「…フェイ」
 掠れた声で名前を呼ばれるたびに、切ないような嬉しいような疼きが胸の奥に生まれる。
 熱に潤む彼の瞳の中に自分の姿が映っていることや、そのやさしい指が肌を辿っていく感触よりも、愛おしさをこめた声音で名前を呼ばれるだけでフェイはとても幸せな気持ちになれた。
 熱を分かち合う合間に名前を呼んでもらうことは、自分が必要としている人に必要とされ、愛されている証でもある。
 だからこそ、フェイも彼の名を紡ごうと口を開いた。
「…せ、ん……っ」
 先生、といつものように呼ぼうとしたけれど、ふいに思い出した真実が胸につかえ、その苦しさに言葉が霧散してしまった。

 先生。
 シタン先生。

 今まで口にしてきた呼び名――否、シタン・ウヅキという存在自体が偽りのものだったと、フェイはすでに知ってしまっている。
 名前はもちろんのこと、職業や立場といったシタンをシタンとして認識させていたもの全てが、だ。
 それを知ったあとも慣れた呼び名を口にしていたけれど、二人きりで過ごすこの特別な時間にふさわしい、別の呼び名があるのではないかと気付いた。
 ただ一度だけ、裏切り者の名前としてガゼル法院に突き付けられた、それ。
「…ヒュ…ガ…」
 身体を駆け巡る快楽に震える声でシタンの本名を呼んだ途端、唇でフェイの首筋を辿っていた彼の動きがぴたりと止まった。
 そのまま何の反応も示さないシタンに、フェイは不安になる。
「ヒュウ、ガ…?」
 もう一度呼ぶと、今度ははっきりと息を呑む気配が伝わって来た。ぎくりと肩を揺らしたシタンの顔を覗き込めば、そこに浮かんでいたのは困惑の色だった。
「…いつもの『せんせい』でいいんですよ?」
 見慣れた苦笑顔でそう告げられる。本当に困らせてしまったのだ。
「どう…して…?」
「その名前で呼ばれるたびに、昔の自分の愚行を思い出してしまって居た堪れなくなるんですよ。…それに、それはあなたにとって…」
 裏切り者の名前、でしょう?
 苦い囁きが耳元に落とされる。悔いるような、自分を責めているかのようなその響きに、あのソラリスでの出来事はフェイだけでなくシタンの胸にも痛みを齎していたのだと知る。
 確かにシタンは嘘をついていたかもしれない。
 けれどラハンに担ぎ込まれたフェイを助けてくれたという事実と、その後の3年間で注いでくれたやさしさは決して偽りなどではないはず。それが分かっているからこそ、フェイは腕を上げて肩口に顔を埋めているシタンの頭をそっと包み込んだ。
 シタンがあまり話したがらないせいで、その名で過ごしていた時期のシタンがどんな人間だったのか、何をしていたのかは全く知らない。しかし、あのソラリスという国のあり方を知った今は何となく想像は出来る。
 だが、その過去があるからこそ今のシタンがいるのだ。例えどんなに非道な人間であったとしても、『ヒュウガ』を否定したくない。そしてシタン自身にも否定してほしくなかった。
「ヒュウガ…っ!」
 ありったけの想いを込めて彼の真名を紡ぐ。
 シタンの暗い過去の片鱗に触れてもなお胸に溢れてやまない『好き』だという気持ち。それ告げようとした言葉は、激しい口づけに掻き消されてしまった。


「ぁ、ん…ぁあ…っ、ヒュ…ガ…っ!」
 甘く響く嬌声の合間に自分の真名が混ざる。
 たったそれだけでこんなにも昂るものなのかとシタンは苦笑した。
 フェイの声で真名を呼ばれるたびに赦されていくような気持ちになる。
 本来なら赦される資格などないのだと理解している。それだけ非道なことをし続けてきたのだから。
 けれど、破壊と殺戮しか繰り返してこなかったこの手が初めて助けたこの真っ白な子供は、そんな過去の自分すら受け入れて赦してしまう。時折その真っ直ぐすぎる純粋さが怖くなるときもある。
 しかし、彼のそんな部分に救われているのも事実だ。
「…もっと呼んで下さい、私の名前を」
 耳元でそう囁けば、返ってくるのは花開くような愛しい笑顔。

 そう、神の――他人の赦しなどいらない。
 私の名を呼んでくれるあなたがいれば、それだけで…。

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