236:カモフラージュ[ジン+シオン]
「妹さん、優秀なんだね。ボロメオ大学に入学するんだって」
「明日には家を出るのですが。ボロメオ大学だなんて……何かの手違いではないのかと不安です」
マスターは、ジンの前にコーヒーを置いた。
「ははは、ジンさんもあれだね。心配性は昔っからだ。シオンちゃんをいつまでも小さい女の子だと、思っていたいのだろう」
ジンは、苦笑しながらコーヒーカップに口をつけた。
小さい女の子だと思いたい……? 思いたいのではない。
シオンはまだ小さな女の子でしかないのだ。
旧ミルチア。あの時から幼い妹の時間は止まったままだ。
身長が伸び、知識が身に付き、いっぱしの理屈をこね、兄を言い負かすことができるようになったとしてもだ。
シオンが口にする言葉の多くは、彼女の言葉ではない。人にとって、正しいであろう言葉を無意識のうちに選択し語る。何が善であるのか宣伝は行き届いている。だから、シオンも錯覚する。それが、自分の言葉だと。
シオンはそうして、正しく善い人間である自分を夢の中で演じ続けている。
「ただいま、シオン」
玄関の戸を開けるが、部屋の中は暗く空気も冷たい。人の気配はない。
そこへ、シオンからのメッセージが入る。
――ごめん、兄さん。予定変更して、今日出発することにしたの。荷造りが思ったよりはやくできたし、入学式前に馴れておきたいから。じゃ、ね。
「じゃ、ね……ですか。でも、わざとですね。きちんと挨拶をするのが嫌だったのは見え見えですよ」
ジンは妹にまんまと一杯食わされたことに苦笑して、庭へと出た。
縁側に座る。この場所はいちばん気持ちが落ち着く。
第二ミルチアの郊外。温暖な気候。過ごしやすい街だ。
この第二ミルチアに来てもう何年経つのだろうか。これだけ、時間があったのに、結局シオンに何もしてやれなかった。いたずらに時間ばかりが過ぎていった。
あの旧ミルチアで受けたトラウマ。
記憶を封印してしまったシオンはそれを克服してなどいない。注意深く観察すれば、彼女の人格形成には大きな歪みがある。
あの時、両親と妹がどれほど危機的状況にあるのか、知っていながら任務を優先してしまった。
その判断は、今でも間違ってはいないと思っている。でも、両親がシオンの前で惨殺され、シオンがこうなってしまったのは自分の責任なのだ。
きっと、本当の正義の味方、ヒーローならば、家族を守り任務も完璧にこなすことができるのだろう。自分はといえば、両親を救出することは叶わず、妹の心に大きな傷を負わせてしまった。そんな大きな犠牲とひきかえにしても、任務を完璧に遂行することはできなかった。
「私はは無力だ」
ジンは、第二ミルチアの夜空を仰ぐ。星明かりだけが静かにジンに注いでいた。天空一面に敷き詰められた星々はジンの空虚な瞳の中でいつまでも煌めいていた。