Young Dream





 女という存在は、正直言って嫌いだった。
 母親は、幼い自分を捨てて何処かに消えた。父親が次々に連れて来る女達は、自分を見ようとはしなかった。
 だから、嫌いだった。信じられなかった。近寄りたくもなかった。
 それが母親のような大人でも、父親が連れて来るような年若い娘達でも、どちらでも同じだ。
 どうせ、心を開いたってすぐに逃げてゆく。離れていく。それだったら、最初から近付かなければいい。これ以上傷付かぬ内に。傷付けられぬ内に。



 そんな、歪んだ女性観を持っていた12歳のホームズの目を覚ましてくれたのは。
 彼より2〜3歳ほど年下の、一人の少女だった。
 真紅の髪と翡翠の瞳を持つ、小柄で華奢な愛らしい少女。
 たまたま父親に連れられて向かったイルという辺鄙な孤島で出逢った、彼の初恋の君である。



 そして、もう一人。
 恐らくこの世界でこいつ以上にむかつく奴には出会えないだろうと思わせる少年にも会った。
 青空色の髪と闇夜の色を映した目を持った、どこか手負いの獣のような危険な眼差しをしていた少年。
 あらかじめ同い年だと聞かされていなければ、2〜3歳は年上に感じたのではないだろうか。年齢不相応に落ち着き払った、嫌味な奴だった。
 この少年は、一目で嫌いになった。

 何故か?答えは簡単である。

 彼は、件の少女に対して、執拗なまでの執着を見せていたからである。



 つまり、ホームズにとっては、恋敵。
 当然、当時は幼い恋心も嫉妬心も、そんな明確に意識していた訳ではなかったのだが。



 今となっては、もう遠い日々。甘くてほろ苦い、そんな澄んだ青色をした思い出の一幕。
 例えば、この先誰を心の中に住まわせても。あの、どこまでも純粋でいられた日々を忘れる日は、恐らく来ない。
 それは一生に一度の、二度と戻らぬ懐かしき風景。




















 爽やかな潮風が、頬をくすぐって吹き抜けてゆく。
 無邪気な歓声を上げて乱れた髪を抑えるカトリを、ホームズは軽く小突いて笑い飛ばした。その声には意地っ張りで天邪鬼な響きは感じられない。
 揶揄してくる人間さえいなければ、少しくらいは素直になれるのに。
 そんな事が、彼の頭の片隅にちらりと過ぎる。ぎこちなく柔らかな感慨を慌てて打ち消す事がなくなったのは、…………せめて自分の心の中だけでも、この少女に対する感情を認めてしまおうという気になったのは、さていつからだっただろうか。
 「潮風が気持ちいいね、ホームズ。私ね、よく考えたらあまり船には乗った事なかったの。皆と一緒に旅してた頃は、陸路ばっかりだったものね」
 「そう言えばそうだったか?あんまり実感ねぇな」
 「そうなの!それに、こんなにゆっくりした気持ちで船に乗るのは初めてかも。こんなに気持ち良かったんだね、船旅って。お父様やお母様には悪いけれど、私、嬉しいの。またホームズ達と旅が出来て」
 「…………お、おぉ、そうだろー。いや、あれだ。やっぱり海の男が一番だなっ」
 何気ない他愛ない遣り取りが、この上なく貴重なものに思える。
 我ながら、随分いかれたものだ。
 少し照れを感じた。表情を隠す為に、いつしか緋色の髪を靡かせた少女に釘付けになっていた視線を逸らす。その先にあったのは、もう見慣れた二人の仲間の姿だった。
 見る者を柔らかく包み込むような優しい緋色のカトリの髪とは違い、触れた者を焼き付くさんばかりに激しく燃える紅の髪。さらさらと風に流れるそれに指を絡ませているのは、闇色の目に酷く穏かな光を浮かべた青年。
 とても自然に寄り添っている二人の姿に、一瞬だけセピア色の情景が重なった。
 「…………あいつらとも、こんなに長い付き合いになるとは思ってなかったんだけどな」
 ホームズにしてみれば、意図せずに洩れた独り言。しかし傍らには、好奇心旺盛なカトリがいる。
 「あいつらって、シゲンとジュリアさんのこと?どうして?ホームズ、二人とすっごく仲いいじゃない」
 「昔は悪かったんだよ。ってか、シゲンとはお互いツラも見たくねぇって程に険悪だったんだぜ」
 「え〜〜?」
 目を白黒させているカトリに、ホームズはつい苦笑した。
 人類皆兄弟、そんな平和でお気楽な思考回路の持ち主の彼女には、きっと想像も出来ない事なのだろう。
 かつて、まだ彼が心身ともに幼い少年だった頃。
 一人の少女を間に挟んで、今では無二の相棒となった男と激しく火花を散らしていた事なんて。





 賑やかなグラナダで生まれ育ったホームズにしてみれば、イルという島は退屈なだけの辺境でしかなかった。
 友人に会いに来たとか何とかヴァルスは言っていたが、、父の女癖の悪さをしみじみと知り尽くしていたホームズにしてみれば、嘘臭い事この上ない。どうせ密かに囲っていた愛人にでも会いに来たんだろう、子連れで愛人に会うなんて何考えてやがるんだ、と、この年頃の少年にしてはやけにすれた感慨を抱いていたものである。
 しかし、島の奥に建てられた古びた館の奥に待っていたのは、確かに妙齢の女性などではなかった。父よりも少し年嵩に見える、巖のような雰囲気を漂わせた壮年の剣士。彼が「ゾーアの暗黒剣士」と呼ばれる伝説の剣士なのだという事は、この出会いの少し後に知った。
 (親父の言ってた事、珍しく本当だったのか)
 そんな、かなり不届きな事を思っていたホームズだったが、だからと言って警戒心が完全に解けた訳でもない。大人同士の会話なんて面白くもないし、そもそも彼が同席していなければならないという理屈もない。
 こんな何もない島で、何をしていろというのか。第一、自分で望んでここに連れて来てもらった訳ではないのだ。ありがた迷惑、余計なお世話。そんな心情が顔にも表れていたのかもしれない。少しだけホームズの表情に目を留めたヨーダは、何かを思い出したように奥に向かって手招きをした。
 扉の影から、おずおずと顔を覗かせたのが、彼女。
 昔から変わらぬ紅の髪を肩に流した、零れ落ちそうな程に大きな瞳をした少女。
 人見知りするように忙しなく辺りを彷徨う翠の瞳の不思議な色合いは、見た事もないくらいに綺麗だった。
 頬を紅潮させて、不安げに小さな手を握りしめる可憐な仕草が、とてもゆっくりと見える。
 心臓が、一度大きく高鳴った。
 ジュリアとの出会いである。





 「あいつらと会ったのはなぁ、俺がまだお前よりもガキの頃だったんだよ。11……いや、12になったばかりだったのかな、あん時は」
 「ホームズが12歳の時?可愛かったんだろうね、きっと」
 「何だそりゃ。俺は今も昔も勇敢な海の男だっ」
 カトリの楽しげな笑い声が、ホームズの耳をくすぐる。
 少しだけ、居心地が悪かった。
 嘘だ。昔は、特にジュリアと初めて会った頃は。自分はちっとも勇敢などではなかった。むしろ臆病ですらあった。
 今にして思えば、多分一目惚れ。ひねくれた悪ガキの歪んだコンプレックスなんて、環境の割には少し遅くに訪れた初恋であっさりと砕け散ってしまった。母親の家出という事件から抱いていた女性全般に対する不信感や、母親への恨みの感情なども諸共に。我ながら単純だとは思うけれど。
 あいつも、きっとそうだったんだろうな。
 かつての彼よりももっとずっと暗い目をしていた少年は、現在では別人のように優しい目をしている。
 あの頃に見せていた、まだ声も変わらぬ年頃の少年にしては不釣合いな程に強かった独占欲と攻撃性と嫉妬心は、二十歳を超えた今でも変わらず残されたままのような気もするが。
 「でも、ま。…………シゲンの野郎は、マジで可愛くねぇクソガキだったぜ」





 小さな声で、聞き取れるか否かという本当に小さな声で。己の名を囁いた少女は、それっきり俯いてしまった。
 でも、ホームズの心の中には、少女のか細い声が金色の文字でくっきりと彫り込まれたものである。
 ジュリアというその名は、酷く冒しがたい神聖なものにすら聞こえたのだ。
 「…………あ、お、俺は…………」
 上手く口が回らない。傍らで父が「面白いものを見つけた」とでもいうように眉を上げるのが目の端に映る。
 むきになって父を振り仰いで食って掛かろうとした、その時。背中に刺すような冷たい視線を感じた。
 思わずぞっとして、慌てて首を巡らせた先には。いつの間に現れたのだろう、ジュリアの肩を抱いてこちらをじっと睨み付ける青い髪の少年がいた。
 恥ずかしげに顔を伏せていたジュリアは、突然現れた少年の存在にあからさまにほっとした風情を見せる。
 赤い唇に浮かんだ微笑はとても愛らしかったけれど、何故だか面白くなかった。
 「シゲンか。相変わらずだな」
 父が、少しだけ呆れたような響きを纏わせて言う。
 その時に、思い出した。
 昔とある縁で拾い、後に友人に預けた子供がこれから行く家にいる。
 お前と丁度同じ歳だった筈だ、仲良くやれよ。
 そんな事を、ここに来るまでの船の中で父が言っていた。
 ならば、これが。
 「提督も。ところで誰ですか、この頭悪そうなガキ」





 「いきなりガン飛ばすだけならともかくだぜ。『頭悪そうなガキ』って、普通初対面のいたいけな子供にそんな事言うかぁ?なんつー性悪だ、って思ったぜ俺はよ」
 「ほんとう?シゲンって、凄く面倒見いいし、皆に頼りにされてるし。何だか信じられないなぁ」
 「カトリ、お前は甘い。そりゃシゲンに騙されてるだけだ」
 「そうかなぁ?」
 可愛らしく小首を傾げるカトリに、ついホームズは熱弁を振るう。
 あの頃のシゲンの可愛くなさといえば、本当にいくら言っても言い足りないほどだったのだ。いや、今だってシゲンの事は可愛いなんて口が裂けても言えない性悪だと思ってはいるが、それでも昔に比べればまだましだと思える。
 「でも、シゲンは理由もなく人を嫌うような人じゃないよ?」
 「そっ、それはだな…………」
 「やっぱりホームズが、何かシゲンの気に障るような事しちゃったんじゃない?」
 「何でそうなるんだよっ!!」
 「だって、ホームズって本当は優しい人だけど、いつも言葉が足りないから誤解されちゃうもんね?」
 「や、やさし…………。お、俺はっ、そんなんじゃねーー!!」





 出会ったのが、もしもジュリアだけだったら。
 この初めてのイル訪問は、心躍る出来事として胸に刻まれる筈だったのだ。
 それなのに。彼の地には、自身も自覚せぬ初恋に心をときめかせるホームズにとって邪魔以外の何物でもない人間がいたのである。
 自分を捨てて出て行った母親より、次々に女を変える父親より、この世の何より腹立たしい存在。
 それが、シゲンという少年だった。
 こちらに対する敵意めいた感情を隠そうともせず、強いというより険しい視線を遠慮なくぶつけてくるような奴に、どうやったら好印象など抱けるというのだろう?
 しかし、目の前で愛息を堂々と侮辱されたヴァルスは、怒るどころかむしろ苦笑したのである。
 「まぁ、そう言うな。確かに頭は悪いし喧しいし、わしの息子の割には全然似ておらぬが。その分退屈はせぬ」
 暫くこいつで遊んでおれ、と嘯きヨーダと去っていく父を、ホームズは信じられない思いで見ていた。
 後に残ったのは、まだこちらに心を開ききってくれていない様子のジュリアと、自分を射殺しそうな目で睨みつけてくるシゲン。向こうもホームズを邪魔者だと思っているのは疑うべくもない。
 その証拠が、次の科白。
 「行こうぜ、ジュリア。ヴァルスのおっさんの道楽に付き合ってやる義理はない」
 ホームズから目を逸らして、そんな事を言う。
 しかも、その様子がまた「付き合ってられない」とでも言わんばかりの素っ気無い代物で。
 可愛らしくうろたえるジュリアの姿は、この時は完全に目に入ってはいなかった。
 芽生えたばかりの恋心を、怒りが上回った瞬間である。
 ここまで虚仮にされて、黙っていられるか。
 それこそ、海の男の名折れだ。





 「…………んで、シゲンとは会うなり取っ組み合いの大ゲンカだよ」
 「ダメじゃない、ケンカなんてしちゃ」
 「あいつが悪かったんだよ、あん時は!」
 これに関しては、今でも譲れない。一体自分が何をしたというのか。確かに手を出したのはホームズが先ではあったけれど、その後の応酬を考えるならばどちらが先に手を出したかなんていう事は些細な問題でしかない。
 「でも、ホームズは誰とでもすぐケンカするもんね。どっちが勝ったの?」
 「…………ジュリアがぎゃあぎゃあ泣きながら親父とヨーダを呼んできて、二人とも鉄拳喰らって痛み分け」
 カトリの方を見ずに、嫌々といった風情で呟くホームズ。
 ホームズだって、腕っ節に自信がなかった訳ではない。父の配下の水夫達に混じって、幼い頃から航海術のノウハウを体で学んだり、時には海賊の真似事をしてみた事すらあった。
 確かに、ホームズもその頃は背だって高くはなかった。体格だって子供の範疇を超えるものではなかった。しかし、シゲンの方はそんな彼よりも明らかに体格に恵まれてはいなかったのである。
 背丈こそ、ホームズより心持ち高かったものの。痩躯という言葉がしっくりくるような体は、今も変わってはいない。それなのに、シゲンは矢鱈と強かった。この細い体のどこにあれだけの体力があるのか、と後にしみじみと思ったものである。隠し切れない悔しさと共に。
 あまり認めたくはないが、多分喰らった拳の数ならばホームズの方が多かった。
 「そんで、お互いにぼろぼろになって、ますます険悪になって別れたんだよ。その日はな」
 「その日は?」
 「あぁ、その日は。それからもイルにはちょくちょく行ったからな」
 「何しに?シゲンとは仲悪かったんでしょ、その頃」
 「うっ、いや、それは、…………親父の使いだ!」
 …………ジュリアに会いたかったから、なんて。カトリには絶対言えない。





 それから数ヶ月おきに、思い出したようにホームズはイルへ行った。
 日帰りで帰る事もあったし、島に一軒しかない民宿に逗留して数日の時を過ごした事もある。
 出会いの時が、結局は最悪のものとなってしまったジュリアとの仲も、何度かイルへ出向く内に少しずつ改善されていった。二度目に赴いた時などは、あの翠の大きな瞳に涙を浮かべて逃げられてしまったものが、ホームズの辛抱強い努力の甲斐もあってか、人見知りする質の彼女もやがては笑って彼を出迎えてくれるようになったのである。
 ただ、それと反比例するように、シゲンとの仲は悪くなっていく一方だった。
 以前のように喧嘩などした日には、ジュリアが泣く。それは互いに避けたい事だったから、表面上こそ静かではあったものの。その分、根は深かった。
 ホームズとしては、出来る事ならシゲンの顔など見たくはなかったのだけれど。彼はジュリアの側を離れようとはしなかったし、ジュリアの方も兄である彼には絶対の信頼を置いていた。その絆の深さは、シゲンに並々ならぬ敵意と反感を持っていたホームズであっても認めない訳にはいかないほどだったのである。
 でも、ホームズはそれでも心の何処かでは安心していた。
 いくらシゲンがジュリアに執着しようとも、所詮は兄妹であるのだからと。
 いつかジュリアも兄離れする時が来るだろうし、そういう時がシゲンにも訪れないとは限らないのだ。
 最も、シゲンの様子を見ていたら、本当に彼が妹離れする日が来るのかと疑ってしまった事は事実である。
 そう言えば、あれは14の夏だっただろうか。
 いつものように、ジュリアだけが気付いていない、酷くぎこちないトライアングルを形成していたある暑い日。
 何かの拍子に、ジュリアが不意に席を外したのだ。
 必然的に、ホームズはシゲンと二人取り残される事になる。
 今までにもそんな場面がなかった訳ではないのだが、そんな時はいつも互いの方を見ぬようにして、重苦しい沈黙を守っていたものである。何か口を開けば溜まった不満が噴出して再び大喧嘩になる事は、ホームズもシゲンも無言のうちに了解していたのだ。
 それなのに、その日に限ってシゲンはホームズの方をちらりと見遣って口を開いたりした。
 「お前、何の為にこんな辺鄙な島に来るんだ」
 友好さなど、欠片もない。この関係を修復しようという意志がない事は、火を見るより明らかだった。
 しかし、だからと言ってホームズが落ち込んだりした訳ではない。そんな展開など彼の方こそ願い下げだったのだから。大嫌いな奴でも友達にならなければならない、なんてお気楽な思考は彼には生憎備わっていなかった。
 「んな事、てめぇに言う義理はないぜ。関係ねーだろ」
 売り言葉に買い言葉。その場の熱が、一気に上昇したような錯覚を感じた。
 「けっ。聞かなくても解るけどな、本当は。どうせジュリア目当てで来てるんだろ。鬱陶しいんだよ、お前」
 「鬱陶しいのはてめぇの方だろ!兄貴風情が、いつまでも妹にべったり張り付いてんじゃねぇよ!」
 「ふん、やっぱりそれが本音か。図々しい奴だとは思ってたけどな」
 「何を…………!」
 いきり立って、ついシゲンの襟首を引っ掴む。ホームズより僅かに背の高かった彼の目は、見上げて見ると虚無に繋がる虚ろな穴のように思えた。感情の色が、そこにはない。不自然なほどに。
 シゲンにどうしようもない程の歪みを感じたのは、この時。
 「誰にも渡さねぇよ、あいつは。これ以上近付くようなら…………斬るぜ」
 本気だ。
 そう、悟った。
 シゲンに再び拳を振り上げたのは、今度は反感や苛立ちからではなかったのかも知れない。





 「それでもな、一度本気で殴り合ったんだよ。初めて会った時のケンカなんて問題にならんくらいのヤツ」
 「…………ホームズ」
 「おわっ、だから昔の話だって言ってんだろ!いちいち泣くな、お前はっ!」
 他人の痛みを感じて、自分が泣く。
 そんな様子が、カトリとジュリアは似ていたと思う。
 だから、その澄んだ涙は何よりも痛い。
 でも、当時は。いくらジュリアが泣こうが喚こうが、止まる事は出来なかった。
 自分とは次元の違う想いを傾けていたシゲンが、理解出来なかったのかも知れない。
 そして、そんな想いを抱えていられたシゲンが、怖かったのかも知れない。
 狂気と紙一重の恋心。あの時ホームズが感じたものは、まさにそれだった。
 血の繋がりはないとは言え、紛れもない兄妹。彼が妹である存在に抱いていたのは禁忌の感情。
 本当に恐怖したのは、それだったのか?
 あの時の事は、あまりにも雑多な感情が入り混じりすぎていて、今でも明確な回答を出せないままだ。
 「ま、その世紀の大喧嘩で、さすがにイルには行き辛くなってな。しばらくグラナダで大人しくしてたんだけどよ」
 「何だか、まだ信じられないなぁ」
 「うっせーなぁ。本当なんだよ。でも、ありゃ冬か?ひょっこり見かけたんだよ、シゲンの奴。それもグラナダで」





 雪が深々と降り続く、寒い夜だった。
 その日ホームズが領主館から外出していたのは、ただの気紛れ以外の何物でもない。
 今となっては理由すら思い出せない外出の結果。ホームズは、グラナダの街角で有り得ない人影を見た。
 シゲンだった。半年前、盛大な大喧嘩をかましてそれっきりだった少年が、何故かそこにいた。
 (…………あいつ、何でこんな所にいんだ?)
 疑問に思いはしたが、声をかけようなどとは思わない。
 ホームズの心に根差したシゲンへの敵愾心は、半年という月日を置いても冷める事はなかったのだ。
 心なしか、随分と雰囲気が違って見えた。何だか人形が歩いてるみたいだ、と思ったのを憶えている。
 もしあの時にシゲンに声をかけていたら。
 彼の運命を、多少はいい方向に修正する事が出来ていたのかも知れない。
 そんな風に悔やんだのは、それでも本当に最近の事でもある。





 「今にして思えば、あれ家出だったんだよなー。イルから船に乗って、グラナダまで出てきてたんだ。ってか、他にルートねぇもんな、あのど田舎じゃ。それから三年半、あいつは全くの音信不通で行方知れず」
 「家出?シゲン、家出なんてしてたの?」
 「あぁ、お前は知らないんだっけ。若気の至りで、色々暴れてたんだよあいつも」
 それは、部隊の誰もが知っている事実ではなかったものの。
 出来る事なら、伏せていてやりたいとも思う。カトリに話す気になったのは、この無邪気で純粋な瞳ゆえだろうか。
 「それでも、あの頃はそんな事解んなかったから。ためしに行ってみたんだよ、イルに」





 そこには、やはりシゲンの姿はなかった。
 ジュリアが、一人きりで冷たい館に取り残されていた。
 望んでいた筈の状況。邪魔な人間がいない空間。
 しかし、それはホームズが心に描いていたような甘いものではなかった。
 「あのね、お父様が言ってたの……。シゲンは、もう、帰って来ないって」
 声もなく涙を流し続ける少女に、何をしてやれただろう。
 遠く離れた空の下にいる少年を慕って泣く彼女に、何が出来ただろう。
 狂気だと、ただ一言で片付ける事の出来ない綺麗な感情。ジュリアの瞳の中に、ホームズはそれを見た。
 そして、悟った。
 どんな形でもいい。彼が、ジュリアの中でシゲン以上の位置に置かれる事など有り得ないのだと。
 彼女が求めているのは、あの闇色の目をした少年以外にはいないのだと。
 この涙を止めてやれるのは、悔しいし腹立たしいし情けないけれど、シゲンだけなのだろう。
 この時がきっと、口に出す事も面と向かって伝える事もなかった初めての恋に自ら幕を下ろした瞬間。





 「あ、そうだ。じゃあね、ホームズがシゲンと仲直りしたのはいつなの?」
 「あいつがイルに帰ってきた時だよ。一発、あのスカしたツラに思いっきりぶちかましてやったんだ」
 「…………また、ケンカになったんじゃないの?」
 「ならねぇよ。もうケンカする理由もなかった事だしよ」
 「?」
 更に詳しい言葉をホームズから引き出そうと、悪戦苦闘するカトリ。その様子に苦笑しながらも、これ以上の事を語る気はもはや彼にはなかった。
 ここから先は、ジュリアも知らぬ事。
 この世で一番むかつく奴が、誰よりも頼れる相棒に変わる契機となった時の事は。





 今から丁度三年前。父からシゲンがイルに戻ってきたようだと聞き、急いであの孤島へと駆けつけて。
 久し振りに見た彼は、もう少年とは言えなかった。とうとう追いつく事のなかった背丈は、ますます差が広がった気さえした。でも、最後にグラナダで感じた時の異様な雰囲気は鳴りを潜めている。
 だから。ホームズは、シゲンに声をかけるよりも早く、その頬に力一杯拳を叩きつけたのだ。
 家出の理由なんかどうでもいい。ジュリアを置き去りにした報いとして。ジュリアを泣かせた代償として。
 そんなホームズの内心の思いが伝わった訳ではなかろうが、シゲンは殴り返してこようとはしなかった。何故かは解らないけれど、それを幸いとしてホームズは早口で言葉を繋いだのである。この恋に完全に終止符を打つ為に。
 「これで諦めてやる、でも、もしまたジュリアを泣かせたら今度は力ずくでぶん取るからなっ!」
 しばらく呆けたように言葉を失っていたシゲンが、今では見慣れたシニカルな笑みを浮かべてみせたのは、多分この時が最初だったと思う。友好的と呼んでも差し支えなさそうな空気が流れたのも、きっと。
 お前なんかにはやらねぇよ、そう嘯かれた声からは、刺が消えていた。





 「いーんだよ、お前は知らなくて。ガキにゃまだ早ぇ」
 「何よっ、それ!ホームズの意地悪っ!」
 暖かい光が惜しげもなく降り注ぐ一時。
 掛け替えのない友を「二人」手に入れたあの時も、確かこんな日だったと思う。
 幸運が訪れる時というのは、いつでも似たようなものだ。そんな事を、ホームズはこっそり考えてみた。
 勿論、心の中に秘めているだけで、言葉に出してやる気なんか毛頭なかったけれど。




















 叶う事のなかった初恋ではあったけれど、それを後悔はしていない。
 目の前に伸びていた多くの道、その中の一本。ホームズが掴み取ったその先には、彼女に連なる運命は用意されてはいなかった。それだけの事だったのだろう。今ならば、この上もなく穏かにそう受け止められる。
 最初の想いは砕け散ったけれど、二度目の恋は。
 きっと近い将来に、それは愛へと変わり掛け替えのないものへと昇華するだろう。

 諦めてなんかやらねぇよ、今度こそ。

 そう、正面から緋色の髪の少女に言える日がやって来るのは。
 多分、それほど、…………遠い未来の事ではない。





end.

 アンケートで戴いたお題・第二弾。「ちびシゲジュリ←ホームズ@兄貴ぶちキレじぇらしー風味」です。>は?
 しかし、何故だかちょっと(?)ホムカト風味。あんまりホムジュリじゃないかも。兄もたいしてキレてないし。こんなんばっかですね、俺ってば。ちょっと想像と違う〜、とか思われちゃったらごめんなさい、リクしてくれた方(苦笑)

 うちじゃーイル兄妹と若とは幼馴染みじゃない(っつーか出会ったのは結構最近)なんで、完全単発パラレル気味ですね。っつっても、気が付いたらシゲジュリ短編とかも最初と現在とじゃ何気に設定変わってきてるから、パラレルもクソもないんですけど本当は(笑)
 それにしても、これって「ジュリア←ホームズな若の初恋物語(ただし玉砕前提・核爆)」だよね、きっと。
 これも新手のホームズいぢめかな?(苦笑)

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