263:散歩 [シオン]
あの時のことをシオンはあまり覚えてはいないなかった。
そもそも、どうやって自分があの旧ミルチアからこの第二ミルチアに逃れることができたのかも、まったく記憶にない。
だから、ずっとわからなかった。なぜ、兄がシオンに対し腫れ物に触るような接し方をするのか。
自分で調べて理解した。何があったのか、自分と兄がどういった状況で混乱の旧ミルチアから脱出できたのか。
記憶はないのに、わかってしまう。
どうせなら、わからないままだったほうが幸せだったのかもしれない。
兄は、父さんや母さんや自分よりも任務を優先した。それで駆けつけるのが遅れたのだ。
だから、間に合わなかった。
兄さんがもう少し早く来てくれれば、任務より家族を優先してくれれば父さんも母さんも死ななくて済んだ。
記憶に残っていなかったとしても、事実は調べれば残酷なほどはっきりとわかってしまう。
シオンは公園へと続く遊歩道をぶらぶらと歩く。
ボロメオ大学に入学するために明日には実家から離れる。実家といっても、別に生まれた家でもないし両親もいない。
先に第二ミルチアに居を構えていた祖父のもとに兄妹二人で身を寄せた。
それでも祖父が亡くなるまではまだよかった。兄と一緒に剣術を習ったり、小難しい本を読み聞かされたり。穏やかに過ごしていたように思う。
祖父が亡くなり、旧ミルチアであったことが少しずつ明らかになるれば、兄を恨まずにはいられない。
兄のせいではない。兄はあの時そうするしか方法がなかったのだ。
シオンにはそれが痛いほど理解できていた。
でも、恨んで恨んで、罵って罵って、……すべてが、兄のせいだと。そう思わなければ自分を保つことはできない。頭が良く皆に好かれる出来のよい女の子シオン・ウヅキではいられなくなるのだ。
私は悪くない。すべては兄さんがいけないの。
そうよ、私は何も悪くはない。
――本当にそれでいいの? シオン。
もう一人の自分がそう問いかけた。
――いいの、明日には離れるから。もう、二度と実家には戻らない。
あの忌々しい過去を共有するのは、この世で兄ただ一人。
だから、もう兄には会わない。会いたくない。
やがて公園に着く。遊歩道はここが終点だ。
そういえば、いやなこと――ほとんどが兄とのささいなトラブルだった――があると、ここにきてよく気持ちを落ち着けようとした。
もっと昔、祖父が生きていた頃は三人でここまでよく散歩をした。兄と手を繋ぎ。ふいに掌に兄のぬくもりがよみがえる。
目の前の樹を見上げれば、早春の光を浴びた梢に、ぽつりぽつりと白い花が咲き始めていた。花を終えれば瑞々しい新芽で梢が覆われる。
最後の日に、この花が見られてよかったとシオンは思う。
――兄さん、兄さん、とてもいいにおいのお花ね。このお花なんていう名前?
――ああ、シオン、この花はですね、……ですよ。
一陣の風がシオンと花樹の間を通り抜けていった。
シオンは両腕で自分を抱きかかえるようにしてうつむいた。目をぎゅっと閉じる。まだ浅い春の冷たい風に髪がぱさぱさとひるがえる。
――ああ、駄目。思い出せない。思い出せないよ、兄さん。