■Over the ocean 登場人物概略
・ハナ(ゾディアック/プリンセス)
・Q(パイレーツ/ファーマー)
・マリア(ファランクス/ショーグン)
・エーリカ(バリスタ/プリンセス)
・リヒャルト(バリスタ/ゾディアック)
・エリアス(モンク)
■Over the ocean 目次
第1章
海都歴104年 金羊ノ月
〜 ハナと、ふるい歌
第2章
海都歴102年 天牛ノ月
〜 エリアスと、ふるい鍋
第3章
海都歴102年 笛鼠ノ月
〜 マリアと、あたらしい問い
第4章
海都歴101年 風馬ノ月
〜 エーリカと、あたらしい船
第5章
海都歴99年 皇帝ノ月
〜 Qと、瓶
第6章
海都歴98年 戌神ノ月
〜 ハナと、嵐
■Over the ocean(1)
海都歴104年 金羊ノ月
〜 ハナと、ふるい歌
あの虹を越えた先には、何があるのだろう。
お母様の子守歌に聞いた幸せの国? 青空が輝く夢の世界?
光学的に言えば、虹を越えることはできない。虹を越えた先に何があるのか、それを実
証することは不可能だし、でも逆に言えば「これがある」という主張に対する反証を作り
上げるのも難しい。だから、何があったっていいのだろう。
神様みたいなものだ。いたっていいし、いなくたっていい。
わたしにとってみれば、虹のむこうというのは、世界そのものだ。虹は、見える。世界
も、見える。でも、そこにたどり着くことは、できない。
くだらない思いを巡らせながら、驟雨の通り過ぎた青空を見上げる。空はからりと晴れ
て、海はどこまでものっぺりとしたエメラルドグリーン色に染まっている。突然の雨を避
けていたカモメたちがニャアニャアと鳴きかわしながら、遠くの空へと飛んでいく。虹の
向こうへ。世界へ。
そうやってウッドチェアに横になって空を見ていると、彼が飲み物を片手に近づいてく
るのがわかった。彼と特定できるのは、いまこの島にはわたしと彼しかいないからで、飲
み物を片手に持っていると言えるのはグラスがカチャカチャ音をたてているからだ。わた
しはあわてて身体を起こし、彼の方を振り返る。
「ごめんなさい、フェルケさん……わざわざ、そんな」
彼はメガネの下の顔を苦笑いさせると、飲み物を差し出しながら言う。
「『フェルケさん』は、もうやめようよ。『エリアス』でもまだまだ堅苦しいくらいだ。
それにそもそも、もう君だって『フェルケさん』なんだからね、ハナ」
わたしはアルコールが軽く効いたフルーティな飲み物を口にしながら、すこし顔を赤ら
める。
わたしは、フェルケさんの、妻。
星術の詠唱句を巡らせるように、頭の中でその言葉を繰り返してみるけれど、それはあ
まりに遠い世界の、遠い物語のようで、そこに登場する「わたし」って誰なんだろうとい
う疑問は、ごく自然に心の深みに収まる。
フェルケさん――いや、彼は、わたしの隣に広げられたウッドチェアに横になると、ぐ
いっとグラスをあおった。彼はわたしよりもアルコールに弱いから、きっとあれはノン・
アルコールのフルーツジュースだろう。もっともわたしだってお酒にはからきし弱いから、
そういう点ではお似合いなのかもしれない。
「I have a dream」
穏やかな風のなかに、彼の歌声が吸い込まれていく。ずっと、ずっと昔から伝わる、も
はや歌詞の意味すら失われてしまった、歌。でも、このあたりでは子供でも歌える、有名
な歌だ。
「I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true mea
ning of its creed. We hold these truths to be self-evident: that all men are cre
ated equal.」
わたしは、この歌が何を歌っているのか、知っている。もはや使う者とていない古代語
を研究するのは、占星術師の仕事のひとつだ。
耳に奥に、彼女の言葉が蘇る。
「分かっているつもりよ、あんたが今言ったこと。でもね、あたしは恐くなるよ、すべて
のコトバがわかったとき、本当に何もわからなくなるんじゃないかって」
コトバは、何を伝えるのだろう。世界がコトバによって記述され、わたしたちはそのコ
トバで世界を把握し理解するのであれば、夢とは世界のどこに存在しているもので、そし
て絶望とは世界のどこに実在しているのだろう?
――譬えば、虹の向こうに? あるいは、海の向こうに? maybe yes, maybe no.
「Let freedom ring, I have a dream that one day let freedom ring from every hill,
from every mountainside, every village and every hamlet, from every state and e
very city.」
彼の声にあわせて、和声を作る。「Let freedom ring」で和音を作るのは、お約束みた
いなものだ。地方によっては、「I have a dream」と「Let freedom ring」だけが生き残
っているくらい、このフレーズは愛唱されている。
そうやってこの歌は歌い継がれ、悠久の時を経て現代にまで生き残り、日々を典雅に生
きることにのみ執念を燃やす王侯貴族から、今晩の食事を得るために文字通りの奴隷とし
て過酷な労働に励む最下層民まで、人々に口ずさまれている。
彼らがこの歌の意味を知ったら、何を思うだろう。それとも、何も思わないだろうか。
わたしのように。
思いに沈むうち、気がつくと彼の顔が目の前にあった。
ほのかに驚くけれど、彼の目に宿っている悪戯っぽい光と、その眩い光の裏に押し込ん
である不安を感じて、わたしは無言で彼にくちづける。
舌を彼の口の中に滑り込ませると、彼もまたわたしの舌を捉えた。そうやって、時間を
使いながら、コトバにできなかった思いを、コトバにならなかった現実を、二つの肉で溶
かして、すりつぶす。
それが、わたしたちの共同作業。
彼の指先が、わたしの太股をしっとりと辿る。静かにこみ上げてくる予兆をいなしなが
ら彼の胸板を指で追うと、口の中で彼の舌がわたしの歯をつたっていった。フルーツ味の
唾液を感じつつ、意外としっかりした筋肉に覆われた胸を愛撫し続ける。医者として、ま
た学者として、地域医療のかたわら歴史研究をライフワークにしている彼だけれど、とき
おり拳術の鍛錬にも精を出しているのは知っている。
あの人も、細い身体に、実用的な筋肉を蓄えていた。
わたしは意識を集中して、数日ぶりに口にする塩漬け肉を味わうときのように、彼の柔
らかで正確な愛撫がもたらす感覚を噛みしめる。あの人は、もういない。あの人は、もう、
「あの人」でしかないのだ。わたしは、彼と生きていくのだから。
両手で彼の背中を抱きしめると、きぃっと椅子が軋んだ。彼の胸板が、わたしのあまり
豊かとはいえない胸を押しつぶしていく。水着越しにも、彼の心拍数と体温が上がってき
ているのを感じる。きっと、わたしもそうに違いない。
彼の指が、執拗にわたしの太股をさする。若いというよりも、どこか幼さが残る彼だけ
ど、こういう我慢強さは大したものだと思う。それに、こうやって両足の間を揉みほぐさ
れていくと、だんだん自分の身体の中が開いていくのも感じる。そのことを、彼も察して
いるのだろう。焦らず、たゆまず、彼はわたしの足を愛撫し続ける。
わたしは彼の肩甲骨を、脊椎のなだらかな連なりを、引き締まったウェストを、それか
らまた筋肉の発達した背中を、ひとつひとつ自分の指先で試していく。彼が「あちら側」
ではなく、いまわたしと一緒にいることを確認したくて、わたしは何度も何度も同じこと
を繰り返す。
やがて、わたしの身体は完全に開かれてしまって、声を堪えるのが辛くなってきた。目
を閉じて快楽の予兆を押し殺していると、彼はするりと舌をわたしの口から抜いた。長い
長い接吻で、わたしはやや息苦しさすら感じていたのだけれど、細い唾液の筋が大気の中
に散っていくのを見ると、もう一度彼が欲しくて仕方なくなる。
でもそのとき、彼の指が、わたしの女性自身に触れた。
布越しでしかなかったのに、その指先はわたしの心を焼き尽くし、脳裏に鮮やかな色彩
の花を咲かせる。熱い息が肺を駆け上がって、声にならない声が喉から藻掻きながら這い
出していった。きゅうっと、彼の背中を抱きしめる。
水着の上から、彼の指は丹念にわたしの裂け目を伝い続けた。自分が潤っているのが、
痛いほど分かる。痛いというのは、乳首が硬くなっているからだ。まだ一度も海に入って
いない水着が、最初に濡れる理由がこんなことだなんてと思いはするし、その恥ずかしさ
に顔の火照りが止まらないけれど、かといって身体の反応を止めることなんてできない。
それでもやはり声だけは抑えたくて、彼にしがみつきながら、首筋に顔をうずめた。一
生懸命、腹筋を使って呼吸を整えようとするけれど、そのたびに彼は意地悪く指先を動か
して、わたしはしゃっくりするような声を漏らしてしまう。
「ここにはさ、僕たちしかいないんだから……もっと楽しんでいいんだよ?」
彼はそんなことを言うけれど、それが問題ではないことくらい分かっているハズだ。わ
たしは、むーむーと唸りながら、とてもとても現実的な快楽が自分の内側を立ち上ってい
くのを味わっていた。
その現実は、しばらくわたしのお腹のあたりで渦巻いていたけれど、敏感な部分をつん
とつつかれると火力をあげて暴れだし、小刻みにノックされると背中が痙攣するような痺
れに変わって、わたしは喘ぎながら「やめて」と呟いたけれど、さらに細かく揺すられる
と暴風になって身体の中を突き抜けていった。つま先が指の先まで震えていて、彼を強く
強く抱きしめた手も意志に反してガクガクと動く。
ふっと、身体が軽くなった。
全身から、力が抜けていく。
そのときわたしは、確かに、「向こう側」にいたのかもしれない。
一瞬の忘我が過ぎ、痺れるような肉の悦びが戻ってきた。彼はわたしからちょっと身体
を離していて、びっしりと汗をかいたわたしの身体の上を、爽やかな風が吹き抜けていく。
どこか高いところでカモメがニャアと鳴く声が聞こえ、ほんの幽かに波が寄せては返す音
が響いていた。
朦朧とした頭で、彼をじっと見つめる。
わたしを、愛してくれるひと。わたしを、守ってくれるひと。
何の前触れもなく、涙がこぼれそうになった。
深呼吸をして、彼の手にそっと触れ、すこし首をかしげた彼に、こくりと頷きかける。
彼の指が、水着の紐にかかった。最初は上半身。たっぷりと汗を吸った紺色のビキニが、
たっぷりと時間をかけて剥ぎ取られていく。もうちょっと胸に重量感があったらよかった
んだろうなあと思うけれど、こればかりはどうしようもない。むかし、こっそり相談して
みたら、「牛乳をもっと飲めばいいんじゃない?」とか言われたので、しばらく頑張って
はみたのだけれど、どうやら天性の素質の問題もあるらしい。
あらためて上半身裸にされると、やっぱり恥ずかしさがこみ上げてくる。そんなことを
してもどうなるものでもないと思うけれど、つい両手で胸を隠してしまう。案の定、彼は
苦笑しながらわたしの喉元にそっとキスをし、それから、片手づつわたしの防御を解きほ
ぐしていった。
彼の双の手が、わたしの胸を揉みしだく。彼の頭はわたしの肩のあたりに埋まっていて、
首筋から耳の後ろを舌がちろり、ちろりと這っていく。身体の疼きはもう止めようもなく、
一刻も早く彼と一緒になりたくてしかたない。
身体は自然に弓なりに反って、喉が天を向いている。呼吸が浅い。乳首を抓まれ、上下
にゆっくりと揺すられるたびに、欲求がどんどん昂ぶっていく。わたしは、彼のもの。わ
たしのすべては、もう、彼のもの。
彼が右手を胸から離し、わたしの腰をまさぐり始めた。すぐにその指先は水着の紐を見
つけ、結び目を解く。右手が胸に戻ってきて、左手が腰に降りると、もう一方の結び目も
形を失った。
さっきからときおり、彼の下腹部がわたしの太股のあたりに触れるのだけれど、彼もま
たすっかり仕上がっているようだ。熱く、いきりたった器官が、やや緩めの水着の中で不
満げにうずくまっている。
わたしは思い切り手を伸ばして、彼の男性的な器官に触れようとする。無理をしたせい
で、下半身にまとわりついていた水着がずるりと剥がれ落ちた。自分の女性器がさらけ出
されたのが分かるけれど、もう恥ずかしさよりも、即物的な欲求のほうが上回っている。
手のひらで彼の分身に触れると、それが脈動しているのを感じた。
でも、彼は慌てなかった。
身体を離したとき、わたしはてっきり彼が海水パンツを脱いで、いよいよ本当の男女の
交わりが始まるのだと思った。けれど彼はわたしの両足のあいだに顔をうずめると、もは
や止めようもなく体液を滴らせているその裂け目に、舌を差し入れてきた。
ざらりとした快楽が背筋に走り、鼻のあたりがツンと熱くなった。もう、声を我慢する
ことなどできない。わたしは訳の分からない言葉の断片を手繰り寄せながら、首を激しく
振りながら、黙々とわたしを愛し続ける舌に翻弄され続けた。
おなかのあたりで再開した痙攣は足を伝い、突き抜けるような激しい快感がほとばしる
たび、わたしは両足で彼の頭を締め上げてしまう。でも、彼はわたしの本能的な抵抗など
まるで意に介さなかった。おしりのあたりが自分でもちょっと気持ち悪くなるくらいに濡
れているのに、身体の内側を軽く抉られると、深いところからどっと飛沫があがる。彼の
舌はぺちゃぺちゃと音をたてながら、わたしの肉芽や襞を精査し、そうやって新しい刺激
が発見されるたび、わたしの喉からは淫らな嗚咽がほとばしった。
そうやって何度めとも知れぬエクスタシーに悶えるわたしは、ふと、幻影を見た。
赤い長髪。
ちくちくする無精髭。
ここではないどこかを見ているような瞳。
潮風で荒れた指先。
しっかりと握り締められた、手。
そうして。そうして……
わたしは髪を振り乱さんばかりに頭を振って、叫んだ。
「挿れて、エリアス、はやく! もう、もう、わたし、もう、ダメ!
お願い、わたしを犯して! わたしを突いて!」
無言で、彼はわたしのなかに入ってきた。全身の襞という襞が、喜悦に震える。涙がど
っと吹きこぼれ、内臓のすべてが喜びに悶えた。
彼にぴったりとくっついて、彼がわたしを揺らすに任せる。彼は、ときに時化の嵐のよ
うに、ときに赤子を抱いた揺籃のように、わたしの身体を自由に味わった。勁い突き上げ
を奥で受け止め、緩やかな摩擦を入り口近くで感じると、自然に腰が動き、波濤のような
快楽がすべてを奪い去っていく。
法悦の彼方で、わたしは、宙を見ていた。
高い、どこまでも高い青空の向こうに、星々が見える。
うねるような快楽が星々の海にいざない、弾け散るような絶頂が漆黒の宇宙に瞬く。
考えうる限りの悦びに身を任せながら、わたしは奇妙に冷静だった。
その冷静さは、わたしの視線を東の空へと導く。獅子の星座の方角からは、いくつもの
流星が地上に降り注いでいた。
ああ、それで――
……それで、いい。
わたしは身体のなかで無限に拡大していく現実を感じ、震える指先で彼の手を探すと、
強く握りしめた。両足が突っ張るように震え、無数の種子がわたしのなかに爆発していく。
今日、このとき、わたしは彼の子を孕んだ。
非常に高い確率で、女の子だろう。星が、そう告げている。
それで、いい。わたしは紛れもない現実を、いまようやく得たのだ。わたしの夢と、わ
たしの絶望は、終わるべき場所を見つけた。
身体のなかでビクビクと脈動する彼を感じながら、わたしはもう一度、しっかりとわた
しの夫を抱きしめた。
過ぎ去ろうとする季節の風を感じながら、ふたりで岬から海を見た。
カモメはあいかわらずニャアニャアと呼びかわしていて、エメラルドの海の彼方には豪
華なヨットが浮かんでいる。いつのまにか、虹は消えていた。
海を見ながら、わたしは呟く。
「――なんだか、馬鹿みたいな、海」
あの人は、言った。
「ハナ、この海を、どこの海と比べてるの?」
わたしは答えるために口を開きかけて、やめた。そのかわり、あの人の手を握って、そ
っとわたしのおなかにあてがった。
(「ハナと、ふるい歌」・完)
■Over the ocean(2)
海都歴102年 天牛ノ月
〜 エリアスと、ふるい鍋
「まだ息があるぞ!」
「早く引き上げろ!」
「体をあたためてやれ!」
僕が浜辺に駆けつけたとき、まさに彼らが小さなボートから引きずり出されているとこ
ろだった。村人たちはずぶ濡れになっている遭難者を、毛布でくるんでいる。僕は大声で
問いただした。
「何人ですか!?」
「二人だ」
「男が一人、女が一人。女のほうが危ないぞ、先生! 唇まで真っ青だ!」
「馬鹿ねえあんた、そりゃこの子の髪が紫色だから、余計そう見えるだけさね」
「いいから、火をおこせ! 急げ!」
なかば野次馬の群れと化している村人たちをかきわけて、僕は遭難者たちのもとにたど
り着いた。一人は、がっしりとした体格の、赤毛の男。呼吸は荒く、体は震えているが、
眼光は鋭い。アイパッチをしているのは、片目なのか、それとも彼が船長の要職にあった
のか。
問題は、もう一人だ。
紫の長い髪から冷たい海水を滴らせている彼女は、今まさに死にかけていた。僕は浜辺
に毛布を敷き、彼女を横たえると、ぐっしょりと重く濡れた上衣に手をかけた。力任せに
引っ張るが、水を吸った服は重く、とても裂けそうにない――いや、これはただの服じゃ
ない。おそらくは、戦闘用の軽鎧としての機能を持ってる。僕はカバンからハサミを取り
出し、彼女の喉を締め付けている首周りの布地にその刃を入れようとした。
「――ハナから、手を離せ」
その声は、ややたどたどしく、また力もなかったけれど、一発で浜辺の喧騒を支配した。
もし、深海の底のさらに底から這いでてきた魔物がいるとすれば、そんな声を出しただろ
う。僕は毛布を砂浜に落としながら立ち上がったその赤毛の男の視線を、真正面から受け
止めた。
「彼女は、ハナさんと言うのですね。時間がない、しっかり聞いてください。ハナさんが
着ている服をこのままにしていたら、彼女は凍え死んでしまう。ことは一刻を争うのです。
ご理解いただけましたか?」
赤毛の男はほんの少しのあいだ僕を睨んでいたが、何の前触れもなくその悪夢のような
視線は焦点を失い、がくりと頭を垂れた。
「……失礼した、先生。どうか、ハナを、助けてやってくれ」
僕は頷くと、ハサミを使って彼女――ハナの上着を切り開いた。緻密に編まれたその生
地を切り裂くのはとんでもない力仕事になったが、はっきりとした切れ目ができるとそこ
から先は簡単に刃を通してくれた。ぎぎぃと鈍い音をたてて布地が千切れ、質素なシャツ
に包まれた少女の体が顕になる。その白く透き通った肌に、僕はほんの少しだけドキリと
したけれど、救急救命の現場の緊張感は瞬く間にそんな下卑た思いを吹き飛ばした。
本当はシャツも脱がせたいところだが、これだけの野次馬の前で全裸にするのはあまり
にも忍びないし、そこまで大きな差にはならない。僕は村人の差し出したタオルで彼女の
上半身をよく拭き清めると、乾いた毛布を華奢な体に何枚も巻きつけた。
「先生、スープだ、スープを持ってきたぞ!」
恰幅のいい村長が、湯気のあがる古ぼけた鍋を下げて浜辺に走ってきた。勇漁狩りで一
山あてた彼は、成金趣味がどうにも鼻につくけれど、性根は実直な海の男だ。
「助かります、村長。何のスープです?」
「フカヒレさ。たまたま今朝方、フカがたくさん上がったんでな」
半分くらいの村人が、微妙に眉をひそめた。この地方では、フカ、つまり鮫は縁起の悪
い魚だと思われている。なんでも100年ほど前に発生した大異変の前日に大量の鮫が浜に
打ち寄せられたとか、いや1000年も前からずっと鮫は海豚や鯨同様に不吉な魚だったのだ
(海豚と鯨は魚ではないのだが、そんなことを指摘しても迷信深い彼らには何の意味もな
い)という人もいて、歴史学の徒としては興味津々ではあるが、栄養学的に言えば鮫はた
いへんに素晴らしい食材のひとつであるので、今はそちらを優先すべきだと判断する。
僕はハナの身体を抱えると、青紫に揺らめく瞳をのぞき込んだ。
「ハナさん? 聞こえますか? 聞こえたら、瞬きができますか?」
ぱちり、と彼女の瞳が閉じて、開く。長いまつげが優雅に踊った。
「オーケー、暖かいスープがあります。飲めますか?」
反応がない。僕は同じことを、言葉を変えて繰り返す。
「フカヒレのスープです。飲んで、身体を温めないと、あなたは危険なんです」
微かに、首が傾いだ。僕は同意のサインと解釈して、暖かなスープを匙で掬うと、ハナ
の青ざめた唇に慎重にあてがった。本当ならもっとちゃんとした治療をすべきなのだが、
こんな僻地の離島では、このスープが飲めないなら、死ぬしかない。南の海では、自然は
過酷で、人間はあまりにも脆く、社会はどこまでも貧しい。
彼女の唇が、震えるように動いた。僕はそっと匙を傾ける。フカヒレのスープのほとん
どは口の端から頬を伝って喉へと流れ落ちてしまったが、数滴が口のなかに入った。とた
んに、小さな体が弱々しく震え、けほん、けほんと咳き込む声が浜に響く。悪くない。死
が確定した人間は、たったこれだけの反応すら返さなくなる。
僕はもう一掬い、匙でスープを取って、彼女の唇に持っていく。今度は、彼女は自分か
らその滴を啜ろうとし、そうしてまたむせた。
「落ち着いて。あわてないで。ゆっくり、ゆっくり飲んで」
三匙めになって、彼女はようやくスープを嚥下した。毛布越しにも、少しずつ体温が戻
ってきているのを感じる。何があったかは分からないが、彼女の若い身体は、まだまだ生
を望んでいるのだ。
四匙めまでは僕が匙を差し出していたが、五匙めになって彼女は毛布の下から震える手
を伸ばした。僕はその細い指に木の匙を持たせようとしたけれど、彼女はすぐに匙を取り
落とした。あまりにも予測通りだったので、匙が砂浜に落ちる前に僕がキャッチしたけれ
ど。
ハナはうつろな目をしたまま、僕が差し出すスープを飲んだ。時折、咳き込みながら、
時折、吐き出しながら、気がつけばティーカップに半分くらいの量を消化していた。彼女
が実際に吸収したのは、そのまた半分程度だろうけれど、とりあえずはそれだけ飲めれば
十分だ。あとは、もう少し落ち着いた場所に動いて、急変しないかしっかりと見届ける必
要がある。
そんなことを思いながら、僕は彼女が求めるままに、スープを与え続けた。整った眉、
すっと通った鼻梁、ちいさな唇。控えめに言って、彼女はとても美しかった。どこか現実
のものではないかのような、孤独な美しさ。
その唇が、微妙に動いた。僕はあわてて耳を寄せる。
「――おいしい」
思わず、笑ってしまいそうになる。彼女の最も近くにいるのは今なお死神だというのに、
彼女はそれでも生きようとしている。
耳ざとく彼女の声をききつけた村長が、自慢げに笑って彼女に告げる。
「これはフカヒレっていうのさ。特別さ、助かったんだからね」
その言葉を聞いて、僕の腕の中で、ハナの身体が強張った。
「――なんて、いったの?」
村長はやや怪訝な顔をしながらも、朗らかに答える。
「特別だって言ったのさ。作るのに手間がかかるんだぜ、こいつは。おまけに、売ると偉
くいい値段になる」
「違う。なんの、スープって、いったの?」
「フカヒレ、フカの、ヒレだよ」
みるみる、彼女の顔から血の気が引いていく。毛布の下の身体は、ガタガタと震えてい
た。何が起こった? 急変? いや違う、彼女は興奮している。いったい、何に? フカ
ヒレ? そんな馬鹿な。
毛布にくるまれたまま、彼女はゆらりと立ち上がった。ありえない。そんな体力なんて、
どこにも残っていないはずだ。彼女を止めなくては。今すぐ。
そう思ったけれど、ハナの顔を見た僕は、思わず凍りついた。
彼女は、笑っていた。
そうだ。笑って、いたのだ。
そうして、ハナは、ゆらゆらと上体を揺らしながら、言った。
「フカヒレは、こんな味、しないわ」
そうして、ふっつりと糸がきれた操り人形のように、彼女は砂浜に崩れ落ちた。浜辺は、
もう一度慌ただしくなった。
僕は矢継ぎ早に指示を出しつつ、あの赤毛の男がずっと僕を見ている、その視線を感じ
ていた。彼は、何者なのだろう? 彼女は、何者なのだろう? そんな疑問が、僕の心の
中を渦巻く。地獄の奈辺を歩んでいるかのような目をした男と、紫水晶で作ったかのよう
な少女。いったい、彼らはどこで、何をしてきたのか?
ハナが体調を取り戻すまで、しばらく時間がかかった。彼女はしばらくのあいだ錯乱し
続けていて、まったく食事を受け付けようとしなかった。僕は根気よく彼女を説得し、彼
女が何と言おうが胃は食物を求めていることを指摘し、砂糖水から始めて、なんとか野菜
のスープにたどり着き、いまようやくパン粥に到達して一安心したところだ。
もう一人の患者のほうは、あっとういうまに回復した。そもそも彼は、栄養状態からし
てかなり良好だった。脱水症状と重度の栄養失調に苦しんでいたハナに比べ、彼はとても
ではないが二週間近く海上を漂った人間とは思えないほどの健康体だったのだ。
もっともハナにしても、そんな長期の漂流を体験したとは思えない健康状態だったのは、
否定できない。おそらく、彼らのあいだには、言葉にしてはならない秘密があるのだろう。
長期間の漂流を体験した水夫が、しばしば共有するような、秘密を。
だが、本当にそれだけなのだろうか? 僕には、とてもそれですべてを説明できるよう
には、思えなかった。
だから、彼が深夜に僕の部屋を訪ねてきたときも、僕は机に向かってしかめっ面をして
いるところだった。
赤毛の彼――名前はQと名乗った――は、僕の勧めを無視して、扉の近くの壁にもたれ
るように立っていた。ろうそくの薄明かりのなか、精悍な光を宿した双眸が、僕を射ぬく
ように見ている(彼のアイパッチは、やはり暗順応用のものだった)。
なんとも気まずい沈黙が続くなか、やむなく僕が口火を切る。
「――何か、御用ですか?」
Qは僕の問いかけを完璧に無視して、ただ、僕を見ていた。そうして、唐突に口を開く。
「お前、ハナが欲しいか?」
僕はあまりにとっぴょうしもない問い掛けに、すっかり動揺してしまう。
「……えっ?」
Qは、再び僕を完璧に無視して、言葉を継いだ。
「やるよ。いつでも」
僕はただ、黙りこむことしかできない。彼女のことは、美しい人だと思う。それなりの
年齢に達している男として、あの浜辺で見たしどけない姿に、僕の劣情がかきたてられな
かったかと聞かれれば、そりゃあノーと言えば嘘になる。
「――やる、とか、欲しい、とか、待って下さい、あなたはいったい、いや、あなたとハ
ナさんは、どういう関係なんです」
あの浜辺からこのかた、Qは初めて僕の顔を正面から見た。
「難しい関係じゃあ、ないさ。俺は、あいつの父親だ。義父だが。あいつは孤児だった。
俺がひきとった。今まで、俺があいつを育ててきた。だがどうやら、俺のほうが、あいつ
に寄りかかって生きていた。
だから俺は、あいつに生きていてほしかった。どうしても口にしようとしなかった肉の
ことを、フカヒレだと騙して食わせてでも」
僕はQの表情を読もうとして、どうしても果たせなかった。彼が嘘をついているように
は、見えない。彼には年齢不詳なところがあるが、医者の直感でいえばハナの実父だった
としてもおかしくないくらいの年齢だ。そうして、彼の着ている衣服の上等さを見れば、
義父になるだけの経済力を持っているのも分かる。それでも、僕には強い違和感が残った。
こうして改めて相対してみて痛感するのは、彼は「まっとうではない」ということだ。
正常、異常という範疇で、彼を判断することはできない。もしそういう区分をするなら、
彼は完璧なまでに正常な人間であっただろう。
彼を、その尺度で測ることは、不可能だ。
彼は――彼は、ここにいるけれど、いない。僕は、どうしても彼の存在を、実感として
理解することができない。彼は、あまりにも虚無だった。うつろな、穴。何もかもを飲み
つくす、漆黒の闇。
僕は、痺れる心に鞭をうって、Qに言葉をぶつける。
「あなたは、どうするんです」
「すまんが、結婚式には出席できんな」
「そんなことではなく」
「俺は、あいつの手紙を拾ったんだ。ビンに詰められた手紙を。助けてくれ、と書いてあ
ったあの手紙を。だから助けた。それだけだ。それだけだったんだ」
「……えっ?」
Qの口元が、暗闇のなかで歪んだ。
「驚きの多い人生を送ってるな、若人。こんな短時間に、『えっ』が2回だ」
「茶化さないで下さい」
「馬鹿にしてなど、いないさ。驚きってのは、いいものだ。人生の刺激になる」
そうして、またしばらく、彼は黙っていた。黙っていたが、やがて、壁から背を離す。
「俺は、この島を出る。助かった。感謝する」
「……えっ?」
僕はバカみたいな顔で、Qを見つめた。
「こいつを置いていく。しかるべき筋に売り払えば、それなりのカネになるはずだ」
Qは、鈍い銀色に光る金属塊を懐から取り出すと、本棚の隙間に置いた。
「……お金の問題では」ない、と言いかけたが、Qが素早く遮る。
「カネの問題だ。もう、それだけの問題でしかないんだ」
「ハナさんは」
「言ったはずだ。お前に、やる」
そうして、Qは夜の闇へと消えていった。おそらくは、夜の漁に出る漁船をつかまえて、
アーモロードにでも出ようという腹だろう。危険な旅だが、ここらの漁師であれば、臨時
収入のチャンスは逃すまい。
僕はあわてて椅子から立ち上がりQの後を追ったが、彼の姿はそれっきり見つからなか
った。
翌朝、僕はハナの病室を訪ね、彼女の体調が順調に回復しているのを確認し、彼女に朝
食を食べさせてから、Qがこの島を去ったことを告げた。
数秒のあいだ、彼女は自分が何を言われたのか、理解できなかった。
その整った唇が、小さく、「うそ」、と呟く。
何度も。
何度も。
気がつくと、ハナは幽霊のように立ち上がってふらつく足で港を目指して歩き始めてい
て、僕は少しずつ春の日差しへと変わりつつある太陽の光のなかで突然彼女が消えてしま
わないことを祈りながら、彼女のあとを追っている。
港には一艘の船もなく、彼女は小さな足取りを、あの浜辺へと向ける。そうして、長い
時間をかけて砂浜を素足で歩いた彼女は、ゆるやかな波が打ち寄せては引いていく海の向
こうを見つめつつ、まるで祈るように両膝をつき、それから白い砂のうねりのなかに紫の
頭を埋めた。
嗚咽が、波の音と混じり合う。
「おとうさん」
彼女は、確かに、そう言った。
「おとうさん」
「おとうさん」
そう言って、彼女は、泣き続ける。
(「エリアスと、ふるい鍋」・完)
■Over the ocean(3)
海都歴102年 笛鼠ノ月
〜 マリアと、あたらしい問い
「不運」というものは、ひとつふたつが重なるから不運なのではない。ありえない運の組
み合わせと、些細なミスの連鎖。この類まれなるハーモニーが、不運と呼ばれる。そして
私たちはいま、その不運の絶頂にあった。
そのとき私たちは、北海の探索を進めていた。航海は、順調だった。フォアマストに風
を受け、カルバリン砲の整備もよく、私たち5人と雇われ水夫48人の総勢53名は、ユリ
シーズ号での航海を楽しんでいたとすら言えるだろう。ハナはいつもどおり船酔いと粗食
に耐えるばかりで、とても楽しんでいたようには見えなかったが――それでも最初の頃に
比べれば、コクゾウムシが荒らした乾パンだって食べるし、足の生えた干し肉も新鮮な魚
さえあれば口にするようになっただけ、航海には順応してきていた。
トラブルは、誰にも予想ができない形で訪れた。風に恵まれ航海を続けていた私たちは、
突然自分たちが猛然と荒れる海に投げ出されたことを知った。誰一人(占星術師であるハ
ナも含めて)、嵐の予測などできていなかった。それどころか、観測員ですら「気がつい
たら嵐の中にいた」以上の報告ができなかった。
私たちは激しく傾ぐ船を必死で操りながら、海域からの脱出を試みた。だが嵐はひどく
なる一方で、絶え間ない浸水に船体は大きく喘いだ。そして、ついに主船倉への浸水を許
してしまい、急いでポンプで排水はしたものの、火薬の多くを湿らせてしまった。
修羅場と化した甲板では、Qが声の限りに指揮を飛ばしていた。こんな状況でも、普段
と何一つ変わらぬ様子で指揮をとり続ける彼のことは、やはり尊敬に値する。そも、かつ
ての彼は「HMS」を冠する船の一隻を指揮していたのだ。こんな小さなスループの船長を
務めていていいような人間ではない。
けれど、ひとつの悲鳴が、水夫たちのモラルを崩壊させた。
「老人だ! 海の老人だ! もうダメだ、俺たちはもうダメだ!」
海の老人。それは、北海に伝わる悪夢の伝承だ。嵐の中心で筏のような板の上に悠然と
座るその老人を見た者は、決して帰れない。
パニックはあっというまに伝染し、少なからぬ水夫がその場にへたりこんでしまった。
帆船の航行は、チームワークの勝負だ。何人かの士気が軒昂であっても、大多数の士気が
崩壊してしまったいま、ユリシーズ号が海の藻屑になるのは既定事実となりつつあった。
だが、Qはまったく動揺をみせなかった。彼は見張員に「海の中に老人の姿を見たか」
と問いただし、見張員は動揺しながらも「ノー、サー!」と大声を返す。それから操舵手
にも同じ質問をし、同じ返答を得た。
そうして彼は、20度近く傾ぐ甲板の上をごく普通に歩くと、最初に「海の老人だ」と叫
んだ水夫のもとにたどり着いた。
「海の中に、老人の姿を見たか?」
その声は、大きくはなかったが、甲板にいた全員の耳に届いたと思う。
Qに面と向かって問いただされたその水夫は、しどろもどろになって、頷き、また首を
横に振った。
「もう一度聞く。海の中に、老人の姿を見たか? この嵐のなか、老人が漂流しているな
らば、我々は救助に向かわねばならない。答えろ、老人はいたのか? いないのか?」
水夫は口をパクパクさせ、呆然とQを見上げるだけだった。
Qは腰から剣を抜き、その水夫の首を刎ねた。血があたりを汚し、Qも返り血に染まる。
水夫の頭と体は、すぐに波の中へと飲み込まれていった。
「流言蜚語を成す者には、俺が裁きを下す。答えろ、老人を見た者はいるか?」
水夫たちは顔を見合わせ、もごもごと「ノー、サー」と声を合わせる。
今度こそ、Qは怒鳴った。
「答えろ、老人を見た者はいるか!」
「サー、ノー、サー!」
水夫たちは絶叫するように唱和し、一斉に立ち上がった。未知の恐怖は、既知の恐怖の
前に敗北したのだ。
「ハード・スターボード! 波をかぶせられるな!」
Qが叫ぶ。
「立て犬ども! 貴様らは二度死ぬつもりか! 動け、動け、動け!」
もし、それだけだったならば、こんなことにはならなかっただろう。
私たちは、荒れ狂う海のなか、もう老人の姿を見ることはなかった。
けれど、見張員の絶叫が、懸命に嵐と戦う私たちの心を挫く。
「艦首風下、武装船舶! 海賊船です!」
あの瞬間、私たちがすべてを投げ出さなかったのは、ひとえに奇跡のようなものだ。
ほとんど全員が――私も含めて――あのとき、覚悟を決めたと思う。
そうして、こんな辛い思いをしながら死ぬくらいなら、いっそここで楽になってしまい
たいという気持ちに、負けていただろう。
でも、その瞬間、激しい雷鳴がとどろいた。
雷はごく間近の波頭を直撃し、轟音と閃光が大気を支配する。
そうして、真っ白に染まった世界の中、私たちは、Qが笑っているのを見た。言葉にし
難い、壮絶な笑みを浮かべているのを。
たぶん、私たちは狂っていたのだろう。
私はあり得ないくらい落ち着いて、近くで一緒に索具を引いていたエーリカとリヒャル
トに、戦闘準備に入るよう叫んだ。彼らは私たちが迷宮探索に勤しんでいたころからの仲
間で、どちらも優れたバリスタ使いだ。カルバリン砲は、おそらくは一斉射するのが精一
杯だろうが、それでも彼らの砲撃センスは頼りになるし、ハッチから下の指揮系統を維持
する役にもたつ。
マストに体を縛り付けられているハナ(これが一番安全なのだから仕方ない)にも、声
をかける。彼女の星術は、火力の差を埋めてくれる可能性がある。彼女は紙のように真っ
白な顔をしていたが、こくりと頷いた。
Qは、普段どおりの不敵な表情に戻っていた。矢継ぎ早に操舵の指示を出しながら、な
んとか有利なポジションをとろうとし続けている。海賊船もこの嵐を持ちこたえるので精
一杯のようだが、海賊討伐旗をはためかす私たちユリシーズ号を見逃すことはあり得ない。
私たちは、間違いなく、狂っていたのだ。
そうしていま――私は、死につつある。
あの海での記憶は、どこまでもとぎれとぎれで、曖昧だ。いまの私にあるのは、どこか
らともなくこみ上げてくる笑いと、いくつかの後悔。それだけ。突き抜けるような青い空
の下で、私の思いはじんわりと歪み、ねじれ、不協和音を奏でる。
Qと操舵手が、大声で作戦を検討しているのが聞こえた。
Qは「この状況を打開するには接舷戦闘しかない」と言い、操舵手は「旦那そいつはキ
チガイ沙汰だ」と返す。でも、二人とも笑っていた。Qは笑いながら操舵手の頬を軽く張
り、操舵手は笑いながら足元に唾を吐いた。
海賊船から耳をつんざく轟音が響き、一瞬の間をおいてユリシーズ号の周囲に水柱がい
くつも立つ。狙いは無茶苦茶のように見えたが、そのうち一発がミズン・トプスルを引き
裂き、その衝撃でミズンマストに登っていた水夫が絶叫しながら海へと投げ出された。彼
が海に落ちた音は、誰の耳にも届かなかった。
Qの見事な波の見切と、操舵手の卓越した技量のおかげで、私たちは海賊船に肉薄しつ
つある。手のあいた水夫たちがブルワークに出てきて、手に手にカトラスや槍を構えてい
る。そのとき再び海賊船の砲列が火を吹いた。大きな波のうねりのなか、ほとんどの砲弾
は狙いがそれたが、一発が艦首の真下付近を直撃する。あのときの雷鳴のような音が響く
と、甲板が内側から破砕されて、致死的な速度で木の破片がいくつも舞った。
私は盾を動かして、星術の集中に入っているハナを舞い散る木片から守ったけれど、そ
のうちの一欠片が頬に張り付いた。集中を途切らせるのがイヤで無視したかったが、あま
りに気持ちが悪いのでぬぐい落とす。木片にはべっとりと血と臓物がこびりついている。
船首部にいた不幸な水夫の残骸だろう。
甲板には、続々と水夫が獲物を手に集結している。「貴様ら、船倉の排水はどうした」
とQが叫び、水夫のひとりが震える声で「間に合いません」と答える。「間に合わなかろ
うが、排水するんだ。戻れ、今すぐ持ち場に戻れ!」「もう、不可能です。船倉は封鎖さ
れました」
それで、Qは黙り込んだ。迅速に、水夫たちを配置につける。
船倉の封鎖は、外からはできない。誰かが、内側から閉鎖機を動かす必要がある。残酷
な仕掛けだが、それが「最も被害が少ない」のだ。では、誰が?
答えはひとつしかない。私はリヒャルトの顔を脳裏に浮かべようとして、どうしてもう
まく思い出せない自分に慄然とした。私の脳は、自分がいまを生き延びることに直結しな
い情報を、排除しようとしている。
ハナの星術が完成し、雷雲の引き裂いていくつもの隕石が降り注ぐ。だが、命中精度は
低い。こんな状況で命中弾があるほうが奇跡だろう。それでも、海賊船がひるんだのは明
白だった。ひるんだことが、海賊たちの表情に見える。それくらい、ユリシーズ号と海賊
船は接近しつつあった。
メテオの投射にあわせるように、ユリシーズ号が片舷斉射を行う。猛然と煙がふきあが
り、燃焼不良を起こした硝薬の粒が顔を焼く。それとほとんど同時に、海賊船も斉射を行
った。私は盾を構え、飛来する散弾からハナを守る。
煙が晴れたとき、操舵手がいた空間には、何もなかった。何も。
二隻は激しい軋み音を立てながら、接舷する。再びハナのメテオが完成し、今度は正確
に海賊船を襲った。甲板に上がってきていた海賊たちは、あるものは岩石の直撃を受けて
即死し、あるものは豪雨のなかで火だるまになって焼け死んだ。メテオは次々と甲板を貫
通し、そのうち一発が海賊船のカロネード砲を直撃した。轟然とした火柱があがり、人と、
人のパーツが、人形のように舞い散っていった。
それを見ても、私は「ざまあみろ」としか思わなかった。ざまあみろ。
次の瞬間、体が軽く宙を舞った。内臓を直接ぶん殴られたような衝撃が走る。海賊船が、
密着状態で側舷からの斉射を行ったのだ。再装填が、速い。この海賊たち、相当な練度だ。
ユリシーズ号のメンマストは根っこから折れ、海賊船へと倒れ込んだ。マストとマスト
が絡み合う。もう、私たちの双方に、生き延びるすべはない。ユリシーズ号はまもなく沈
み、海賊船はユリシーズ号の乗組員を排除できないまま、ユリシーズ号に巻き込まれて沈
むだろう。そのことはおそらく誰もが理解していたけれど、ただのひとりとして殺し合い
を止めなかった。止めるはずがない。
私たちは、狂気のレースをしている。
私が海賊船に乗り込もうとすると、再び轟音と衝撃が響き渡った。海賊船は、ユリシー
ズ号をカロネード砲の威力で分解しようとしている。Qは海賊船の甲板で複数人を相手に
渡りあい、私は盾で海賊を海へとたたき落とし、マストに登った敵兵を槍で刺殺した。戦
闘は、海賊船の甲板と、ユリシーズ号の甲板の、両方の上で続いていた。
と、そのとき、海賊船の甲板の上に設置されていたカロネード砲が、ゆっくりとこちら
を向き始めた。まずい。あれは、まずい。
ハナを、守れるだろうか? 大砲の一撃から?
無秩序な笑いがこみあげる。
なぜ、私はハナを守ろうとしているのだろう。
私とQは、かつて恋人だった。Qは、私にとって最初の男でもある。
けれどある日、Qはハナを連れてきた。
そうして、私たちの関係は、自然に消滅していった。
やがて、ある事件が起きて、Qとハナは私の前から姿を消した。
いまこうやって一緒に戦っているのは、私が彼らを追ったからだ。
あの事件の第一容疑者である、彼らを。
だのになぜ、私はハナを守ろうとしているのだろう?
私は笑いながら、盾を下ろした。
でもそのとき、流れるような黒い長髪が、私の横を駆け抜けていった。
「馬鹿野郎、なにボサっとしてんだよ!」
そう叫んだエーリカは、巨大なバリスタを掲げ、カロネード砲に素早く照準する。
私は咄嗟に、盾を掲げ直した。
世界が光に包まれ、音が消えた。
次に私が世界に戻ってきたとき、戦いは終わりつつあった。どちらが勝とうとしている
かはわからないが、戦闘騒音が小さくなっている。どちらが? 阿呆らしい、両方負けに
決まってる。
私は、自分が大量に出血しているのを意識したが、どうにもできない。見ると、左手が
盾ごともぎ取られていた。いや、私もなかなかじゃない? 左手一本と、カロネード砲の
砲撃を交換なんだから。
そんなことを思って、ふと横をみると、床に広がる黒い長髪が目に入った。
私は荒い息をつきつつ、本能的にエーリカを助け起こそうとする。
その必要は、なかった。エーリカは、首しか残っていなかったから。
私が、砲撃を止めたんじゃない。
エーリカの前陣迫撃砲術がカロネード砲を撃ちぬいて、私はその爆風の余波を止めただ
けだったのだ。
……そうして、帆布で左手を包まれた私は、眩い日差しの下、死の影に抱かれている。
救命ボートには、Qとハナ、そして私だけが乗っていた。
水はなく、食料もない。
私たちは、やがて、死ぬだろう。早いか、遅いかの差は、あったとしても。
私は、込み上げ続ける笑いに抗いながら、自分に残った僅かな後悔を探す。
そうして、その後悔のかけらを足元に並べて、最後の時間を待つ。
ふっと、Qが私をのぞき込んでいるのが見えた。
何かを喋っているのはわかるが、何を言っているのかは分からない。
だから。
だから、私は、あらん限りの体力をかき集めて、足元の後悔からひとつだけ拾い上げる
ことにする。
ふたつは、もう、無理そうだったから。
けれど、喉の端まで出かかったその後悔を、私は飲み込んだ。
代わりに、聞かねばならなかったことを、聞く。
「Q――あの人を、殺したのは――あなたなの?」
言いながら、意識が遠のいていくのを感じた。視界のなかのQは、微動だにしない。Q
は、最後まで、Qだ。彼もまた、マリアは最後までマリアだったと思っているだろう。
世界が暗くなっていく。
さよなら、世界。さよなら、Q。
やっぱり、聞けばよかったね。
あなたが好きなのは、ハナ? それとも、私?
(「マリアと、あたらしい問い」・完)
■Over the ocean(4)
海都歴101年 風馬ノ月
〜 エーリカと、あたらしい船
「さて、皆様お手元はよろしいでしょうか! えー、本日はお日柄もよく、見事我らがギ
ルドが第4階層に入りましたことを祝しまして、ぱーっといきましょう!」
あたしはハイテンションを演出しながら、高々と酒坏を掲げる。羽ばたく蝶亭は一気に
盛り上がって、乾杯の声があちこちで響いた。いいけど、君らの飲み代は君ら持ちだから
ね? わかってると思うけど?
「パーッとイクがいいデショウ! イザノメ ボウケンシャ!」
ママさんも煽ってるけど、一言も「奢りデス」とは言ってないよね。怖い怖い。
ま、ハイテンションを演出はしてみたけど、うちらのギルドの飲み会ってのは、なんと
も地味でたまらない。つか飲みたいのあたしだけじゃん、的な。なにしろリーダー的存在
のQ船長はハナちゃんの保護者モードで盛り上がりようもないし、ハナちゃんはってーと
これがどーにも内気系なもんだからこれまたぱっとしない。ハナちゃん可愛いから苛めち
ゃいたいんだけど、すぐ本気にされちゃうし。
でもって、マリアさんはってーともう真面目一辺倒で、ハナちゃんですらお酒舐めてる
ような席になってすらオレンジジュースしか飲まない。もー、鎧も硬いは性格も固いは
ガードも固いわで、何が楽しくて生きてんのって聞きたくなるくらい。聞かないけどさ。
じゃあ最後のリヒャ公もといリヒャルトさまはってことになると、これがまたホント何
が楽しくて生きてるんだかさっぱりわかんない。今も乾杯でビールのグラスをあけたが最
後、ずーっと右手にミネラルウォーター、左手には本。なんなのこのギルド。禁欲ギルド
だなんて聞いてなかったんだけど。
でもって、あたしが一人寂しく酒をかっくらってると、いきなり船長がとんでもないこ
とを言い出しやがった。
「突然ですまないが、提案がある」
「なんでしょ船長」
「迷宮の探索は、これっきりにしないか」
……へ?
ハナちゃん以外の3人も、さすがに凍りつく。
凍りついてばっかりもいられないので、あたしは恐る恐る聞いてみる。
「えーっと、それはその、このギルド解散ってか、あたしらクビって、ことです、か?」
あたしとリヒャ公は、このギルドにとってはどっちかっつうと部外者だ。もともとなん
かの縁で一緒にいるのがQハナマリアの3人で、3人だといろいろきついよねってことで
雇われたのがあたしら。つか雇われてみたらヒーラー系の人がひとりもいなくてちょうビ
ビったんだけど、でもなんだかんだであたしらは深都までたどり着いて、その先もボチボ
チ行動範囲を広げてる。最近は深都の技術とやらのおかげで、実戦投入できるくらいの状
態にあるワザも増えてきてて、非癒し系だったうちのギルドもだいぶ無理せずに冒険でき
るようになってきてるんだけど、中止ですか。中断ですか。
船長は黙って首を横に振った。
「あくまで、俺の意見なんだが……これ以上は、どうにも政治の匂いが強すぎる。そう思
わんか?」
あたしはマリアさんの顔を見て、リヒャ公の顔を見て、それからハナちゃんの顔を見て、
マリアさんとリヒャ公が微妙に頷いてるのを確認した。ふうぬ。
「もう、ただ冒険していればいい、というわけではありませんね……」とマリアさん。
「『どっちの味方だ』ってのは、自分としては好みじゃないですな。ハメられたも同然っ
て状況は、両方から受けてきたことですし」これはリヒャ公。
ハナちゃんはカルーアミルクをちびちび。
3人の視線が集まったのを感じて、あたしはちょっと眉をひそめる。
「そう、ですねえ。うーぬぬ。でも、冒険しないってんなら、何するんです? それこそ
わりと政治政治した世界に両足突っ込んじゃうんじゃないです?」
「海に出ようと思う。俺が船長をやる。マリアは、昔は俺の同僚だった。二人は、海兵を
やった経験は?」
「あたしゃ全然。つか女の水兵募集なんて聞いたことないですよ船長。ハナちゃんの前じ
ゃ言えない類のサービスが前提になってるやつ以外は」
「自分は、多少なら。カルバリン砲の砲手をやったことがあります」
「かるばりんほう?」
「大砲」
「ふーん。ま、やれって言われりゃ、何でもやりますよ。あーでもロープの結び方とか大
変そうだなあ。いえ、おぼえますよ。酔ってないときに」
「教えるさ。ハナも、勉強してくれ」
突然話をふられたハナちゃんはぴょこんと姿勢をただしたけれど、すぐにカルーアミル
クを舐めとる作業に戻った。大丈夫なんかなあ、この子。いやまあ、占星術師としての腕
前はたいしたものだし、それに――ああ、いや、その話は、また今度。
あたしはグラスの中をほとんどカラにしてから、いいんじゃないですか、と言ってみる。
「なんかあのクジュラってのにへいこらするのも微妙だし、かといって盗んだ馬で走り出
すみたいな青春をいまさら追求する気にもなれませんし。航路の開拓は別件で依頼されて
ますしねえ」
「決まり、だな」
「一応確認しましょうか? はい、反対のひとー。ゼロー。つーことで決定ですね」
「すまんな。俺の我侭につきあわせてしまって。迷宮の冒険を続けたいって希望があれば、
二人にはどこかギルドを紹介できるようにする。遠慮せず言ってくれ。二人なら、嫌だっ
ていうギルドもまずあるまいよ」
「あっは、あたしはいま生涯で一番稼がせてもらってますんで、まだまだ船長についてい
きますよ。嫌だって言われても、しがみつきますとも」
「……Q、あなたが凄腕の海兵で、軍船の指揮官としては若手のエースだったってことは、
自分でも知っています。あなたの技術を、盗ませて頂きたい。それでいいなら、自分を雇
って下さい」
「いいだろう。なら、改めて乾杯、かな」
「ですねー。そんな派手に音頭を取るような話でもないんで、この場で小さく、乾杯って
ことで」
「乾杯」
あたしたちは、手に持ったグラスをカチンとぶつけあった。
1時間ほど飲んで、ハナちゃんがおねむになってきたので、会はお開きになった。なん
つー所帯染みた宴会だ。あたしは彼女ほど燃費が良くない――カルーアミルク2杯で目が
とろんとするって、どんだけ効率いいんだ。それはそうとしてハナちゃんが飲みとなると
カルーアミルクに拘るのは、やっぱりあたしがいい加減なこと言ったからだろうか。いい
かハナちゃん、貧乳はステータスなんだぞ?
おっと、話がそれた。要するにあたしは呑み足りなかったので、ママにあたしのキープ
ボトルを出してもらって、それを片手に浜辺で外飲みすることにした。ママの店で飲んで
てもいいんだけど、女が一人で飲んでるといろいろウザいんだこれが。
浜辺のお気に入りの場所に陣取って飲んでると、ちょくちょくカップルどもが前を通っ
たり通ったり通ったり帰ったりする。ウゼえこのリア充ども爆発しろ班長撃墜していいで
すか許可する、とか思うほどオトナゲなくはないので、若いっていいわねぇオホホとかい
う感想を上書きしておく。
そうやって上書きしながらホワイトラムをボトルからラッパ飲みしていると、いきなり
声をかけられた。
「エーリカ。ここだったか」
珍しい、リヒャ公じゃない。
「今日のQの提案の件で、お前とも相談したくてな……。いい場所じゃないか。人目につ
きにくいわりには、開けた射界が取れる」
「ここから狙撃するような予定はないんだけどね。座んなよ」
「邪魔する」
リヒャ公はどっかりと砂浜にあぐらをかいた。あたしは黙ってラッパ飲み。
「Qの提案に、お前は納得していないように思えた」
「そんなことないよ」
「正直に言わせてもらえば、いまのチームで俺が一番信用できるのが、お前だ。マリアは、
理に走りすぎるところがある。Qは、得体が知れない」
「ハナちゃんは論外。でもね、ホント、あたしとしちゃ不満はないよ」
リヒャ公は溜息をつくと、少し口を閉じた。
「――エーリカ。お前は、なぜこの仕事をしてるんだ」
「カネの問題。体を売るよりはずっとマシな仕事だし、こいつが」――言いながらあたし
は右手の人差し指を伸ばす――「なかったら、あたしは体を売るくらいしか売り物がない。
簡単なことじゃん」
「お前の歌は、たいしたものだと思うがな」
あたしは、しかめツラになるのが抑えられない。だから、ラムを呷った。
「勘弁してよ。あんな素人芸で食ってけるほど、甘くないって」
リヒャ公は、標的に照準するときの目で、あたしを見た。
「士気回復をもたらす歌。代謝を活性化させる歌。あまつさえ、大気中のエーテルを操っ
て武器に自然精霊の力を与える歌。それのどこが、素人の芸だ?」
あたしは、無言でラムの瓶を傾けた。
たぶん、いつものあたしだったら、リヒャ公を一発殴って、この場を去っただろう。で
もその夜のあたしは、ちょっとだけ変だった。良くない酔い方をしていたのかもしれない。
そうじゃなきゃ、もっと別の理由があったのかもしれない。
「あれは、素人の芸、さ」
「本来であれば、王族の血を引く者にしか使えない技のはずだ」
「まあね。あたしも、血統だけでいえば、そのスジの人間だもの。でも、それだけのこと
さ。ここらじゃ、国なんてアブクみたいにできては消えてを繰り返してる。『王族』だな
んて、いくらでも見つかるよ。大安売りできるくらいだ」
「なぜそんな人間が、弩を引く。いくらでも――」
あたしはカッとなって、リヒャ公を睨みつけた。
「これが、あたしが受け取った最初の武器だったからさ! あたしはね、9歳の誕生日か
らずっと、そうやって生きてる。体を売るより冒険者稼業のほうがマシだと思うってのは、
本当にそうだからさね! ああ、本当にそうさ!」
リヒャ公は、黙ってあたしを見ている。
「ペド野郎の臭いチンポを、ケツの穴にねじ込まれるのがどんな気持ちか、あんたにわか
るか? 性病にかかりませんように、妊娠しませんようにって祈る惨めさが、あんたにわ
かるか? さんざん客どもにマワされたあと、マンコのなかに小銭をつめこまれて、良か
ったこれで今夜は残飯を漁らなくていいと思う生活が、あんたにわかるか!?
それくらいなら、あたしは冒険者を続ける。驚くようなことをするのは、バケモノじゃ
ない、いつだって人間さ。あたしの体に流れてる、このクソ役立たずな王族の血とやらが、
ちょっとでも何かの足しになるなら、あたしはそれを使ってあたしの商品価値を上げてや
る。人間の世界で生きてくのには、それが一番だからね。
あたしはね――あたしは、ラッキーだったんだよ。病気にはかからなかったし、妊娠も
しなかったし、殺されもしなかった。あたしたちみたいなガキどもを兵隊に使ってた連中
が胡散霧消しちまったあとも、あたしはなんとか生き延びられた。何より、あたしの『初
めて』は、クロスボウだった。そいつがマチェーテじゃなかったのは、きっと、幸運なこ
となんだ!」
言いながら、どんどん後悔が募った。こんなことを言ったところで、何になるっていう
んだ。でも、止められなかった。膿んだ傷口から腐った肉汁が流れていくみたいに、あた
しの口は毒を吐き散らし続けた。
そのとき、リヒャ公が口を開いた。
「俺の『初めて』は、スコップだった」
あたしは、とてもとてもあたしらしくもなく、絶句した。
「カラスって言って、わかるか、エーリカ?」
咄嗟に、何を言われたのか分からない。あ、でも、もしかして。
「それだよ。俺の国の王子様は、故郷じゃ天才扱いで、アーモロードの学術院に留学まで
した。でも王子様は、そこで自分がそんなに大した人間じゃないってことに気がついちま
った。気がついちゃ、いけない事実だった。
国に帰った王子様がやったことは、てめえのオヤジとお袋をぶち殺して、親政を始める
ことだったよ。『腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない』ってな。立派な、立派
なキチガイだ。
だが、キチガイってのは、カリスマと勘違いされやすい。王子様は、大人気だったさ。
黒シャツを着た親衛隊が勝手にできあがって、王子様がお望みの政治を実行していった。
そいつらが、いわゆる『カラス』って連中さ」
「――聞いたこと、あるよ。国の人間の3割くらいを殺したって」
「3割ってのは、適当な数字だ。正確な数字は、誰も知らない。
俺の両親はね、学校ってか、そこまで大げさじゃないが、近所のガキどもに読み書きと
か算数とかを教えてた。家は本で一杯だったな。そこにある日、カラスどもがやってきて、
『国王陛下の命令により、虚偽の教育を行う犯罪者に裁きを下す』って具合さ。ああ、い
や、すまんエーリカ、そいつを俺にもくれないか」
あたしは、おずおずとラムのボトルをリヒャ公に手渡した。彼はラムを胃袋の中に流し
込む。その姿は、あまりに痛々しかった。
「リヒャルト。ごめん、あたしが悪かった。あたしだけが世界の不幸のどん底にいるみた
いな恥ずかしいこと言っちまって、ほんと、ごめん。なんかあたし、今日、変だわ」
「いいんだ。俺だって同じことをしてる。だがな、俺は、そろそろ誰かに聞いてほしいん
だよ。
さっきのは、嘘だ。俺の両親に、おまえらは犯罪者だから死ねって言ったのは、カラス
どもじゃなくて、カラスどもだった俺なんだよ。俺は二人に穴を掘らせて、それから、そ
の穴を掘ったスコップで二人の脳天をかち割った。
そうだな、驚くようなことをするのは、バケモノじゃない、いつだって人間だよ。
俺も、ラッキーだったんだ。あのあと、俺たちは隣の国に戦争をしかけて、クソみたい
な殺し合いをして、クソの山みたいに死人の山を作ったり、作られたりした。だが、俺は
死ななかった。ラッキーだったんだ」
リヒャ公は、淡々と言葉を続けた。
「この世界がクソな理由は何か? そこで謎の秘密結社だとか、大国の陰謀だとか、濡れ
落ち葉みたいな老人どもだとか、宇宙の根底原理だとか、そんなことを言う被害者ヅラし
た連中のことを、俺は信用しない。残念だが、俺も、このクソみたいな世界の一員だ。こ
の世界をクソまみれにしてる、共犯者だ。だが、それでも……」
夜の海みたいな、沈黙が落ちた。あたしは漠然と、ハシシュでラリったあたしが、両親
の後頭部にクロスボウをつきつけて、それで笑いながら引き金を引き絞ると、目の前でぱ
っと脳漿が飛び散ったあのときのことを思い出していた。
この世界は、クソったれだ。
だのにあたしたちは、そのクソったれな世界から退場しようともせず、他人に特大のク
ソを食わせることで、なんとかして世界の端っこの方の席を確保しようとし続けている。
あたしはリヒャ公の手からボトルを奪いとって、一口呷った。あたしには、リヒャ公の
顔を直視するだなんてとてもできなかったから、ただただ、夜光虫が飛び交い始めた海を
見ていた。
リヒャ公も、あたしを見ようとはしていなかったと思う。でも、ときどき手が伸びてく
るので、その手にボトルを預けてやった。そうして、ときどき、彼の手からボトルをひっ
たくった。
港のあたりに立ち並ぶあいまい宿の窓からは無数のランプの光が漏れていて、雲ひとつ
ない空には無数の星が光ってる。あの窓ひとつひとつに、どうしようもない、でもありふ
れた悲惨が詰め込まれていて、そうして、あたしにはやっぱりそれをどうすることもでき
ない。それどころか、地上と夜空にまたがった光の乱舞を見て綺麗だとすら言ってしまえ
るし、あの窓の灯りの向こうには二度と行くもんか、あいつらとあたしは違うんだと反射
的に考えてしまう。
ほんとうに、クソッたれだ。
あたしは溜息をついて、リヒャ公に手を伸ばした。ボトルが渡される。あたしはそいつ
を受け取って、一口呷ろうとして、って、おいリヒャ公、どういうことよ、これ。
「あー! あんた、全部飲んだな!」
「おうよ」
「おうよって、てめぇ」
「飲めばなくなる、そりゃおまえ、宇宙の根底原理ってやつだ」
「ほんのちょっとでも何かを信用しようと思ったあたしがバカだったよ、ったく。体、冷
えてきちまったじゃない」
「温めてやろうか?」
その一言に、あたしは腹を抱えて笑ってしまう。なんつー古典的な。つか、あたしの人
生でそのセリフ聞くの、これが何度目だよ。経験的にいうと、こんなひねりのないヨタを
飛ばす男なんて、どいつもこいつもクズばっかりだ。
でもあたしは、大笑いしながら、リヒャ公によっかかってた。こつん、と頭を肩にのっ
ける。その夜のあたしは、だいぶ変だった。良くない酔い方をしていたのだろう。そうに
違いない。
リヒャ公の手が、あたしの腰にまわった。そうやってしばらくくっついてると、ほんわ
かといい気持ちになってくる。なあんだ、人肌恋しかっただけか。ま、それもありっちゃ
ありだわなー。
自分の奇行に納得がいったところで、ちょんと髭の横面にキスしてやる。リヒャ公は、
あたしの下まぶたのあたりに、ちょこんとキスを返してきた。あたしは、思わず怯んでし
まう。
「……気がついてた?」
「当たり前だ、馬鹿」
そういって、リヒャ公はもう一度あたしにキスをする。
実をいうと、いろいろあってあたしの右目はほとんど視力がない。職業的には致命的な
ので、なんとかそれなりに隠してきたつもりだったのだが、やっぱり同業者にはバレてた
か。ううん。なんという無駄な努力。
「バラージんときに、右手奥側の精度が低いんだよ。たぶんQも気がついてる」
「あちゃあ。だからあんた、いつもあたしの右に立ってんのかー」
「まぁな」
リヒャ公が首を傾けて、あたしの唇を奪った。酒臭い。それはあたしも同じか。あたし
たちはしばらく無言で、互いの唇を貪りあった。
「最後にいっこだけ確認」
あたしは彼の胸板を軽く押しやって、聞かねばならないことを聞いておくことにする。
「なんだよ。遊びがいいなら遊びだと割りきっていいし、本気じゃなきゃイヤだってんな
ら俺は結構本気だぜ? ついでに言うと、性病はクリーンだ」
「ばっか。あんたは、同僚と寝るのに、ジンクスとかある派?」
「ある」
「あら」
「だがジンクスなんて非科学的だ」
そう言うと、リヒャ公はあたしを押し倒した。
正直言って、あたしは彼にそんな何かを期待してたわけじゃあなかった。だって暇さえ
あれば本読んでるような野郎だもん。普通、野郎の冒険者なんてったら、夜は女遊びって
決まってるじゃない? だからあたし的には、インポ:ホモ:童貞で5:4:1くらいの確
率だと思ってた。いやね、意外と多いのよ、インポ。PTSDでインポとか、ケガが原因でイ
ンポとか。ホモは、アーモロードでトップの宿屋がアレだからさ。察して。
ところがどっこい。いやもう、これがとんでもないんですよ奥さん。
もうね、まだ一枚も脱がされてないってのに、お腹とか、足とか、胸のあたりとか、髪
とか、触られるだけでビリビリくる。マジでシャレになんない。つか髪って神経通ってな
いハズじゃん。なんで、こ、こんなに……
「ほら、ここも弱いんだろ?」
言いながら、リヒャ公があたしの耳にぱくりと噛みつく。
「……ひゃぃん!」
なんだこの声。ちょっと。なによこれ。
「可愛い声出すなあ、お前。そら、ここもだ」
リヒャ公の舌が、耳の裏側をつつっとたどっていく。体の中はなんかもうパニック状態
で、ふぁぁとかひぁぁとか、そんな不思議な声が出てしまう。なに。なんなの。てかもし
かして一服盛られたとか? それだったらさすがに、ちょっと、怒るうぁあぁぁあっ。
「失敬だな。同じ酒しか飲んでないだろ。自前だよ自前。てかお前がいい体してるってだ
け。そら、ここはどうだ」
リヒャ公の指が、おへその上あたりをすうっと撫でる。あたしは悶絶して仰け反った。
あ、ありえないって、ちょ、っと……
「お、おねが、い、ちょ、ちょっと、ひといき」
「始まったばっかだろうが、何いってんだ」
彼の指が、チューブトップをずるりと引き上げる。わりと大きめかなと勝手に思ってる
バストがあらわになった。もう、乳首が立ってるどころか、乳房そのものが張ってる気が
する。てかさ、あの、これでこんな分かりやすい直接的な感じちゃう部分とか
「あ、ああ、あああああっ!!」
指先が、乳房をつついた。気が遠くなりそうな刺激がパンと音をたてて弾けて、あたし
はだらしなくも大声をあげてしまう。うっわー、これ絶対、浜辺でヤってる他の連中の耳
にも入ってるわ。ひえー。
でも、リヒャ公は全然気にしないみたいで、こんどはぐいっとあたしの胸を揉みしだい
た。声もでない。肺がかあっと熱くなって、口元から涎がこぼれた。たぶん、目の焦点も
あってないと思う。くらくらする。
いつのまにか、あたしは彼に後ろからだっこされるような姿勢になっていた。がっしり
とした筋肉が、服の下で汗ばんでる。彼は両手であたしの胸をまさぐりながら、あたしの
うなじを舌で犯していた。あたしの両足はだらしなく広がっているんだけど、ほんのちょ
っとでも慎ましやかな姿勢に戻すだけの体力がない。あたし、どうなっちゃったんだろう。
思い出したくもないけど、一応、これでもプロだった経験だってあるのに。
あたしは犬みたいにハァハァいいながら、快楽の波が押し寄せては返して行くのを、呆
然と見ていた。ときどき、いままで見たこともないような高波が押し寄せてきて、来たと
思ったら今度はものすごい勢いでさーっと何かが引いていく。心臓はバクバクいいっぱな
しで、この先に本番がまだあるとかとても信じられない。まだあたしスカート履いてるし。
あたしは朦朧としながら、おねがい、ちょっと休ませて、大声でちゃう、聞かれちゃう、
服を汚しちゃうとかいったあたりの言葉をうわ言みたいに繰り返していたけど、「今更何
いってんだ」の一言で全面却下。このぅ……。悔しいけど、自分でも自分がどうにもでき
ない。今更ってのは、その通りだし。でもこんな派手にヤっちゃったら、覗きが出ても不
思議じゃないですよマジで。
リヒャ公の手が、あたしのユーティリティベルトにかかった。ああ、いよいよだ。素人
にはどうやって外したらいいかわからないかもしれないけど、さすが同業者、パチンパチ
ンとロックを外して、がさりとベルトを剥ぎ取る。あたしは方胸しか犯されてないのをい
いことに、リヒャ公の胸板によりかかって呼吸を整えるに一生懸命になっていた。
リヒャ公は、すばやくスカートのホックを外した。
「ちょい、ケツ上げてくれよ」
そう言われても、あたしはとてもじゃないけど力が入らない。苦笑しながら、彼はあた
しを少し抱え上げると、スカートを抜き取った。ブーツを残して、あたしはまったくの全
裸だ。ええ、そうですとも。チューブトップ脱いで、スカート脱いだら、ブーツ以外は全
裸ですとも。それが何か。
リヒャ公がくすくす笑っている。
「いやあ、そうかなあ、そうかもしれんなあとは思ってたが、ノーパンか」
「……悪かった、ね」
「一層好きになった」
「変態野郎」
「お褒めいただき恐悦至極。あーあ、スカートにシミ作っちまったなあ」
あたしは、ぜいぜいいいながら、やっぱちょっとムカつくので問いただしておく。
「あの、さ、マジで、なんなの、もう。こんなの、普通じゃ、ないって」
「じゃあタネあかしタイムといくか」
彼はあたしを四つん這いにさせる。抵抗する気力は微塵も湧かなかったし、そも砂浜だ
と大事な場所に砂が入ってものすごく痛い思いをすることがあるから、バックが一番のア
ンパイではある。それくらいリヒャ公も遊んでるってことだ。
リヒャ公は、片手であたしの背中を撫でながら、もう一方の手でお尻を揉んだ。ジクジ
クとした快感が吹きすさぶ。あたしは、もう、砂浜に肘をついていた。リヒャ公がシャツ
を脱いで、あたしの顔のあたりに敷いてくれる。いいですけど、これきっと涎まみれにな
るよ。それがいいんだろうけど。
「深都は……俺としては、危険だと思う」
突然何を言い出すんだこいつ。
「あそこの技術は、本気でちょっとヤバい。特に、俺みたいな人間には。
俺は、おれのオヤジやお袋みたいな、先生になりたかったんだ。二人とも、天文学が専
門だった。それがまあキチガイの息子に殺されて、それでそのキチガイは大きくなって激
しく後悔した。人生をやり直したい、何度もそう思った」
彼の両手が、あたしのお尻を柔らかく揉み、その手は太股に降りていって、そうしてま
たお尻へ、背中へと戻っていく。あたしの肩が落ちて、顔が彼のシャツの上に降りた。汗
と火薬の匂いがするけれど、男らしい、いい匂いだとも思ってしまう。
「深都の技術は、俺にとっては『やり直せる可能性』だ。何も考えず、飛びついてたよ」
あたしにも、彼の気持ちが、理解できる。あたしが歌の力を取り戻したのも、自分の手
で脳味噌を吹き飛ばした両親への懺悔の思いがあればこそだし、それと同じくらい、「幸
せに生きていたかもしれない自分」への憧れもあった。
「ここまでは、話の枕だ。いくら研究者になりたいと言ったところで、俺はやっぱり傭兵
だし、今更それ以外の生き方なんて思いつかない。だから、俺の本業に役立つことを勉強
するってのが、ちょうどいい妥協点だった。
ところでエーリカさん、特異点定理というものをご存じですか」
まるで教師のような口調で、リヒャ公が言う。特異点定理……そういえば、星術師たち
が使う技のなかには、弱点をより……って、まさか、それって!
リヒャ公の指が、あたしの裂け目の縁を辿った。地面にへばっていたあたしの体は、電
気に撃たれたようにビクンと跳ね、またどさりと地面に崩れる。声が出ない。頭がおかし
くなりそう。
「言ったろ、いい体をしてるだけだ、って。もともとの感度がいいから、特異点を責める
とほんとうによく効く」
彼の指は次々とあたしの弱点を開拓し、そのたびにあたしは全力でよがり、絶叫をあげ、
のたうった。太股をつたって、愛液が濁流みたいに流れ落ちていて、たぶん膝丈のブーツ
にシミを作ってるんじゃないかと思う。あとで確認しないと。
彼はさんざんあたしを指で弄んでから、ズボンを脱いだ。あたしは息も絶え絶えで、そ
れなのに彼のモノを受け入れたくってウズウズしてることに、半分くらい呆れ、半分くら
い感心していた。
「まったく……いつも、あたしに、迂闊に前に出るな……って、言うのに……
今日は、ずいぶん、大胆じゃ……ない」
「俺だって近接迫撃砲術くらい、やり方はよく知ってる」
「じゃあ、してよ……あんたの大砲で、さ」
まったくもって、アホだ。あたしらは、ほんと、アホだ。
彼のモノが入ってきたあたりで、あたしの意識は宙に飛んだ。あれは、無理だ。絶対無
理。サイズとかそういう問題じゃなくて、普通に、無理。
意識が戻ってきたときには、まだ彼のモノに貫かれていた。彼はあたしの下半身を抱え
あげながら、息が詰まるような勢いでピストンを繰り返している。さすがの腕力。あたし
は意識が戻るなり半狂乱で、それでも自分から腰を振っていた。ぐじゃ、ぐじょっという
いやらしい音が夜の浜辺に響き、二人の荒い息が少し冷えてきた空気の中に溶けていく。
体の奥のほうがジンジンと言い始めたころ、リヒャルトがわりと切羽詰った声であたし
に聞いてきた。
「さて、エーリカさん、特異点定理は、ご存知だったようですが、では、エーテル圧縮は、
ご存知ですかね?」
あたしは考えることすらできず、反射的に首を横に振った。
「じゃあ、覚悟して、もらおうか。そろそろ、イク、ぞ」
リヒャ公の動きが、ちょいと静かになった。あたしはてっきり、彼が喋りながらイって
しまってて、いまはその最後の名残を楽しんでいるのだろう、とか思った。
当然、そんなことはなかった。次の瞬間、あたしのなかで、何かが弾けた。快感とか、
快楽とか、そんな言葉で、アレを表現することなんて、とてもできない。あたしは全身を
痙攣させ、口の端からアブクを吹きながら、「イク」と「またイク」を繰り返し繰り返し
絶叫していた。
そうして、温かさを感じる何かが、あたしの体の中にぶちまけられた。長年の経験で、
それが精液であることは直感したが、そのときにはもうあたしの意識は完全にすっとんで
いた。
目を覚ますと、あたしはすっぱだかのまま、リヒャ公に抱かれていた。下半身がやけに
重いなあと思ったら、あたしはまだリヒャ公とつながったままだ。リヒャ公はあたしが目
を覚ましたのに気がついて、ゆっくりと腰を引く。二人ぶんの体液が、どろりと垂れた。
あたしはまだ自分の呼吸が整っていないことに驚きながら、大の字に寝転がる。リヒャ
公が腕枕を差し出してくれたので、ちょんと首を乗せる。マジで、もう一歩も動けません。
ほんと。無理無理。とか思いつつ、いま二回戦を求められたら、絶対ヤるなとも思って、
軽く笑ってしまう。
夜空は怖いくらい晴れ渡っていて、星が豪華なシャンデリアになっていた。あれを観測
して得られた知識を、こんなことに応用する奴がいるんだから、人間ってのはほんとに救
いがたい。いや、気持ちよかったけど。とっても。
あたしたちは並んで横になって、夜空を眺めた。
リヒャ公が、ぽつりと呟く。
「このあたりの村で生まれたガキには、3つの選択肢がある。ひとつめは、漁師をやりな
がら畑を耕して、夢も希望もない毎日をひたすら生き延びる。ふたつめは、アーモロード
に出て王国の警備兵になって迷宮の中で使い捨てられる。みっつめは、海賊の下っ端にな
る。人気なのは三番目だ。手っ取り早いからな。で、ガキのうちにくたばっちまう。
俺の国の王子様は、そんな世の中は間違ってるって演説した。
俺は、怖いよ。彼が狂ってたなら、いい。狂人のやったことだ。仕方がない。だが、彼
は、狂ってなかった。狂ってなど、いなかったんだ」
あたしは彼の胸板の感触を楽しみつつ、溜息をつく。
「仕方ないよ。人間は、一人じゃ生きられない。だから、たとえ海賊になってでも、群れ
て生きようとする。
きっと、その王子様は、一人で生きようとしちまったんだ。一人で、生きたかったんだ。
そんなカッコつけなくても、死ぬときは一人なのにね」
「まったくだ――ああ、まったくだ。それが、現実的な生き方ってやつだ」
そう言って、リヒャ公はあたしを強く抱きしめた。
そのうち、リヒャ公がやや微妙な表情になった。
「現実的ついでに、ひとつだけ事務的な話をしちまおう。本当はこれを言いにきたんだ」
「事務連絡をするついでにイッパツって、あんたそりゃまた」
「我らがボスと、その娘さんと、お堅いファランクスさんの話さ」
あたしは気持ちを引き締める。
「彼らは、あまりにも得体がしれなさ過ぎる。それで、俺なりに調べた。
まず、娘さんだ。今となっちゃ確定的だが、彼女には王族の血が流れてる」
「間違いないね。あたしよりも上だよあれは。でも、可哀想に。王族だなんて、いいこと
ありゃしないのにね、何一つ」
「ちょっと前に、どでかい地震があっただろ。あの地震と、そのあとの津波で、とあるち
んまい王国がこの世からほぼ完璧に消えた。彼女はその国の王家の、唯一の生き残りだ」
あたしはいろいろと納得する。彼女は、あまりにも世間ずれしていなさすぎる。あたし
たちが見てきた世界と、彼女が見てきた世界との差は、あまりにも大きい。けれどそれだ
とひとつ、説明のつかないことがある。
「彼女は、本当はとある大富豪の地主さんのところの、養女になる予定だった。おっと、
急がないでくれ。その地主さんは、ごくまっとうな篤志家だ。後ろ暗いところは、まった
くなかった。この時代には、珍しい人間さ。だが、そういう人間はゼロじゃない」
「そこで星術師としての訓練を?」なるほど、そういうことなら話はあう。
「その、はずだった。実際、彼女の訓練は、その地主さんの手配した学校で行われている。
で、だ。その地主さんが現地に駆けつけてみると、先客がいた。それが、我らが船長だ。
彼はそのとき、アーモロード王立海軍の、若き精鋭だった。乗船はHMSホットスパー」
「HMS! 精鋭も精鋭、超エリートじゃん!」
HMSってのは、何の略称かは知らないけれど、王立海軍のなかでも直接女王陛下の決済
が下って建造された船ってことだ。つまり、でかくて、強くて、途方もないカネがかかっ
てる。水夫だけでだいたい200人くらいは乗るクラスのはずだ。
「もともとその地主さんは、船長にも目をかけてたらしい。それで、若干モメはしたが、
船長ならそれもアリだろってことで、彼女は船長の家の養女になった。そのとき、船長と
つきあってた、みんなが認める恋人が、例のファラ子さん」
なんなのそれ。なにその、ドロっとした嫌な雰囲気は。
「じゃあさ。なんでその偉いさんたちは、いまここであたしらなんかと、冒険者とかやっ
てるわけ?」
「件の大地主さんは、それから1年くらいして、強盗に襲われて死んだ。でっかいパトロ
ンを失った船長は、急に出世レースに嫌気がさして、職を辞した。でもって職を辞したと
たん、不幸にも家が火事で全焼。ファラ子さんは、彼を追って、同じく職を辞した」
さて、ここまでは、話の枕だ。ファラ子さんは職を辞したことになってる。確かに、海
軍に籍はない。だが、なぜかアーモロードの公安委員会には、彼女の籍がある」
「つまり?」
「ファラ子さんは、目下、覆面捜査中。以上が、俺の調べた、すべてだ」
あたしの頭の中で、いろんな絵がぐるぐると回った。状況が指し示している答えは、わ
りと明白だ。ただ、元王立海軍のエリートを殺人罪で逮捕するには、証拠が足りないのだ
ろう――いや、おそらくはそれですら、ない。不幸な災害で滅びた王国の、最後の末裔の
首に縄をかけるには、決定的な証拠が必要なのだ。それが、見つかっていない。
Q船長は、ハナちゃんを盲目的に愛している。彼女を守るためなら、なんでもやるだろ
う。彼がいま本当にやりたいこと、それはもしかして、追っ手――つまりは自分の元恋人
であるマリアさんを、事故にみせかけて殺すことなのではないだろうか? だが、あたし
たちは予想外に事を上手く進めてしまった。だから、彼は自分のホームグラウンドである
海を目指すのではないのか?
寒気が止まらない。だとすれば、彼はマリアさんを殺すにあたって、目撃者となり得る
全員を同時に始末するだろう。海の上でのことだ。すべては、生き残った者の証言でしか
語られない。
――でも。
だから、あたしはどうするべきだろう? 「やっぱりやめます」と言って、別のギルド
に移る? たとえばリヒャ公の奥さんとかになって、幸せな家庭とやらを作ってみる?
親を殺したあたしたちふたりで、産めよ増やせよ?
ない。それは、ありえない。
あたしは、リヒャ公の顔を見る。彼も、たぶん、あたしと同じ結論に届いている。
あたしたちは、いままさに津波がこようとしている浜辺で、貝殻を拾い集めている人間
だ。津波直前の浜辺は、ありえない距離まで潮が引くせいで、ウニでもカニでも貝類でも、
信じられない量が取り放題になる。そうして、津波が来ると分かっていても、人々は貝殻
を拾い続ける。強欲だからじゃあない。「津波なんてこない」という思い込みが、そうさ
せるのだ。自分が拾い集めているものが、津波が急接近している証拠であっても、なお。
あたしは、低く笑って、体を起こす。ようやく呼吸が落ち着いてきたので、リヒャ公の
上に馬乗りになる。
「ま、あんたの近くで死ぬなら、それもアリじゃない?」
「――お前の近くで死ぬなら、それもアリ、だな」
「おっけ、再確認。反対意見、ゼロ。
じゃ、事務連絡も終わったところで、もいっかいしよっか。ずいぶん元気そうじゃん」
「元気なお前といると、俺も元気になるってだけだ」
あたしは両足を大きく広げ、さっきからしっかりとおったっている彼のモノを、ぱっく
りと飲み込んだ。
……そうしてあたしはいま、愛用のバリスタを片手に、真新しい船を見ている。リヒャ
公は、あの夜以来また朴念仁に舞い戻って、本ばかり読んでる。今も宿の部屋で読書中。
荷物の積み込みは今日中って話だから、こんなに急いで港に来る理由もないんだけど。
ふうん、小さいとは聞いてたけど、そんな小さくないじゃん。てか、あたしの常識から
いうと、結構でかいんだけど。王立海軍な人にとっちゃ、小舟なんだろうなあ。
そんなことを思ってると、背後から声がかかった。船長だ。ちょっと前から、あたしの
後ろに立ってるのは、気がついてた。でもあたしは、今気が付きましたよという雰囲気で
振り返る。
「バリスタのメンテナンスに気を付けてくれ。潮風は、馬鹿にならんぞ。きちんと油を引
かないと、金属部分は1日で錆びると思った方がいい」
「アイアイサー、船長!」
あたしはおどけて敬礼をしてみせた。侮ってもらっちゃ困りますよ船長、こいつはパー
ツを術式で強化してあるから、そう簡単には錆びませんという言葉が喉まででかかったが、
飲み込んでおく。そうやって飲み込んで、ああ、あたしたちはもう終りだな、と確信する。
腹に一物以上を飲み込んだ状態で冒険すれば、先は見えている。それがあたしの一方的な
妄想でしかなかったとしても。
けれど、もう、それでいい。
桟橋を渡りながら、あたしは、船首に書かれた船名を読む。
「ユリシーズ号、かぁ。なかなか、かっこいいじゃないですか、船長」
「小さい船だが、我慢してくれ。まずは船酔いの克服からだ」
「うへっ、努力します」
そんなことを言いながら、あたしたちはユリシーズ号に乗り込む。
(「エーリカと、あたらしい船」・完)
■Over the ocean(5)
海都歴99年 皇帝ノ月
〜 Qと、瓶
ときどき、無性に「帰りたい」と思うことがある。そしてそれとほとんど一緒に、「ど
こに帰るってんだ」という疑問が噴き上がる。
いまの俺には、帰る場所が、ある。俺は自分の傍らで押し殺した呻きをあげているハナ
を緩やかに突き上げながら、その手を握る。ハナは、俺の手をしっかりと握り返してくる。
俺の帰る場所は、ここだ。ここ以外に、あるはずがない。
ハナの身体のなかは、すっかりと女になっている。暖かな飛沫が俺を包み、うねる柔肉
が俺を搾り取ろうとする。ちょっとキツめではあるが、物静かで内気な身体のどこにこの
情熱が眠っているのだろうと思うくらい、夜のハナは熱っぽい。
俺たちは、いつも台所で、立ったまま愛し合う。寝室は駄目だ。絶対に。俺は仕事で長
期間家を空けるし、ハナには占星術の学校がある。家事その他の維持管理は、ハウスキー
パーに任せねばならない。ふたりの愛液と汗でぬれそぼったシーツを、ハウスキーパーに
見られるわけには、いかない。どんなに高いカネを出して秘密厳守を命じたところで、人
の口に戸は立てられないのだから。
俺はハナの片膝を抱え、少し身体の負担を減らしてやる。ハナの顔がかあっと上気した。
この姿勢は、爪先立ちでギリギリ俺と繋がっているときよりも足には負担がかからないが、
「奥のほうにいっぱい感じてすごく気持ちが良くなっちゃう」そうだ。俺には、一生わか
らない感覚。年齢的にはこいつの倍以上生きているし、人生経験という面においても決し
て追いつかれることはないと思うが、そんなハナが俺には感じ取れない世界をいままさに
感じているというのは、なんだか不思議だ。俺には妊娠も出産もできないんだから、不思
議に思う俺のほうがおかしいんだが。
ハナの呼吸が上がってきた。上半身をのけぞらながら、片手で自分の口を押さえている。
「声をだしちゃうのは恥ずかしい」のだとか。俺以外の誰に聞かれるわけでもあるまいに。
このあたりの感覚も、よくわからん。
俺はハナの手を離すと、口を押さえている手のほうを握った。そうして、その小さな手
を、ずり下ろしていく。ハナの顔がいっそう真っ赤になる。白い首筋には汗が玉の様に浮
かび、さらりとした紫の髪が張り付いていた。
ハナの手を握って胸元においたまま、やや強めにピストンを始めた。バランスが不安定
なせいか、彼女の顔が苦痛を訴える。
「すまん、痛いか?」
分かりきったことを、口にする。ハナは、小さく、首を横に振った。それも、分かりき
ったことだ。
少しの間、その姿勢でハナとつながり続けた。腰が微妙にねじれているせいか、締め付
けが普段よりも強い。ハナはハナで、痛みはあるが、自分のまだ知らない部分で快楽を呼
び起こされているのが効いているのか、目がとろんとしてきた。
俺とハナは、ダンスでも踊るかのように、ゆるやかに動き続ける。ハナの片手はだらり
と垂れ、俺に身体を押しつけられるたびにぴくりと跳ね、俺が身体を引き離すたびにぴく
りと跳ねた。やや幼さを残した顔は、目は閉じ口が半開きになっているせいか、ほとんど
眠っているようにも見える。けれどその口が手の振動にあわせてかすかにわななくのは、
彼女が眠っているのではなく、快楽の淵を彷徨っている証だ。
二人の胸の前で組んでいた手を離し、彼女のもう片足を抱え上げた。ぐっと身体を深く
おしつけざま、肉付きのあまりよろしくない尻のあたりで、ハナを抱え込む。彼女の喉の
奥から、「ひっ」という声が弾ける。口がぽかんと開き、その端からつつっと涎が垂れた。
さらりとした唾液は、薄い頬を伝い、顎の稜線から、なだらかな胸へと滴る。
力なくのけぞるハナの背中を片手で支えながら、彼女の身体を揺するように前後させる。
細い身体はいまやその全身が細かく震えていて、俺の動きにあわせて首がふらり、ふらり
と揺れる。ほんのちょっとでも妙な力を入れようものなら折れてしまいそうなくらい、華
奢な首筋。天上を見上げたまま見開かれた瞳は焦点を結んでおらず、なんとか俺の腰に巻
きついている両足は、すぐに地面へと垂れそうになる。
そうやってしばらく、二人で夜の台所を漂っていた。ハウスキーパーがまめに料理をし
ているようだが、あまりにも多くのものが新品のまま放置されている、生活感のない台所。
そういえば、ハナの部屋も、そうだ。年頃の娘だというのに、学校の制服と教科書くらい
しか、目だった持ち物はない。流行のスカートも、可愛らしいアクセサリーも、食べかけ
のお菓子も、なにひとつ、ハナの部屋にはない。
俺は首を軽く振って、力強い突き上げを始めた。ハナが、びっくりしたような、あるい
は痛みに悶えるような表情を浮かべるが、すぐにその顔は喜悦の波に攫われる。重い水音
と、空気の抜ける音をさせながら、俺たちは愛しあった。愛し、あったのだと、思う。
ハナが、自分の尻の下に回っている俺の手に、震える指先を這わせる。絶頂が近いのだ
ろう。ハナはイキそうになると、俺の手を握りたがる。
射精感をやりすごしながら、さらにハナの身体を貫き、突き刺し、肉と肉が交わる悦び
にふける。溶け合った汗が床に散り、熱しすぎたプリンのようになった秘所と鋼のように
屹立した剛直がお互いを主張する。ハナの身体が、両足が、両手が、細い顎が、けぶるよ
うな瞳がいっせいに痙攣し、その喉から「ああっ」という悲鳴があがった。達したのだろ
う。俺はそんなハナを、さらに責めたてる。
瀕死の小鳥のように身体を痺れさせていたハナは、少しだけぐったりとしたが、またす
ぐに秘所が締まり始めた。こめかみに血管が浮く気分。構わず、俺はハナを犯す。その身
体のすべてを、快楽で満たすために。
ハナの口から、途切れ途切れに、声が漏れ始めた。
「おとうさん……おとうさぁん……」
一声ごとにハナの感じている悦楽は深まっていくようで、そのたびに彼女の狭い裂け目
が強く俺を締め上げる。
「おとうさん……ああ、おとう、さぁん……」
突然、射精感が抑えきれなくなった。しゃにむにハナを突き上げる。ハナはガクガクと
震えながら、おとうさん、を繰り返す。もう、止まらない。こんなに激しくしたら、ハナ
の華奢な身体は砕け散ってしまうんじゃないかという恐怖がちらりと脳裏によぎったが、
俺はそれを振り払うと、最後の突進を始めた。自然と喉の奥から唸り声があがり、ハナの
甘い呼び声と入り混じる。
そうして、俺は大声を上げて、ハナのなかに精をぶちまけた。だくだくと流れ出る精液
は、すぐにハナのなかにおさまりきらなくなって、だらりと床に垂れたハナの足を伝い、
つま先から床へと滴り落ちる。あとで掃除しなきゃ、だ。
俺たちはゼイゼイいいながら、情事の名残のなかを漂った。ハナは全身がぐにゃぐにゃ
で、目蓋は力なく閉じられている。でも、彼女の指先は、いまなお俺の手を握ろうと、虚
空を彷徨っていた。
俺はダイニングテーブルの上に出ていたタオルを取って、まだ俺が突き刺さったままに
なっているハナの裂け目を、丁寧にぬぐう。敏感な部分が刺激されたのか、綺麗に伸びた
ハナの腹がふるっと震えた。
それから、秘裂をタオルで覆いつつ、彼女の中から出て行く。もとより容量オーバーだ
った膣の栓が抜け、ごぽっという音をたてて精液が溢れ出した。床を必要以上に汚さない
よう、タオルで体液を受け止める。
それから、ふらふらしているハナを立たせると、もう一本別のタオルを手にとらせて、
赤子をあやすように椅子に座らせる。ハナは朦朧としていたが、椅子の上に新しいタオル
を広げると、その上にちょんと座った。俺は汚れたタオルを手に、床に落ちた体液を拭き
取る。
俺が掃除をしているのを、ハナは小首を傾げて、ずっと見ていた。口はまだ半開きで、
胸は波打っている。そうして、ときどき自分の下半身に目をやっては、こぽりと湧き出る
白い液体を、タオルで拭き取っていた。
掃除をしながら、ふと、思う。俺は、いったい、どうしようと思っているのだろう。
ハナを、愛している。それは胸を張って、断言できる。
けれど、この愛を、世間は決して許さない。俺はハナの義父だから。父だから。
父と娘の交わりを許す世界は、なくはないだろうが、俺の手の届く範囲には存在しない。
帰りたい。
そう思って、おれはゾッとする。俺には、帰る場所がない。両親は、海で死んだ。そん
なものだ。悲しくなどなかった。なぜなら、そんなものだから。貧しい漁村じゃあ、人が
死んだ程度のことで嘆いていたら、村は毎日葬式ムードに浸るしかない。男たちは女たち
を孕ませつづけ、女たちは腹ボタか赤子を背負ってるかその両方かで、そうやって馬鹿み
たいな勢いでガキが産まれ、ガキどもは言葉をしゃべれるようになる前に、アホみたいな
勢いで死んだ。
あんな場所に、帰りたいはずがない。引き取られた先で俺は家畜同然の扱いを受け、じ
っさい家畜と一緒に暮らしたが、それはまだまだ幸せなほうだった。俺は人買いに売られ
ることもなかったし、おれを引き取った養父は俺のケツを掘ろうともしなかったから。だ
がそんな幸運があったからといって、あそこに帰りたいとは、これっぽっちも思わない。
帰りたい。
そう思って、俺は海に出た。きっと、俺のオヤジとオフクロも、そうだったんじゃない
だろうか。そうでなきゃ、嵐の海に船を出すなんて馬鹿げたことをするはずがない。けれ
ど、オヤジも、オフクロも、帰る場所なんてなかった。海のこっち側には。
そうして俺にも、やっぱり、帰る場所がない。海のこっち側には。
帰りたい。帰りたいんだ。海の向こうにある、ここではない、どこかに。
どの岸辺にたどり着いても、俺は受け入れられなかった。今度こそ、この岸辺こそが俺
の海の向こうだ、そう思いながら俺は新しい浜辺にたどり着いた。そしてそのたびに、そ
こは俺の帰る場所じゃないということだけを、思い知らされた。
帰りたい。
ああ、でもずっとずっと昔、まだ俺が下級船員で、マリアと会うどころかまだマリアが
こしゃまっくれたガキでしかなかっただろう頃、一度だけ、ここになら俺は「帰れる」ん
じゃないかと思ったことも、ある。
だが、やはり、ダメだった。あの人は俺を受け入れてくれたが、それは、あってはなら
ないことだった。
もしかしたら、あの人も、帰りたかったんだろうか。だから、俺を受け入れてくれたん
だろうか。だとしたら、俺は帰れる場所を見つけたんじゃなくて、同じように波間を漂っ
ている空き瓶と出会ったというだけだ。そうして俺はあの人の瓶のなかに「助けて」と書
かれた手紙を見つけ、きっとあの人も俺の瓶の中の手紙を読んだのだ。
溜息を押し殺し、床の掃除を終える。体液が染みた部分をブーツで踏みにじると、その
汚れは俺の靴裏の汚れと一緒に床に溶け込んで、見えなくなった。これでよし。
椅子に座ったままうとうとし始めたハナを抱き上げ、部屋まで運ぶ。ぼそぼそと、「も
っと」という声が聞こえたが、ハナの体力はどう見たって尽きている。「明日も朝から学
校なんだろ、とっとと寝ろ」と言って、ハナをベッドの上に転がした。不満げな唸り声の
ようなものが聞こえたが、俺が部屋の扉を閉めるころには、穏やかな寝息に変わっている。
まるでガキだ。
自分の部屋に戻って、ベッドサイドのテーブルに乗ったままのウィスキーを一口煽って
から、ブーツを脱いで、ベッドに横になる。考えてみれば、俺の部屋も実に殺風景なもん
だ。せいぜいがウィスキーのボトル程度で、他は何もない。着替えの類はほぼすべて基地
にある俺のロッカーに押し込んであるし、礼服はタンスで埃をかぶってる。
俺は目を閉じて、眠ることにした。軍務で鍛えられたおかげで、寝ようと思えば、その
瞬間に寝れる。そうじゃなきゃ、生き延びられなかった。その夜も、俺は一瞬で眠りに落
ちた。
本当は1週間の休暇をもらったハズだったが、3日目の昼、俺は早馬に乗ってやってき
た使者に叩き起され、着の身着のまま馬に乗って俺の船に走った。なんでも近海でVIPの
乗った大型ヨットが難破したらしく、救難のための緊急出動がかかったのだ。アホめ海を
侮ったなと思ったが、口に出すといろいろ面倒なので黙っててきぱきと出港準備を整え、
30分でHMSホットスパーは港を離れた。このスピードは、俺たちでなきゃ無理だ。そう
思うと、少しだけ彼女と、俺のクルーが誇らしくなる。
半日かけて周辺海域を捜索し、なんとか夕暮れには船の残骸を発見した。華奢なヨット
は竜骨が破砕していて、船の大部分はあっという間に沈んだだろう。偉いさんの多くは、
日差しの強い日中は船室に篭っているから、助かる見込みはない。
マリアが事務的に、捜索の中断を提案する。俺は頷いた。もう、日が暮れる。これ以上
の捜索は無意味だし、こちらも無理に出航したので長期間の航海は不可能だ。おそらくは、
ちらりと姿を見せた勇魚にVIP様が気まぐれでモリを打ち込むよう命令し、水夫たちは覚
悟を決めて命令に従った。その結果、起こるべきことが起こった。水夫たちの心境を思う
と胸が痛んだが、それはそんなものだ。そんなものだとしか、言いようがない。
港に帰った俺は、微妙な違和感を覚え、すぐにその理由に行き当たった。今日は、お迎
えがない。普段だと、こういうときは必ずハナが港にいた。ハナは、俺が何日かかるか分
からない航海にでるときも、学校が終わると港にやってきて、夜中になっても港にいるの
で警備兵(階級で言えば俺の下だ)が詰所に保護し、そうして警備兵がこれ以上はダメだ
と言うまでそこで待っている。そうして何日も、何日も、あいつは港で俺を待ち続ける。
今回は本当に急な出航だったから、ハナも俺がただ街に出ただけだろうと踏んだのかも
しれないと思ったが、休暇中の俺が街に出ることはまずない。だから、普段のハナなら、
きっと港で待つことを選んだだろう。
不吉な思いにとりつかれながら、部下たちをねぎらって、解散を命じた。緊急出動でも
船のメンテは必要なので、マリアはメンテ要員を指揮するために居残る。彼女は不安げな
俺を見て何か言いたそうだったが、俺は彼女に軽く手を振って、家路を急いだ。
不吉な予感は、あたっていた。玄関まで戻った段階で、潮風に混じって、濃い血の匂い
がしたのだ。さあっと全身から血の気が引いたのを、覚えている。俺は剣を抜いて、本能
が命ずるまま、血の匂いの元に向かって走った。
血の匂いの源は、台所だった。アイパッチをむしりとる。暗順応させておいた左目は、
暗闇でもよく見えた。流しには不器用に切られた野菜が転がっていて、机の上には塩漬け
肉の塊が出しっぱなしだ。最悪の事態を覚悟しながら、ハナの姿を探す。
ハナは、ダイニングテーブルの下に、うずくまっていた。テーブルを蹴飛ばし、剣を投
げ捨て、ハナの身体を抱きしめる。暖かい。彼女は、生きていた。俺に抱かれたハナは、
しゃくりあげながら、何かを呻いている。
それで俺は、事態がもっとこじれていることに気がつく。
ハナの横には、老人の死体があった。俺に目をかけてくれている、金持ちで性格もいい
という奇跡のコンビネーションを成し遂げた、篤志家のジジイだ。腹にはいくつもの刺し
傷がある。俺は、そっと、ハナの手をとった。その手は、にちゃりとも、ぬめりとも言い
難い、しかし俺には馴染みの感触がする液体にまみれていて、そうしてその手の先には、
鈍く光る包丁があった。
ハナの手を握り、一本ずつ、指を開かせる。3本開いたところで、包丁がカラリと床に
落ちた。それにあわせるように、ハナが堰を切ったように泣き始める。
俺はハナを抱きしめたまま立ち上がらせ、まずはケガをしていないことを確認した。そ
れから、ハナを抱いたまま台所のあちこちを探して、酒の瓶を見つける。歯で抜栓して、
口に含んでから、ハナに口移しで飲ませた。ハナは激しくむせ、そのほとんどを吐き出し
てしまったので、俺はもうひとくち口移しする。二回目は、半分くらい飲み込んだ。
それから、ハナの目を見て、聞く。
「何があった」
彼女は泣きじゃくりながら、言った。
「おとうさん、と、別れろ、って……もっと、ちゃんとした、家族を……紹介するから、
って……君は、間違ってない、悪いのは、おとうさんだ、って……嫌だって言った……絶
対に嫌だって……でも、どうしても、ダメだ、おとうさんとも、話をしなくては……イヤ
だって、イヤなんだって……それで……お料理、してたの……おとうさん、に、食べてほ
しくて……でも……気がついたら、お爺ちゃんを、刺してて……」
俺は目をつぶって、天を仰ぐ。おそらく、このジジイは、俺とハナが寝ているのを知っ
たのだ。俺はできるかぎり警戒していたつもりだったが、自分が達する瞬間まで警戒を緩
めないなど不可能だ。どこかで、ジジイに見られたか、聞かれた可能性は、ある。
俺は、妙に冴えた頭で、何をすべきか考えていた。選択肢は、ひとつしかない。ハナを、
守らなくては。何があろうと。
血まみれの身体を風呂で洗い流し、着替させてから、俺たちは街に出た。この隙に誰か
が俺の家に来たら――たとえばマリアとか、ジジイの帰りが遅いのを心配した奴とか――
最悪の事態になるが、そこは賭けだ。ハナと死体を一緒にしておくわけにはいかない。
俺は、密輸の容疑がかかった海賊一味が経営している、場末の酒場に飛び込んで、ボス
を出すように迫った。俺の剣幕にビビったのか、ボーイはボスを呼びに行き、やがて無駄
にデカイ胸をひけらかした女海賊が姿を見せた。俺は有り金の半分くらいを叩きつけ、
「家の掃除」を頼む。女海賊はあっけにとられていたが、やがて大笑いすると、カネを取
った。
それから、俺は海軍を辞め、ハナを連れて冒険者になることにした。家はなくなったが、
しばらくの間、食うに困らない程度のカネはある。やがて、どこで聞きつけたのか、マリ
アが俺たちの前に姿を見せた。彼女も海軍を辞めたと言ったが、彼女が政府筋からのなん
らかの差しがねで、俺たちを探っているのはほぼ間違いない。ハナは露骨にキョドったが、
不思議なもので、冒険を繰り返すうちに、彼女たちの間にもなんとはなしの信頼関係が生
まれた。
貯金はあるとはいえ、働かなきゃ食えない。ハナを守るためにも、カネは必要だ。俺は
兵隊として信頼できる人間を探し、こいつはいけると感じた二人を雇うことにした。予感
は外れず、彼らとは、うまくチームを回せている。このぶんなら、食い詰める心配はなさ
そうだ。
……だが。
だが、こんな不自然な潜伏をしていれば、いつかは何かが上手くいかなくなる。それで
も俺は、ハナを守り通せるだろうか? ハナのために生きられるだろうか?
アーマンの宿の一室で、確実に埋まっていく迷宮の地図をランプの灯りの下で見ながら、
ついでにハナの寝息を聞きながら、俺は「帰りたい」といういつもの思いが胸にこみ上げ
るのを、堪える。
結局、俺たちは、一人じゃ生きられないくせに、好き好んでそれぞれがたった一人で無
人島に住んでいるような、妙な生き物だ。そうして、毎日毎日助けてくれって手紙を書い
ては、瓶に詰めて海に投げ込むが、助けなんて来ない。かわりに、朝になるごとに浜辺一
面に瓶が流れ着いてくる。それで、どの瓶を開けても、助けてくれって書いた手紙が詰ま
ってる。
それが、俺たちにとっての、生きるってことだ。
俺は地図をしまい、アイパッチをかけなおしてから、ランプを吹き消した。ブーツを脱
いで、ベッドに潜り込む。ハナが目を覚ましたのか、「おとうさん?」と寝ぼけた声でさ
さやいた。
俺は、その小さな唇に、自分の唇を重ねる。
(「Qと、瓶」・完)
■Over the ocean(6)
海都歴98年 戌神ノ月
〜 ハナと、嵐
そのとき、大地が激しく上下に揺れた。わたしはひどくびっくりして、手に持っていた
お皿を床に落としてしまい、お皿は真っ二つに割れ乗っていた料理は床に散らばった。あ
あまた怒られる、と反射的に思う。
でも、怒られるよりもずっと先に、もう一度地面が揺れた。今度は横だ。わたしは誰か
に突き飛ばされたように、床に倒れた。おそらくは、激しく横揺れする壁にはたかれたの
だろう。今でこそ、そんなことを思うが、倒れた瞬間には何が起こったのかさっぱり分か
らなかった。
地鳴りが轟き、木でできた建物が崩れる音があちこちで響く。目の前で、石垣がガラガ
ラと崩れていった。庭の草刈りをしていた人が、崩れていく石垣にのみ込まれる。一瞬だ
け絶叫があがったけれど、その声は島中に響き渡る轟音にかき消された。背後でものすご
い音がして土煙が舞い上がり、わたしは咳き込みながら地面にうずくまる。
ようやく揺れが収まったとき、わたしは自分が奇跡のような確率で生き延びたことを知
った。わたしからほんの数十センチというところに、巨大な石の柱が倒れている。直撃さ
れていたら、絶対に助からなかった。
恐怖と混乱が、わたしの幼い理性を打ち砕く。
「火だ、火を消せ!」
「こっちはダメだ! 逃げろ!」
「誰か助けて、動けない、動けないの」
「火を消せ!」
そんな声が、四方八方から聞こえてくる。わたしはどうしていいのかわからず、土埃が
混じった料理の残骸と一緒に、その場でうずくまり続けるしかなかった。それ以外、何が
できただろう?
そうやってどれくらい時間がたったのか、いつしかわたしはお母様の腕に抱かれていた。
埃と血で汚れてもなお綺麗な紫の髪をしたお母様は、わたしを抱きしめてから、手をとっ
て立ち上がらせると、歩き始めた。わたしは幼いアヒルの子のように、お母様に手を引か
れながら、その後を追う。
わたしたちの住むお城は、めちゃくちゃになっていた。あちこちで柱が倒れ、天井が落
ち、建物自体がひしゃげている。土埃のなかに、生臭い匂いが立ち込めていた。血の匂い
だ。お母様は、わたしの手を引いて、死と破壊が充満するお城のなかを歩いていった。
やがてわたしたちは、お城の入り口に広がる庭に出た。そこでは、お父様とお姉さま、
それからお兄様が待っていた。お姉さまとお兄様はお父様譲りの金髪で、こんな時にも関
わらず、まばゆい日差しの下できらめく髪が、とても素敵だと思った。もちろん、お母様
から頂いたわたしの紫の髪も、好きだったけど。
でも、お父様の顔は、紙のように白かった。お母様と同じように血と泥で汚れた手が、
浜辺を指差す。引き潮のときよりもずっと向こうまで、潮が引いていた。それを見て、お
母様の膝ががっくりと崩れる。
わたしも、漠然と、何が起こるのかは分かっていた。地震。急激な引き潮。その後に来
るのは、津波だ。でも、なぜか、そう思った途端、私の中で渦巻いていた恐怖と混乱が収
まっていく。
あれは、なぜだったのだろう?
なぜわたしは、確実に迫ってくる死を前に、絶望に打ちひしがれる家族を前に、むしろ
微笑まんばかりの気持ちになっていたのだろう?
お父様もまた地面に膝をつき、お母様の肩を抱きしめた。お母様が、泣いている。お姉
さまも、お兄様も、その輪に加わった。
わたしはでも、別のことを考えていた。こういうときこそ、わたしたちが声を上げて、
人々を導くべきではないのだろうか? 津波が迫っているいま、やるべきことはひとつ、
全員が散り散りに逃げることだ。津波テンデンバラ。わたしたちの島の老人たちは、そん
なことを言っていた。津波が来たら、できるかぎりあちこちに散って、一人でも多く生き
延びる。それが、島で生きることなのだ、と。
でもわたしは、なんだか甘やかな気持ちを抱いたまま、お母様の背中にくっつこうとし
た。津波テンデンバラ? そんなの、馬鹿げてる。どうせ死ぬのだ。だったら、家族と一
緒に死にたい。名も知らぬ人たちのあいだで、名もない死体になんて、なりたくない。
そのとき、お父様と目があった。わたしはそのあまりに熾烈な視線に、金縛りにあった
ように動きを止める。お父様はわたしを見たまま、数回深呼吸する。
お父様は、ゆっくりと立ち上がると、大声を、本当にあたりの空気が震えるような大声
を出した。いつも穏やかで、一度も怒ったことのないお父様が、こんな声を出すだなんて、
信じられない。
「聞け、我が民よ! 我が最愛の民よ! もう、すぐそこまで津波が迫っている! 走れ
る者は、高台に逃げよ! 動けぬものは、捨ておけ! 走れ、走れ、走るのだ! 力の限
り走って、生き延びろ! これは、命令だ!
聞け、動けぬものよ! 私を、恨め! 九生生まれ変わってでも、私を恨め! お前た
ちを殺すのは天の災いではなく、私だ! だから、私を恨め! この惨禍を生き延びたと
しても、けして私以外を恨んではならぬ! 私はここで、お前たちと運命を共にしよう!
だから、私を恨むのだ! これは、国王の最後の命令である!」
死と混乱の真っ只中で、お父様は、とても、とても美しかった。そうしてわたしは、自
分がこんな素晴らしいお父様の血を受けていることを、誇りに思った。
けれど、人々への命令を終えたお父様は、わたしに向かっても同じ命令を繰り返した。
「ハナ、お前はみなと一緒に高台に走りなさい。王家の血を絶やさないのは、王家に生ま
れた人間の義務だ。このなかでは、お前が一番若い。お前が、一番長く、未来を持ってい
る。だから、走りなさい。これは私からの、最初で、最後の命令だ」
そのときわたしの中に湧き上がった気持ちを、どう表現したらいいのだろう?
怒り? 悲しみ? 生き延びられるかもしれないという、喜び?
いいや。
いいや。
断じて、違う。
きっと、あれが、絶望なのだ。
きっと、それが、孤独なのだ。
そうして、これこそが、わたしの、世界なのだ。
わたしは、ふらつきながら、その場に立ち尽くした。心が、痺れていた。素晴らしいお
父様。美しいお母様。凛々しいお姉さま。勇ましいお兄様。でもそこに、わたしの居場所
は、ない。
やがて、「失礼いたします」という涙声がして、丸太のような腕がわたしを抱え込んだ。
宮廷庭師のサミュエルだ。サムは抵抗しようとするわたしを抱きかかえたまま、この世で
一番高貴なひとたちに一礼すると、全力で走り出した。
涙で霞む視界の向こうで、どんどんみんなが小さくなっていく。その背景に、そびえ立
つ深い青が、壁のようにせりあがっていく。
サムは脇目もふらずに走り、島で唯一の高台を目指して疾駆する馬車を見つけると、最
後の力を振り絞ってその馬車と並走し、荷台から伸びる手にわたしを託すや否や地面にへ
たりこんだ。彼もまた、偉大な風景の一部、崇高な歴史の一巻へと、飲み込まれていく。
どこまでも深い、そしてどこまでも黒い壁が、わたしたちを飲み込もうと迫ってきた。
地震のときと同じような地鳴りの音が響き渡り、それを塗りつぶすようにおぞましい声が
響く。何千という人々が、同時にあげる、絶望の呻き。その声は、いつまでも、いつまで
も、わたしの耳の奥でこだまする。
津波が後ろから迫ってきて、やがて、馬車を飲み込んだ。馬が悲痛ないななきをあげ、
わたしたは馬車から放り出される。天地がひっくり返って、わたしは一連の災厄のなかで
初めて人がましい悲鳴をあげつつ、意識を失った。
わたしは、悲鳴をあげながら、目を覚ました。
いつもの、悪夢。夢だけど、夢ではなかった、悪夢。
Q――わたしの、新しいおとうさん――が、悲鳴を聞きつけて、上体を起こした。月明
かりがさす部屋のなかで、おとうさんの汗ばんだ肌が、とても綺麗に見える。
わたしは、「だいじょうぶ……」と言って、おとうさんに身体を預けた。おとうさんは、
わたしの頭を抱き寄せると、キスしてくれる。まだちょっと慣れないけど、あたたかくて、
ほっとする。
二人で抱き合ったまま、ベッドに横になった。わたしはおとうさんのちくちくとする無
精髭を指先で触り、真っ赤な長髪をくるくるともてあそんだ。おとうさんは眠そうにわた
しを抱き寄せると、ぼそりと言った。
「このシーツは、こっそり捨てなきゃな」
よくわからないけど、おとうさんがそう言うのなら、そうしたほうがいいんだろう。
わたしは目を閉じて、ついさっきまでのことを思い出そうとした。
「内緒にできるかい?」と聞かれて、頷いたこと。
おとうさんの舌が、わたしの口の中に入ってきたこと。
おとうさんの指が、わたしの胸を、おなかを、足を、そうしてわたしの恥ずかしい場所
を、撫でていったこと。
恐くなかったかと言えば、ちょっと、怖かった。
でもわたしは、ほんとうの恐怖を、知ってしまっている。「それ」は死ぬよりも、ずっ
とずっと、怖いものだ。「それ」に比べれば、何が起こるのかわからないだなんて、恐怖
でもなんでもない。
おとうさんが、わたしを愛してくれているのはすごく分かったし、それに、こうやって
おとうさんに触れられていると、そういえば以前の家では、お父様に直接撫でられたこと
は――頭であれ、手であれ――ただの一度もなかったことを思い出した。お母様は、よく
わたしをだっこしたり、撫でてくれたりしたけれど。
おとうさんの舌が、全裸で棒立ちになっているわたしの大事な場所を舐め始めたときも、
怖さより、なんだかぽかぽかとした安心感のほうが強かった。おとうさんの舌は優しくて、
そこを舐められる続けるうち、わたしはだんだん別の感覚を覚え始めていた。たぶんこれ
が、気持ちいいということなのかもしれないと思ったのは、おとうさんに「気持ちよくな
ってきたかい?」と聞かれたからだ。わたしが曖昧に頷くと、おとうさんはくすりと笑っ
て、いっそう丁寧にわたしのあそこに舌を這わせていった。
そのうち、身体がふわふわしはじめた。おとうさんの舌が、さっきまでとはすこし違う
場所を舐めていて、そこを舐められるとなんだかピリピリっとした感じがしてから、ふわ
ふわっとする。わたしはいつのまにか鼻声で変な唸り声を出していて、それがあんまりに
も恥ずかしくて、両手であわてて口を塞ぐ。それを見たおとうさんはちょっと強めに舌を
動かし始め、わたしはむぐむぐしながら、一生懸命、声が出ないように我慢した。
どれくらいそうしていたのだろう。わたしは、いつのまにか、身体がとろんとしている
ことに気がついた。なんだかカッカとする軸みたいなものが中心にあって、そこから何か
が滴るように、おなかの下のあたりに落ちていく。そうやって雫がたれるたびに、とろん
とした感じが広がっていく。
やがて、おとうさんはわたしから口を離すと、軽々とわたしを抱え上げ、ベッドに運ん
だ。おとうさんも、服を全部脱いだ。なんだか、心臓がドキドキする。
おとうさんが、わたしの上に覆いかぶさった。また、おとうさんの舌が、わたしの口の
なかに入ってくる。さっきまであんなところを舐めていたのにと思って、ちょっとびっく
りするけど、わたしの舌とおとうさんの舌が重なると、なんだかすうっと心が落ち着いた。
潮風で荒れた指先が、じんわりとわたしの両足の間に近づいていく。緊張するけど、お
とうさんとキスをしていると、安心感のほうが大きい。指先が裂け目を伝い、なんだかち
ょっとヌルっとしはじめたわたしのお肉を、押したり震えさせたりする。くすぐったい。
くすぐったくて、なんだか変な感じがする。
指先が、あのピリピリする場所を触り始めた。舌のときよりも強い刺激があって、わた
しは思わずおとうさんの身体を強く抱きしめる。
「すまん、痛いか?」
キスを中断して、おとうさんがそう尋ねる。痛いといえば、ちょっと痛い。でもわたし
は、首を小さく横に振った。そんなことより、キスしていたい。わたしはタコさんのよう
な口をしてみせた。
おとうさんは思い切り苦笑いすると、わたしにキスをする。そうして、指でわたしの大
事な場所を揺すり続けた。痛みが少しずつ遠のいていって、あのピリピリふわふわした感
覚が戻ってくる。ああ、これ、また変な声がまたでちゃう、でもキスしてれば大丈夫と思
った途端、おとうさんがすこし身体を引いた。自然と、キスも終わる。わたしはむぐむぐ
言いながらキスをせがんだけれど、おとうさんはにっこり笑ったまま、指を動かし続けた。
声が出そう。あわてて、またしても両手で口を抑えようとするけれど、おとうさんの大き
な手がわたしの手をしっかりと掴んだので、果たせない。
「おとうさんの、意地悪……」
頑張って、文句を言ってみる。そのときわたしは、自分が初めて、Qに向かって自然に
「おとうさん」と呼びかけられたことに気がついた。おとうさんもそれに気がついたよう
で、いつもどこか遠くを見ているような目が、じっとわたしを見つめている。
ここには、わたしの居場所が、ある。そんなことを、強く、思った。
それは思いなどというものではなく、確信だった。絶望は、あるだろう。孤独も、ある
だろう。でもいま、わたしたちは、ふたりで世界にいることを、許されている。
そんなことを、ゆるぎなく、確信した。
同時にわたしは、この確信を、いつまでも守ることなどできないことを、確信した。
熱い塊が、優しく、どこまでも優しく、わたしを二つに引き裂いた。
すうっとわたしの目から涙が落ちたけれど、それは苦痛のせいではなかった。
じゃあ、なんのせいだったのだろう?
わたしには、わからない。いつまでも、わからないのかもしれない。
窓を見ると、月は海に沈みかけていた。わたしは、おとうさんの暖かな身体に触れて、
もう一度まどろみの淵に落ちようとしている。
おとうさん。
わたしだけの、おとうさん。
暗闇の中でおとうさんの手を探りあて、しっかりと握り締める。わたしは、ここにいて、
おとうさんは、ここにいる。そんな単純なことを、確認する。そうすると、おとうさんも、
わたしの手をぎゅうっと握り返した。
(「ハナと、嵐」・完)
■底本
「私の男」(桜庭一樹)
「赤鬼」(野田秀樹)
■参考文献
海の男ホーンブロワー・シリーズ(セシル・スコット・フォレスター)
■用語について
第3章
HMS:Her Majesty's Ship. 女王陛下の船
スループ:ここでは3マストの軍船。シップ・スループ
ミズン・トプスル:後部マストのひとつ
ミズン・マスト:3本目のマスト
ブルワーク:船首部(大雑把)
第4章
マチェーテ:山刀
ハシシュ:大麻