172:椅子[アレ+シオ]
「主任、コーヒー煎れましたよ。少し休んでください」
シオンの背中から声をかけるが、返事はない。作業の手は止まっている。おや? と思い前へ回る。キーボードに手をかけたまま深く項垂れた状態でシオンはぴくりとも動かない。下から顔を覗き込めば、目を閉じぐったりとワークチェアの背もたれに身体を預けている。眠ってしまったようだった。
「主……」
声をかけかけてやめた。
少し休ませて上げよう。ここのところずっと根を詰めっぱなしだったのだから。
彼女の下につくスタッフはお気楽にシオンに訊く。いつコスモスを起動するのかと。この目でコスモスが動くところを見たい、それが何よりも楽しみ。動く姿を想像するとわくわくする。
それなのになかなか踏ん切りがつかない様子のシオンに疑問を抱き、不信感を漏らすスタッフすらいる。
それは、至極当然だと思うし、彼らの不満は理不尽なものではない。
アレンはそんなスタッフの愚痴を根気よく聞き、起動を急がせてはいけない理由を丁寧に説明する。
彼らが知らないコスモス起動に伴い起きたあの凄惨な事故の話を織り交ぜながら、なだめるように。
これは、副主任として自分がすべき職務だ。
シオンが恋人を失ったコスモス起動時における事故。
そう、コスモスはシオンの恋人を奪ったのだ。
それでもその恋人はだれよりもコスモスに声をかけることを楽しみにしていた。コスモスは人類の未来を担うのだと。
シオンの中でコスモスに対する恐怖心は拭えない。
でも、恋人はコスモスを我が娘のように慈しんでいたのは間違いない。それを手伝っていたシオンにとってもコスモスは娘のようなものだ。
コスモスを起動させることは恋人の遺志。その役目を誰にも手渡すことはしたくない。
複雑なシオンの心情は痛いほど伝わってくる。
アレンはため息をついた。
と、シオンの頭が動いた。
まぶたがゆっくりと開き眼鏡の奥からぼんやりとした視線がアレンに向けられた。
「アレンくん? あれ?」
「主任……大丈夫ですか?」
「え? 私寝ていた? ……三十分も寝ていたの?」
「はい、疲れているようですね」
「何を暢気なことを言っているのよ。何故起こしてくれなかったの?」
「す、すみません。……主任……コーヒーを」
言われる前にアレンの手からコーヒーをひったくり、シオンは口に運ぶ。
「もう、三十分も無駄にしちゃったじゃない! ……ぶっ……。何よ、これすっかり冷めているわ」
「あ、ごめんなさい。今すぐ煎れなおしてきますから」
慌ててコーヒーサーバーへと向かうアレンの背中にシオンは声をかけた。
「アレンくん……」
「はい? 他に何か?」
振り返れば、シオンの緑色の瞳が眼鏡の奥からアレンを見つめていた。
少しどぎまぎする。
「少し寝たからかな。頭すっきりしたわ」
「では、がんばりましょう。主任」
頭を掻きながら照れ笑いをするアレンにシオンは目を逸らした。
「ありがとう……」
それは、小さな小さな声だった。