@@1 何か変だ。 屋敷を何か緊張が取り巻いている。 何か空気に薄い皮膜でも張り合わせたかのような、 一つ一つの動作に何か制限でも掛かっているような、 空気中を泳いでいるようなそんな緊張感がある。 普通の人なら判らないかもしれない。 しかしこちとら捨て子の貰われっ子。なめてもらっちゃあ困る。 空気を読むことに掛けては万人に引けを取らない自信がある。 その僕が感じるのだ。 屋敷に充満する震えるような緊張感を。 確かに一見するといつもと変わらない。 若葉さんも、百合さんも文乃さんもいつも通りだ。 下女中の皆さんも朗らかでいつも通りだ。 何ら変わらない。 しかし何故だか強い空気を感じる。 何か、屋敷内の空気そのものに意思でもあるような・・・ まあ、気のせいなんだろうけれど。 もしかしたら女中さん同士で何かイベントがあったり、 こっそりと隠れて何か遊びのような事(例えば、何かのスポーツの結果で休みの日の演劇のチケットの争奪戦をしていたりとか)をしたりしていて、 その空気がそんな風に僕に感じさせているだけなのかもしれない。 @@2 「今日のお食事はどうでした?」 文乃さんがニコニコしながら聞いてくる。 お風呂前の一時の休憩時間である。 僕の部屋で文乃さんは僕の前に座っていて、手にはトランプを持っている。 小脇にはお風呂セットが置いてある。 文乃さんは生活担当と言う事で毎日の献立なんかを考えてくれたりしている上女中さんで今年19歳の優しいお姉さん、という感じの人だ。 口調も丁寧なんだけれどとても優しく問いかけてくれるから 一緒にいるとなんだかとても落ち着く。 ここに来たばかりの頃は仕来りを知らなくて迷惑を掛けてしまった時など 百合さんに怒られては文乃さんに慰めてもらっていた。 今ではこの2人が怒り役と慰め役で僕に色々な事を教えてくれていたんだという事位、判っているけれど。 因みにその頃、若葉さんは何故だか僕と一緒になって怒られたり慰められたりしていた。 文乃さんは落ち着いた口調と同様、外見も全体的に柔らかい感じがする。 シャープな印象の若葉さんや百合さんとは違う。 地毛だそうだけれどちょっと明るめの髪は緩やかなウェーブが掛かっていて私服を着ているときはなんだかどこかのお姫様のように見えたりもする。 街にでればきっと凄くモテるんだろうなあと思うのだけれど、 文乃さんは人込みは苦手との事で休みの日もいつも屋敷の中にいるし、 僕が外出する時も若葉か百合さんが同行する事はあっても文乃さんが同行する事は無い。なんだかちょっともったいない気もする。 そんな文乃さんの質問で、 そういえば今日の夕食はなんだか物凄く豪華だった事を思い出す。 「ええと、今日は凄かったね。鰻と、白子とニンニクの丸揚げ。あとヤマイモのとろろ。あと不思議な味がしていたけどあのスープみたいなのは何だったの?」 「南米はペルーという国のマカという所で採れる、 日本で言えば蕪のような植物を使用したスープです。 ちょっと苦味がありましたからミルクを入れて味を調えさせました。」 「あれも凄く美味しかったよ!」 凄くまろやかだけど、なんだかとても元気になりそうな味だった。 「そう、それは何よりです。 秀様に喜んで貰えると私も遠くから取り寄せておいた甲斐があります。」 そんなに珍しいものを態々取り寄せておいてくれたらしい。 あ、とその言葉で思い出す 「そういえば珍しく叔父さんとは全然違う献立だったね。」 叔父さんの献立は叔父さん付きの上女中さんが考えるのだけれど、一緒に食事をする日は大体同じ内容になるよう、文乃さんと叔父さん付きの上女中さんで打ち合わせておくのだと聞いたことがある。 今日は叔父さんの食事と僕の食事が全然違っていたので 叔父さんが「おいおい、秀のは豪華だなあ」等と目を丸くしていた事を思い出す。 そんなに珍しいものなら叔父さんの食卓に上ってもおかしくないけれど あのスープは僕の方にしかなかった。 「ご当主様に同じものを食べさせたら今日のお夜伽の女中が次の日仕事にならないから出せませんと向こうの上女中が・・・んん!ん! ん。食べ盛り、育ち盛りの秀様とご当主様では食事の中身も多少変えてお出ししないといけないのです。そういう配慮です。」 「そうなんだ・・・。所でオヨトギって何?」 聴きなれない言葉が出てきたので聞き返す。 オヨトギの女中だから何かの場所だろうか。 それとも役目だろうか。 なんかの植物っぽい単語だけれど。 「・・・そんな事私、言いましたか?」 ついと文乃さんが目を逸らす。 「・・・今、言ったけど・・・」 「聞き間違いですよきっと。はい。上〜がり。」 と最後のカードを場におかれる。 「あっ!ああああああ・・・」 話に夢中になっている間にいつの間にかゲームは文乃さんが上がっていた。 「私の勝ちです。そうですねー。今日の罰ゲームは何に致しましょうか・・・。」 「お手柔らかに・・・」 文乃さんはふふん。と笑う。 僕と文乃さんは大抵お風呂に入る前にカードゲームをやる事になっている。 負けた方が罰ゲームだ。 大抵文乃さんの罰ゲームは次の日の夕食に僕の好きなものを入れる事になって、 僕の罰ゲームは体に良い、でも僕の好きじゃない食べ物が次の日の夕食に入る事になっていた。 「あーあ。」 明日は菜っ葉のお浸しにでもされるのかなあ。と考えつつ文乃さんの顔を見る。 けれど文乃さんはいつもの様に柔らかく笑いながらいつもじゃない事を言った。 「うーんと。いつもいつも明日の夕食の内容じゃ、飽きちゃいますよね。  今日の罰ゲームはいつもとは違うものにしましょうか。  お風呂場で出来る罰ゲームなんてどうでしょう。」 そう言いながら僕の頭を柔らかく撫でて。 さ、お風呂に入りましょう。と言いながら 文乃さんは傍らのお風呂セットを持って立ち上がった。 なんだか文乃さんがいつもとちょっと違う雰囲気だなあと思いながら、僕も立ち上がる。いつも前を歩く文乃さんが僕の横に来て、行きましょうと言う。 文乃さんは年上だけれど背は僕より小さいんだなあと。 僕は、今まで思った事の無い事を思った。 @@3 「百合さんさぁ。」 「ん、何?」 湯船の中から声を掛けると百合さんはこちらを見ずに声を返してきた。 相馬家のお風呂はご当主様、若様用と上女中用、そして他の使用人用と3つに分かれている。 私達は上女中用のお風呂に入るわけだが使用人用とは言ってもそこそこ広い。 5人位は余裕で入れるので休憩に同時に入ったような日は 文乃や百合さんと一緒に入る事もある。 百合さんはカラスの濡羽色とはこういう髪の色を言うのだろうという感じの 長い黒髪を漱いている。 この人は本当に同姓から見ても立ち居振る舞いが綺麗だ。 なんというか、昔風と言うか。 お風呂場での百合さんを見ているとカポーンという音が どこかからか聞こえてきそうな気がする。 「…え〜っとさ、今日の文乃が言ってた事。本当なの?」 「文乃が言ってた事って?」 「……その、百合さんが処女って事。」 百合さんがぴたりと止まる。 「い、いやだってさ。百合さんだよ百合さん。沙織さんの再来と呼ばれて次代の女中頭とか言われてる」 「…あの妖怪の再来ぃ?」 「だってさ。」 言いよどむ。すると百合さんはくすくすと笑った。 「…もう。何で私が処女なのが不思議なのよ?」 「だって。百合さん結構どころかかーなーりモテてたでしょう? 高校の時は女子生徒で初めての生徒会長だったし、 今だってお見合いの話がわんさか来てるって話だし。」 「モテるなら文乃の方がモテるわよ。 あの手の一見お嬢様で守りたくなるタイプに男の子は弱いのよ。」 学校じゃ相馬の家のご令嬢じゃないかって噂が絶えなかったのよ文乃。 と言いながら百合さんはくすくすと笑う。 「だって文乃はあれじゃない。 高校の時だって学校終わったら屋敷に即直行でしょ。 恋人なんか居たわけないし。 百合さんはよく門限ギリギリになってたじゃない。 学校時代とかそれ以降とか何も無かったの?デートとか。」 「よく見てるわね。・・・ま、お誘いは多かったけど。」 「え、ええ!?誰かと付き合ったことあるの?」 百合さんは笑う。 「どっちにもびっくりするんじゃない。映画は何回か行ったかな。誘われて。 野球部の人でね。」 エースの人。と百合さんは笑いながら髪の毛を結い上げて、 じゃばんと私の横に身を沈めて来た。 「え、え、それで、それでどうしたの?」 「どうしたのって若葉が期待するような事はなにも。 何回か映画に行って、何回か手紙のやり取りをしてそれだけ。」 「なあんだ。つまんない。キスとかもなし?」 がっかりとしてしまう。 「ないよ。まあ、付き合ってもいいかな。と思うことはあったんだけどね。」 そういって百合さんはぶくぶくとお湯に沈む。 百合さんにしては珍しい、歯切れの悪い受け答えだ。 「好きだったの?」 「嫌いじゃなかった。」 「じゃあなんで?」 「時間が無かった。」 「嘘。」 ここはとても労働環境が良い。 そのうえ若様はとても良い子だ。 そんな時間なんてその気になれば幾らだって作れた筈だ。 と私は百合さんに言う。 と、百合さんは少し驚いた顔をした。 「若様が良い子。だと若葉は思うの?」 「う、良い子って言い方は良くないかもしれないけど。」 「そう、ううん。たしかに良い子。若様は。とても良い子。」 若葉はそう思うのね。と百合さんは続ける。 「何?違うって言うの?」 「違わない。でも私は若様付きの上女中としてずっと心配だったから。今もね。」 「何がよ?」 イライラとして私が聞くと百合さんはこちらを見てちょっと寂しそうに笑った。 「良い子、なんだよね。若様。誰から見ても。」 それから湯船の中で、しゃんと背筋を伸ばして正面を見た。 なんだかいつもの会議の時みたいな格好だ。 「歴代のご当主様はね。とても我侭だったそうよ。子供時代。 今のご当主様もね。もう沙織さんに聞いて驚く位。 我侭と言うより無茶苦茶。 それはそうよね。こういう閉鎖的な場所で育てられるのだもの。 でも私は思うの。その我侭さはきっと必要な我侭さだって。 我侭に我侭に育って貰って。 で、徐々に色々な事を知って頂いて、我侭と我侭じゃ駄目な事を知って頂く。 これが本当の上女中の仕事なの。 何故ならご当主様は、いざと言う時にとても我侭にならなくてはいけないから。 お前は死ね、お前は生きろと選択をする事すらある。 我侭で、他人の事なんか一つも考えないで。 そうじゃないと選択できない事もあるから。」 私が黙ると、百合さんは続けた。 やっぱり寂しそうな顔で。 「ねえ、若葉。お母さんに捨てられて、不良にならない子ってどう思う? 私はね、…おかしいと思う。 あなたが一番、世界中で一番可愛いくて良い子ねって言ってくれる人が自分を捨てて、 平気で居られるわけがないもの。 他人を妬んで、傷つけて当たり前。 若しくは自分の殻に閉じ篭るか。どっちかになって、当たり前。」 「でもそれは」 百合さんの横顔を見て、私は私達がいたからと言う言葉を呑み込んだ。 それ位厳しい顔をしていたから。 「若葉は秀様の事、好きよね。ううん。言わなくたって判る。 言葉だけじゃない。立場とかじゃなくて本当に好きよね。 文乃もそう。文乃も若様に夢中になってる。 あの子の場合、ある意味若葉よりずっとね。 でもね、そうやって私達上女中が若様を好きになるのって正しいのかなって。 私は思うの。 沙織さんが昔、私に笑いながら言った事があるの。 私、昔はご当主様にこのクソガキって300回位思ったのよって。 ね。 私は若様にクソガキだなんて一回も思ってない。 ね。今のご当主様はそうなの。 多分、昔のご当主様も。 ね、私達の顔色を読むような、私達に優しいご当主はご当主じゃない。 そうなんじゃないのかな。 私達に優しいご当主様なんて。 優しくて、私達が好意を持ってしまようなご当主様は ご当主様としては失格なのかもしれないんじゃない? 私達は何か間違えているのかもしれない。 ね、今回の事も。 私達は本当は上女中の名誉の為に抱かれなきゃいけないんじゃないのかって思う。 ね、若葉と文乃、そうなったとしたら2人とも御手付きにされたって思うのかな。 そうじゃないんじゃない? 好きな人に抱かれたって、そう思うんじゃない? ね、間違ってるんじゃないかな。それ。 少なくとも女中会議の時、ご当主様の上女中は名誉の為に自分達から候補者を出したいと、そう言い切ったよ。 多分今のご当主様の時もそうだったんだと思う。 でも私達は違った。 若葉も、文乃も本気。それも若様が来てからずっと。 ご当主様の上女中と私達若様付きの上女中の違い。 その違いは正しい違いなのかな。 上女中として正しく出来ているのかな私達は。私はずっとそれが心配。 今更どうにもならないのかもしれないけれど。 若様はね、今までのご当主様とは多分、違うの。 だから今までのやり方じゃあ、私達は駄目なのかもしれない。 ね、思うんだ私。 もしかしたら、もしかしたら私達は本当は相馬家の上女中の中でも始めての、 前例の無いやり方を若様にしていかなくてはいけないのかもしれないんだって。 そう考えたら、私はとても怖い。怖いと思う。 もし、沙織さんの真似をしてもそれが全く駄目なんだとしたら。 どうしたらいいのかなんて、私は判らない。 」 正面を向いたままそこまでいうと百合さんは一つため息をついて、こっちを向いた。 「で、私は若様をどう思ってるのって顔してるわね。若葉。」 「う、うん。」 百合さんが厳しい顔のままなので思わず緊張したまま頷く。 その瞬間、ふにゃんと百合さんは顔と体勢を崩した。 「抱かれたいに決まってるじゃない。」 「え」 「私ロリコンだもの。ロリコンって言わないのかな女の人の場合は。」 「えええええええええ、今までの話はあ?」 がっくりと脱力する。 「今までの話は上女中としての私。 何で処女なのって若葉言ったでしょ。 若様としたかったからに決まってるじゃない。 野球部の人を見て、帰ってきて若様を見て、もう全然。 私駄目だなって思っちゃった。 もう、若様可愛くて可愛くて仕方ないもの。私。」 「真面目に聞いて、損した・・・。」 百合さんはすでに隣で目を輝かせている。 真面目な顔をしたと思えばこうやって可愛くなる所が百合さんはずるい。 美人なのか可愛いのかはどちらか一方だけにしておくべきだ。 「あーあ。今日の会議、失敗したなあって。 女中会議から持ち帰ったなんて言わないで、 もう最初から私に決まったって言っておけばよかったなぁ。」 「ちょちょっと!百合さん。」 「ちょっとした友情を見せたお陰で、賭けなんてする羽目になってさ。 あ、どうするのよ、若葉。どうせ色々考えてるんでしょ。」 「敵には言いません。百合さんこそあれでしょ。  勉強教えてる時に胸元とか開ける予定でしょ。」 夜の遊び時間にテレビを一緒に見ながら膝の上に乗ってもらって あれ、若様大きくなってない?どうしてかなーなんて作戦は言わない事にしておく。 「私も言いません〜。」 百合さんがふんにゃりしながら言う。 「あ、でもさ、今日私文乃があんな事言うなんて思わなかった。」 私が言うと百合さんは湯船の淵に顎を乗せてにやにやと笑った。 「ふふふ。それは若葉、文乃を判ってないなあ。 まあでもそれにしても今日の文乃、気合入ってたよねえ。 なんだかんだ言っても、あの子がある意味一番夢中だからねぇ。若様に。」 文乃はこわいよう、と百合さんは冗談めかした声で言う。 「なんでよ。私だって。」 若様に夢中よと言おうとして百合さんにちっちっちと止められる。 「あの子はね。特殊。性欲とか、恋とかそんなんじゃないから。」 「じゃあなによ。」 「んー。」 暫く考えてから、百合さんは答えた。 「大岡越前かな。」 「おおおかえちぜん?」 「そう。ここに1人の子供がおります。2人の母親が両方、 その子供が自分の子供だと言っていました。って奴」 「あ、知ってる。両方から手を引っ張れって奴でしょ。」 「そ。離した方がより子供を考えているっていうやつね。」 「そうそう、それ。」 それなら知っている。昔何かの本で読んだ。 「文乃はね、離さない方。」 「何それ。じゃあ駄目じゃない。」 そう言うと百合さんはちょっと首を傾げた。 「うーん。そうなのかな。 でもね、多分文乃はどうしてもね、離せない。 それが愛情だって判っていても、離せない。 そういうタイプ。」 「わかんない。」 ん、判んなくていいよ。と百合さんは言いながら じゃばじゃばと行儀悪く足でお湯をかき混ぜた。 「文乃はどういう作戦で来るんだろうね。興味あるなあ。 お風呂に入っているボーっとした頭じゃ、思いつかないか。」 「そだねーま、どっちにしろ明日からどう出てくるかだね。」 「だねー。」 「うーん。お風呂でボー。お風呂、お風呂・・・・・なんか忘れてない?」 「なんだろうねえー」 2人して湯船の淵に顎を乗せて呟く。 段々茹だって来た。 うーん。何か忘れているような気がしてならない。 /後編へ続く。