ルーゼンは、ドアの隙間から冷たい空気が流れ込むのを感じ、慌てて目を閉じて
頬を枕に押しつけた。
かすかな足音が近づき、ベッドサイドテーブルの蝋燭の明かりがさえぎられて、
まぶたを透かした影が顔の上に落ちる。
肩のすぐ横でシーツが沈み、彼女がベッドに腰を下ろしたのだと分かった。
「ルーゼン、あなた。まぶたが動いていますよ」
彼女ののどの奥からこぼれる小さな笑い声に、ルーゼンは、ぱっと起き上がって
侵入者をにらむ。
「お前があまりに遅いから……」
ルーゼンの兄である王太子の結婚式の夜。
その寝室に控えていたシーアと、警備の交代後に王宮の寝室で会う約束をしていた。
シーアと約束を交わすことが出来るのは前と比べてずっと進歩したと言えるし、彼女が
約束をたがえることはないと分かっていても、時の経つのはひどく遅くて、ルーゼンは
何度も起き上がって枕をひっくり返していた。
「俺は寝ていたんだ。それをお前が起こしたんだ」
我ながら子供のようだと思いながら、ルーゼンは赤くなった顔をぷいっとそむけた。
でも、ベッドのシーツはしわしわになっていて、彼がしょっちゅう寝返りをして彼女を
待っていたことくらい、シーアにはお見通しだろうと彼はうつむく。
シーアを抱きしめるのと同じくらい、我がままを言って困らせたくなるのは、彼女が
いつも彼を甘やかしてくれるからだ。
「ごめんなさい」
ルーゼンの頬をなでるシーアの優しい手が、無理なく彼を彼女に向かわせた。
「途中で父に捕まってしまって……」
「説教でもされたか?」
ルーゼンの口元がほころんだ。護国将軍に苦い顔をさせられるのは、ほんの少し
小気味が良い。それがルーゼンとシーアの結びつきが原因だと思うとなおさらだ。
「ええ、たっぷりと。それに溜め息もつかれました。
でも、わたくしがここに来るのを止めることは出来ませんでしたよ」
シーアが笑って彼のあごに唇をつけ、肌を震わせるようにささやいた。
「ルーゼン。わたくしは喧嘩をしにきたのではないのに」
熱を帯びた緑の眼が迫り、紅潮した頬がかすかに彼の唇をかすった。
「……ああ」
「まだ、怒っていらっしゃいます?」
シーアは彼を誘うように、ついとあごを上げ、そしてゆっくりとまぶたを閉じた。
「もう怒ってない……、いや、最初から怒ってなど」
ルーゼンはそのまま首を傾けて、彼女のうなじに手を這わせ唇を合わせる。
彼の背中に回されたシーアの指先の一つ一つが焼きつくような熱さで、ルーゼンに
離れていた時間と距離とを忘れさせる。
「ね、ルーゼン。もっと」
「……ん、ああ」
シーアの求めに、やわらかな唇の隙間から舌をそっと差し入れる。
中を探れば、彼を迎え入れるように彼女の舌が重なる。
あごを押しつけて、更に深く舌と舌を重ね、或いはつつき合い、唇の隙間から
洩れる吐息を頬に感じて、唾液を絡ませ合う。
「っん……ふっ……」
シーアの喘ぎ声が愛おしくて、ルーゼンは彼女をぎゅっと抱きしめる。
「シーア、今日はとても綺麗だった。……その、首飾りがとても良く似合っていた」
「ありがとうございます。あなたが見立て下さったおかげです」
「ん、つけてくれて嬉しかった」
「今夜の宴席では、皆にからかわれましたよ」
そう言って肩を震わせて笑うシーアに、ルーゼンは彼女に首飾りを渡した夜を思い出す。
シーアが花嫁を迎えにメッシエ・スールエに行く前の、ルーゼン邸のベッドの中。
あお向けに横たわる一糸まとわぬ彼女の、揺れる乳房の間に滑らせた首飾り。
彼の愛撫で赤く色づいた、二つの乳首に絡んで映える銀色の留め金。
蝋燭の炎を受けて輝く大きなエメラルド。そして、それと同じ色のシーアの双眸。
これで賭けの決着がつきますねと、にっこりするシーアと、王太子の結婚の日の
宴席で、彼はメダルを、彼女は首飾りをつけることを示し合わせた。
――あれはもう、半月も前。長かった。でも、やっとシーアは帰ってきた。
彼女のあたたかさに安堵し、全身の力を抜いて、腕の中の重みに体を預ける。
「今日は大変な一日でしたからね」
彼を無言で抱きとめていたシーアが、やがて体を起こして笑い、ルーゼンの目を
のぞきこんだ。
「あの時、控室で妃殿下が扉の外にいたのに気付いていましたか?」
「え? あの時? 兄上の寝所の控室でか? いや。……ああ、でも、だからか。
俺に殿下、殿下と呼びかけて、どうしたのかと思ったのだが」
「妃殿下もさぞ驚かれたでしょうね。まだこちらの宮廷にいらっしゃったばかりですし」
「では、もっと見せつけてやれば良かったな」
「あなたったら」
シーアがとがめる風でもなく言い、くすっと笑って彼の首筋に顔を埋めた。
「あれはやりすぎです。明日の朝、妃殿下にどんな顔をして会えば良いか」
「やりすぎなものか。誰かに見せつける機会があるのなら、大いに活用するぞ」
「もう、本当に、あなたという人は。せめて、公の場では止めて下さいね。
……埋め合わせはしますから」
「埋め合わせ? ……なんだ?」
答えの代わりに、シーアは近衛の制服を体からするりと落とし、白い肩を露出した。
それから彼女は、誘惑するような目で見上げながら、口の端を上げる。
シーアの手が彼の頬を撫で、首筋をたどって、夜着の合わせ目から中へと入り込む。
溜め息をつきながら彼の胸にキスを繰り返すシーアの愛撫は、更に下へ下へと
降りていく。
「あの二人がうまくいくと良いですね」
彼のみぞおちに頬をすりよせながら、シーアがつぶやいた。
「俺たちみたいに?」
彼女のうなじから背中へ手を滑らせながら、ルーゼンは応じる。
「ええ。わたくしたちのように」
シーアは結婚するまでは泊まらないと言う。
だから今夜も朝を待たずに帰るだろう。
けれども、別れ際の熱いキスと、笑いながら交わす次の約束と、優しい声で
お休みなさいとささやくシーアに、ルーゼンは確信を抱いて未来を待つ。
お互いの体をあたためる夜。いずれは一緒に目覚める朝。
十年後も、そのずっと後も。 |