犬と名前

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「この犬、シンジって言うんですよ」



   犬と名前



 言われた意味が分からずに、伸治は数秒考え込んだ。「あ、そう」
「俺とおんなじ名前だな」
「そうですねえ」
 散歩中なんです、そう言って笑った田辺は伸治の後輩だ。委員会は一緒だけれども、特に親しくはない。実際伸治は、田辺の下の名前もクラスも知らない。知っているのは顔と、名前だけ。名前だって、田辺が一応委員会で役職を持っているから知っているだけだ。
 けれど田辺は違うらしい。どうやら伸治の下の名前も、クラスも知っているようだ。
(アタマのデキの違いってやつかね)
 伸治はあくびをしながら考える。田辺はうちの高校始まって以来のシューサイというやつで、センセイがたのキタイノホシなのだともっぱらの噂だ。来期には生徒会選挙にも立候補するとか推薦されるとかいう話も聞いた。
(俺には縁のないやつ、だよなあ。やっぱり)
 伸治はこっそりと横を歩く田辺を窺う。何故田辺がわざわざ自分を呼びとめたのか、伸治には分からない。顔見知りの先輩がいたところで、そうそう呼びとめたりするものだろうか。――挨拶くらいは不思議ではないけれど、でも。
「――あーのさ、田辺」
「何でしょう」
「コース、違うんじゃねーの」
 散歩の、と犬を見ながら伸治は指摘をする。ちょうどT字路に差し掛かったあたり、田辺は右折する伸治に当然のように付き従っているが、連れられた犬は明らかに別方向に行きたがっている。
 「たまにはいいです」田辺は笑う。
「たまには、って」
「いいんです。気にしないでください」
「はあ」
 笑顔が妙に威圧的で、伸治は面倒臭くなって頷いた。犬、ごめんと視線を落とす。
 どこかで見たような気もする犬だった。けれど、マメシバなんて珍しい犬種でもない。実際、伸治の家の隣家も飼っている。このマメシバは、田辺に似て聡明そうだと伸治は思った。黒い目がキラキラしていて大変可愛らしい。濡れた鼻に触れたくて、背筋がむずむずする。
(ま、明らかに俺よりは頭いーかもね)
 お手お座り待てができる犬を、伸治は尊敬する。問わずとも、この犬はできるだろうと知れた。ぴったりと田辺に並んでいるからだ。リードがぴんと張り詰めない。伸治がだらだら歩くせいで、田辺も進みは遅い。そのせいで犬は若干歩きにくそうだった。
 さっさと行っちまえばいいのに。伸治は密かに嘆息する。特に共通の話題もないし、黙って並んでいるというのも、何だか居心地悪くて仕方がない。
「田辺ってさあ」
「はい?」
「家この辺なのか?」
 問いかけに、ふっと噴き出す気配があった。犬を見下ろしていた伸治は、何だ? と顔を上げる。だが特に田辺の表情に変化はなかった。静かな優等生スマイル。
「ええ。知りませんでしたか」
「知りませんでしたねえー」
「そうですよね」
 適当な伸治の返事にも、田辺は揺らがない。「伸治先輩は、本当に俺に興味がないですよね」
 伸治先輩? なんだそりゃ、と田辺は内心舌を出す。名前で呼ばれる筋合いもない。
「俺の住んでる場所も、名前も知らないでしょう?」
「や、それは当然じゃねーの? 先輩後輩なんてそんなもんじゃん。お前が変わってんだろ」
「まあ、ちょっと事情もありましてね。ところで俺の名前は一樹です」
「ジジョーねえ」
 伸治はあえて、教えられた名前については黙殺した。そして、その事情とやらも問う気にはならない。伸治が肩を竦めると、田辺は「でも僕は先輩について詳しいですよ」などと言い出した。
「はあー? 詳しい?」
「先輩の家、どこにあるか知ってますし、家族構成も知ってます」
 にこやかに爽やかに言い放たれ、伸治は固まる。目を見開いて田辺へを振り向いた。「……マジで?」
「まじです」
「えっと、それは、さあ……」
 田辺の表情は何を考えているのか伸治に窺わせもしないので、見ていて落ち着かない。伸治はうろうろと視線を彷徨わせる。「何だ、お前俺のすすす、ストーカーとかなんかそんなのなの」
 とても考えにくいけれど。しかし家族構成、しかも家まで割れているとなると、ちょっと、いや、かなり引く。
 田辺はやはり感情の読めない顔で笑う。
「そんなわけないじゃないですか。先輩って自意識過剰ですねえ」
「うわあむかつくなお前……」
 自分でも自意識過剰だと思う。伸治は恥ずかしさのあまり田辺を殴りたいと心底思った。
 赤くなっている伸治に向かって、田辺は口の端を引き上げた。
「まあ仲良くなりたいという意志はありますよ」
「仲良く、ねえ」
 何故だろう、大変嘘くさい。
 そもそも、自分と仲良くなることのメリットが、田辺に何かあっただろうか。伸治は考えたが思い浮かばなかった。からかわれているだけ、という気も、した。
 そんなことをぐでぐでと考えているのも、性に合わない。伸治は頭をかきながら、口を開いた。
「何で」
「はい?」
「俺別にお前と特に接点とかないじゃん。仲良くなるとか意味わかんねえ」
 やっぱり頭の中身が違うと考えることも違うのかと、伸治は空を見上げ息を吐いた。田辺への印象が、自分のなかで変化していた。
 委員会が一緒なだけの、シューサイな後輩。ただそれだけであったはずなのに。
 今は。
「接点は、あんまりないかも知れませんけれど」
 ふっと田辺の雰囲気が変わる。柔らかい、というのだろうか。
 伸治は目を瞬かせた。
「先輩は面白いから。やっぱりお近づきになりたいな、と僕は思いますね」
「俺はやだよ」
 するっ、と考える間もなく伸治の口からは応えが零れた。田辺がびっくりしたように瞠目する。それは少し間抜けた顔で、伸治は気づかず口の端を上げた。「お前面倒くさそうなんだもん。俺はめんどくせーこと嫌いだし」
「酷いなあ」
 田辺の言葉に全くだと伸治は自分でも思う。それでも田辺が笑むのは、伸治よりも精神的な面で大人だからなのだろうか。
「まあ、だから。先輩のそんな酷いところが、僕の興味を引くんですけど」
「……マゾ?」
「やだな。違いますよ」
 田辺がなぜ噴き出すのか、伸治にはよく分からない。謎な人種だとか、やっぱり近づきたくねえなとか、そんな事を思いながら角を曲がる。――もう、家まで三メートルだ。正直まるで見送られるような状態なのは辞退したいところだった。
(……でも遠回りするのもめんどうくせーしな)
 そもそも家を知られているのなら、それも無駄だろう。そうしてふと、伸治は自分が問いかけそびれていたことに気付いた。
「なー。なんでお前、俺の家知ってんの? そういえば」
「そこですよ」
「は?」
 田辺は人差し指でびしりと伸治を示した。指を差すな、と伸治はその手を叩き落とす。
「普通、家を知られていると分かったら何故と思うでしょう。伸治先輩はそれがない」
「いや思っただろ。ストーカーかって訊いたじゃねえか」
「その後ストーカーじゃないと分かったら、まあいいかと思ったでしょう」
 思うも何も、問いかけを忘れただけなので応えられない。伸治が黙っていると、「まあいいですけど」と、田辺はとある表札を示した。――伸治の家の隣家。マメシバのいるはずの、お隣さん。
(――あ。)
 伸治は目を丸くした。何故、気付かなかったのか自分でも不思議だった。
「『田辺』……?」
「そもそも引っ越してきたときに、姉がご挨拶に伺ったはずなんですけどねえ」
 それは伸治も覚えている。超美人さんが越してきて、伸治は内心喜んだからだ。もっとも、接点なんて全くないから忘れてしまっていたけれど。
 呆然と立ち尽くす伸治に、「ま、もうちょっと周り見たほうがいいですよ」と田辺はくすりと笑い、さっさと家の中へと消えてしまった。
 ――隣人だったのか。
 そもそも行きも帰りも時間がずれているのだろう。この家に出入りする田辺を、伸治は見たことがなかった。
 今までは知らずにいたから、よかったのだろうけれど。
(なんか、めんどくせーことになりそうだなあ)
 あの優等生スマイルは、どうにも関わらずに過ごせないような気がする。今から憂鬱になりながら、伸治は自宅の門扉を開いた。


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2009.05.31

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