんだろ。だったら俺が触ってやるよ、火傷すればいいんだ、それで海に帰れなくなればいい。半ば脅しだった。これで諦めてくれればいいと思った。
「……いいよ、触って」
触ってくれよ、ツナがしてくれるんだったら何だっていい。山本の声は泣きそうだった、それを聞いた俺も泣きたくなった。何で山本はそこまでして俺に執着するんだ、俺はただ助けてもらっただけで何もしてあげたことなんてないし、しかも今、傷つけようとまでしているのに。
「あんまり見られると恥ずかしいからさ……目、瞑って」
照れ隠しに少し笑ったのが、耳にかかった吐息で分かった。俺は言われるがままに目を閉じた。このまま目を開けないでいてやろうか。
少し間が空いて、ぱしゃん、と水が跳ねる音がした。まるでそう、魚が跳ねる時の音。湯船から水が溢れる音がした。
目、開けて。耳元で声がした。開けるか開けまいか一瞬戸惑ってから、俺はゆっくりと薄目を開けた。山本は俺に抱きついたまま。俺は山本を抱きしめたまま。シャワーの音だけが優しい。白い湯気で滲んだ視界。強化プラスチックの白い壁。熱くも温くもない透明なお湯。裸で馬鹿みたいに抱き合ってる俺たち。その水面下に――、
きらきら反射して光る鱗が見えて、俺は目を閉じた。
開けなきゃよかった。
目覚めた時には、もう隣に山本は居なかった。少し低めの体温が心地よかったことを覚えている。好きだったんだ、と言われたことを覚えている。何て返事をしたかは、覚えていない。
ベッドの上で身体を起こして、俺は小さく伸びをする。多分、学校へ行っても、もう山本はいない。どこにもいない。海になら、いるかも。どこの海だか知らないけれど。
結局、俺は山本の足に触れなかった。山本の綺麗な鱗が痛々しく剥がれてしまうのとか、人間の姿になったらケロイド状の生々しい痕が残るんじゃないかとかそんなことを想像したら、どうしても手を伸ばせなかったのだ。
それに、思い出していた。どっかの国の童話を。人魚姫は最後は泡になって消えてしまうんだった。山本は雨が降らなくなったら生きていけないと言った。それは泡になって消えてしまうってことなんじゃないかと思ったからだ。何となく、何の確信もない俺の想像なんだけれど。
山本は俺がするんだったらなんだって良いって言ったけど、死んじゃうよりは生きてる方がいいと思ったから。
俺は山本が言うようにこの先、いつも通りに学校に通って、成長して大人になって、誰かを好きになって、社会に出たりして、結婚して子供ができて、普通に幸せな人生を送って死んでいくのかもしれない。
でもさ、やっぱり人魚姫と違って、山本は泡になって消えちゃう必要なんてないんだよ。死んじゃったら会えないけど、生きてたら会えるかもしれないじゃないか。そうだ、後で母さんに訊いてみよう。あれってどこの海だったっけ。そんなことを考えて嬉しくなってしまうなんて、俺の方が電波かもしれない。
ちゃんと、帰れたのかな。少しだけ心配になった。風邪引いてないかな。あ、でも人魚だから、風邪って引かないのかな。
カーテンを開けた。
雪が降っていた。
end
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満足した
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