優しさを君に  最近、夜中に目が覚める。  家族は幸せそうに夢の中にいるのに。  世界中から取り残された気になって、涙がこぼれる―――。  そうだ、息抜きにパソコンでもしよう。  そう思い立つと自室に置かれたパソコンの電源を入れる。  入退院を繰り返す可南子の為に、両親が買ってくれたパソコン。  普段は、いつ喘息の発作が起こるか判らない事や人ごみへの著しい恐怖感が原因で 両親に外出を止められている。  結果、自宅と病院、その帰りによる本屋と雑貨屋、月に何度かの通学―――私立で女子 のみの通信制に通っている―――が世界のすべてだった。  通学の時は父親が車で送迎してくれて、多少気恥ずかしさもあるのだが、 電車に乗れない可南子にとっては仕方が無いことだった。  時々は外出する事もあるが、せいぜい最寄り駅の駅ビルまで。  そこから電車に乗って自分の住む町から外に出る事もままならない。  けれどもパソコンが来るようになってから、世間で起こる様々な事を 知るようになった。  自作の小説やイラスト、漫画などを掲載しているサイト。  おいしいお菓子や料理のレシピが手に入るサイト。  趣味がどんどん広がっていった。  いまではなくてはならない存在になりつつある。  テレビはあまり好きじゃない。  ドラマの世界は自分のいる世界とはかけ離れているし、歌番組は好きな アーティストが出る時に見る位で。 「あ、メールが来てる」  パソコンにはペットがメールを持ってきてくれるソフトを入れてある。  早速ペットのりゅうたろうに取ってきてもらう。 『かなこちゃん、、もってきたよ』  りゅうたろうを撫で、おやつをあげて、早速メールを読む。 『親愛なる可南子ちゃん。  こんにちは、可南子ちゃん。 お加減はどうですか?  今度の受診日まで時間があるから、元気かな?と思ってメールを書きました。  君の病気は発作さえ出さなければ、普通の暮らしを満喫しても平気だから、 気分のいい日には外出する事も良いと思います。  もう少しすると、金木犀が香る季節ですね。  では、短いですが今回はこの辺で。  担当医、橘 直樹より。』   短いメールだったが、可南子にとっては天にも昇る気持ちになる。  橘は、可南子が通っている呼吸器内科の医師で、幼いころから通っている 医院で働いている、比較的若い男性だ。  銀縁の眼鏡に清潔そうな容姿。  普段人と接する機会が限られている可南子にとっては憧れの存在だった。  優しくて、可南子が好きそうな本の話を教えてくれる。  趣味の合うお兄さんに抱くような憧れと、発作を起こした時に助けてくれる頼もしさ。  それが入り混じって、淡い恋心を抱くようになっていた。  往診にもちょくちょく来てくれる。  元々その病院の規模は小さく、血縁関係は無い物の院長先生にも信頼されているので、 将来は病院の院長先生になるはずだ。 「再来週かぁ…」  カレンダーには病院の受診日が書き込まれている。  よし。 気分も良いし、明日具合がよかったらお散歩しよう。  あと、橘先生の机の上にあった本を買って―――。  そんな事を考えたら気分が良くなってきた。  ベッドに入って目を閉じる。  橘先生が夢に出てきたら良いな。  翌日。  母が起こす前からベッドから出て、お気に入りの淡いピンクのツインニットに こげ茶色のプリーツスカートを身に着ける。 「あら、可南子おはよう。  珍しいじゃない?」  キッチンから階段を下りてくる可南子を見、声をかけてくる。 「うん、今日は気分がいいからお散歩でもしようかな、って。  ママ、良い?」  リビングダイニングにある、テーブルにはおいしそうなサラダがおいてあった。  スモークサーモンのサラダは、可南子が一番好きなメニューだ。 「そうね、今日は天気も良いみたいだし、携帯電話と吸入器、お薬手帳を 持っていくなら良いわよ?」 「ありがとう!」  そういい終わるや否や、父親が現れた。 「何だ、カナちゃん、今日はお出かけか。  パパが車だそうか?」  タクシー運転手である父親は、遅くまで寝ていることも多いのだが、 今日はなぜか早起きしたらしい。 「ううん、いいの。 自分の足で歩いてこそ意味があると思うから。  ありがとうね、パパ」  朝食を済ませると、ちょうどいい時間だったので出かけることにした。  最寄の駅までバスで15分。  駅ビルが開くまで時間があるけれど、スターバックスにでも寄って、 大好きな抹茶フランペチーノでも頼んでぼんやりするのも良いかもしれない。  お気に入りであるキャンバス地のかばんに携帯電話やいざという時の為に、 吸入器やおくすり手帳(これがあると飲んでる薬や、そこからどんな病歴があるか わかるので緊急時の時には助かる)も入ってるし。  そうだ、いつも読んでいる大好きな少女小説も入れておこう。  バスの中や、スターバックスで読めるし。 『毎度○○バスをご利用いただきありがとうございました。  次は終点、△□駅前、△□駅前でございます―――』  アナウンスが聞こえたと同時に少女小説に栞を挟み、カバンにしまう。  小さな駅ビル。  西館には本屋さんやCDショップがあり、東館はもっぱらお惣菜や食料品などが 並ぶ名店街のような感じだ。  南館は洋服屋や雑貨屋があって、若い女の子好みのつくりになっている。  まだ駅ビルが開く時間ではないので西館一階にあるスターバックスに入る。  店員から抹茶フランペチーノを受け取ると、窓際の空いている席に座り、外を眺める。  あの人はOLさんかな。 でも元気に働けるのってうらやましいな。  あ、赤ちゃん抱っこしてるお母さんもいる。 いいな。  駅ビルが開く直前、入り口に入る。 「いらっしゃいませ△□ショッピングモールへようこそ。  ゆっくりとお買い物を楽しんでいってください」  扉が開くと同時に、店員さんがお辞儀して迎えてくれる。  可南子はこの瞬間が好きだ。  平日なので開店してしばらくは人が少ない。  人ごみや視線が怖い可南子にとっては幸せなひと時だ。  ウィンドウショッピングを楽しんでいる最中のことだった。  急に喘息の発作が出てきた。  久々の外出と、睡眠不足がたたったのだろう。  …落ち着いて、確かもう少し歩いたところにベンチがあるから…。  自分自身を励ますように暗示をかけながら、ベンチにたどり着く。  やだな…走ったりしてないのに。  とにかく落ち着いて…楽にしてれば…やり過ごすことが出来るから。 「あら、どうしたの?お嬢さん」  親切そうなおば様が話しかけてきた。 「あ…ちょっと喘息の発作がでちゃって…たいしたことはないのでお気遣い無く…」  一生懸命笑顔を作って、返事をする。 「喘息なんていったら大変よ? かかりつけの病院に行ったほうがいいんじゃないの?」 「いえ、もっと…ひどくなるようなら…吸入器持ってますし…」  だんだん話すことも苦しくなってくる。  気が付くとわたしは病院のベッドで点滴を受けていた。  先ほどのおば様が見るに見かねてタクシーでここに連れて行ってくれたのだ。 「村山さん、体調はどうですか?」  看護婦さんが話しかけてきた。 「あ、平気です」 「ずいぶん大きな発作だったみたいじゃないの? 最近は落ち着いてたみたいだけど」 「……」  自己嫌悪に陥る。 「あら、そんな気にしなくて良いのよ?  どうする?おうちの人を呼んで帰る? それとも若先生に送ってもらう?」  時計を見ると、診察時間を過ぎていた。 「…橘先生の都合がよろしければ送っていってもらいたいです」  悔しくて涙が出る。 何がいけなかったんだろう。  看護婦さんは点滴室から出ると、わたしの家に連絡をして、橘先生が送ってくれる事を 告げた。  「おまたせ。 じゃあ行こう」 「あ、はい」  最低限の明かりがついた待合室を出ると、入り口に鍵をかけ、駐車場へと向かった。  往診に使う車ではなく、橘先生が通勤に使う車。  軽のかわいらしい車というところが、橘先生らしいな、と思う。 「はい、可南子ちゃん」  そういうと橘先生は後部座席の扉を開けてくれた。  …助手席には乗せてくれないんだなぁ。  もう、乗せる相手がいるのかな。 そんな事を考えてしゅん、となった。 「シートベルトはきちんと、ね?」  後部座席でももらい事故で思わぬ怪我に襲われる事があるから。 それが口癖だった。  カーラジオでは知らない誰かのつまらないバラードが流れていた。  二人きりで、緊張する。 毎回そうだ。  それを悟られないように、少女小説の続きを読む。  内容は、というと、高校生の他愛もない日常が描かれているものだ。  普通に学校へ通い、クラスメイトと恋をする事もままならないわたしにとって、 疑似体験が出来る、そんな内容だった。 …ただ、内容に集中できない。  診察室や往診に来た時、二人きりになることが多い。  もちろん診察室の場合は呼べばすぐ看護士さんが来てくれるけど。  けれども車に乗っている時はいつも以上に胸が高鳴る。  …だめだよ、わたしなんて。 可愛くないし、胸だって小さいし。  橘先生にはもっと大人で美人な人が合うに決まってる。 「今日は駅ビルで大きな発作を起こしちゃったみたいだね」  急に話し掛けられ、栞も挟まずに本を閉じた。 「はい…」 「最近は調子良いみたいだったのにね」 「…でも最近寝不足で。  それがたたったのかもしれません」 「そっか。 あまりにひどいようなら軽めの睡眠導入剤とか処方するけど」 「あ、でも大丈夫です」  二人っきりの時間はあっという間に過ぎる。  鍵を開けると扉が開く。 そこには母がいて、出迎えてくれた。 「すみません、いつも送っていただいて」 「いえ、これも仕事のうちですから」  それを聞くと可南子の胸がチクン、と痛んだ。 「あ、ついでだから往診して行って良いですか?」 「わたし、部屋散らかってるから片付けてくる!」  スリッパを履くとわたしは自室へと向かった。  別に散らかっているわけではないけど。  なんとなく恥ずかしくて、ベッドメイクしたり、自室用の小さな掃除機をかけた。  そのうち汗ばんできた。  ツインニットのカーディガンを脱いでハンガーにかけると、橘先生を呼びに行った。  リビングではママと橘先生が楽しげに談笑していた。 「お待ちどうさまでした。 どうぞ…って」  よく見ると、わたしの幼いころのアルバム。 「いやぁぁぁぁ! 見ないで」  顔から火が出るような気分だ。 「あなたが時間かけてるからでしょう?」 「…橘先生、行きましょう」  手をつかんで、二階の自室へと向かった。  そういえば、診察以外で橘先生に触れるのは初めてだ。  大きい手。 細身の橘先生からは想像も出来ない気がして、ドキドキした。 「ん、じゃあ音聞くからいいかな?」  ツインニットのアンサンブルをまくり、キャミソールの上から聴診器を当てる。  …直でも良いのに。 そんな事を考える。 「ん〜、ちょっと音が乱れてるね。  ホクナリンテープはちゃんとつけてるよね?」 「はい」  そう言うとキャミソールをまくり、胸にはってあるテープを見せる。 「…見せなくてもいいです。 そういえば最近眠れてないんだよね?」 「はい」 「う〜ん、それで体が疲れちゃったのかもしれないね。  睡眠導入剤は本当になくて大丈夫?」  カルテがわりのメモ帳に、色々書き込む橘先生。 「…先生」  俯いて、Yシャツの袖をつかむ。 「どうしたの?可南子ちゃん?」 「眠れないのは…原因わかってるから」 「?」  橘先生の胸に飛び込む。 「橘先生がいけないんです。 わたし、橘先生のことが…」 「ストップ。 患者さんが医者に過度な期待を持ってもダメです。  多分、苦しさから開放してくれるのを恋心と勘違いしているだけですから」 「違います!」   そういうと、強引にキスをした。  初めてのキス。 橘先生のカサカサした唇の感触が伝わる。  「…っ。  可南子ちゃん、ダメですよ…」  唇が離れると、顔を赤くした橘先生がいた。 「君は患者さんで、僕は医師なんですから」 「いやです。 わたし、橘先生のことが好きです」  そう言うと再び顔を近づけてキスをした。  本で見聞きしたような、大人のキス。  ゆっくりと唇を開け、橘先生の口に下を滑り込ませた。 「んっ…ん」  本で疑似体験するしかなかった世界。  わたしはそこに踏み入れようとしてるんだ。 「可南子ちゃん! …いけませんよ」  わたしの肩をつかみ、離そうとする。 「やです…ほら」  ブラもはずし、橘先生の手を胸に当てる。 「すごくドキドキしてるでしょう? …橘先生だから、ドキドキするんです」 「……」  困ったような表情の橘先生。 「だめです。 こういうことは一番好きな人とするべきです」  そう言うと手を胸からはずし、帰り支度をし、立ち上がる。 「わたし、橘先生が一番好きな人なんです!」   橘先生の広い背中にしがみつく。 「初めては…橘先生がいいです」 「痛いですよ?」  以前読んだ本に、初めての時は痛みや出血を伴うと書いてあった。  それを読んで怖くなった時期もあった。 「橘先生がくれる痛みなら…寧ろ幸せな痛みです」  後ろからぎゅ、っと抱きしめる。 「―――わかりました」  ママには『夜に発作が起こるかもしれないので、病院に一泊させていいですか?』と言い、 許可を取ってくれた。  じゃあお任せします、とママが言った時、わたしは自室へと急いだ。  急いで入院セット―――とはいえ、一泊だから小さなかばんに入るほどだ―――を用意し、 車で待つ橘先生の元へ向かう。  いつもは後部座席のドアを開けて外で待っていてくれるのに、今日は助手席を開けて 待っていてくれた。 「じゃ、行きましょう」  いつもはラジオなのに、MDをかけてくれる。  大人っぽい、ジャズが流れる。 「昔、そこの席に座っていた人が好きだったんです、この曲」 「……」 「彼女は体が弱くて。 それでも病院を経営する家族の力になりたかったんでしょうね。  看護士になる学校に入学し、見事看護士になることが出来ました」  どこか遠いところを見ているような気がする。  多分、昔掃除婦の人に聞いた『院長先生の娘さん』の事だろう。  そっか、だから血が繋がっていない橘先生が次期院長…とか若先生って呼ばれてるんだ。 「でも。 …ある日二人で出かけた時にもらい事故で、帰らぬ人になりました」 「……」 「怖かった。 また誰かを好きになったときに失うのが」 「平気です。 こう見えてしぶといですから」  どこかおびえた表情の橘先生ににこっと微笑みかける。 「…貴女が勇気をくれました。 ありがとう」