052:手紙[翡*幸]
御簾をぬって微かに入り込む夜気が、灯明台の細い炎を揺らしていた。
藍色の闇の中、微かな灯りに照らされた安らかなる寝顔を翡翠は見つめていた。
額にかかった髪をそっとどける。
その飾り気のない寝顔に翡翠は苦笑する。普段の有能な国守ぶりからは想像もつなないくらい、幼くあどけない。
「幸鷹」
翡翠は聞こえてはいないだろう相手に向かってぽつりと名を呼んだ。
明らかに様子が変だった。
いつもの幸鷹ならば、自分の腕の中に絡みとれれるその瞬間まで瞳に宿る光はきつく鋭い。
それは、幸鷹の翡翠に対する精一杯の虚勢なのだろう。
翡翠はそれに気づかぬふりをして、むしろ幸鷹に屈して見せる。
大人の余裕。
むろん、幸鷹も承知の上だ。
だが、今宵、翡翠が垂れ衣を手の甲でそっと押し上げ、寝所へと足を踏み入れたとき、いつもの鋭利な視線は無かった。
脇息にのせた肘で額を支え、無意識に落としているだろうため息。
面を上げても心ここにあらずといった風情だ。
一瞬の間をおいて翡翠に気が付いたのか、慌てて文台の上に広げていた文を畳んだ。
そして、抱き寄せてみれば、どうにも拭うことのできない違和感。
いつもの幸鷹は、抱かれてしまえば快楽を追い求めることにどん欲だ。
それなのに、今日はただすがりついているように感じた。
密着した身体を離そうとすれば、翡翠の背中にしがみつき翡翠の名を何度も呼んだ。
これでは、ひとりぼっちにされることを何よりも恐れる幼子と同じだ。
安心させるように抱きしめる腕に力を込めた。
ふと視線を落とす。今も翡翠の衣の袖を握りしめる幸鷹の細い指が見える。
そっと袖から幸鷹の指をはずし、几帳の外へと出る。
薄暗い中、文台に目をやる。幸鷹が慌てて畳んだ文が見える。
人の文を盗み読む趣味は無い。
いや、その必要もない。京への帰還命令であろうと推察することは容易い。
伊予に来てから二年と少し。
予定より早いが、幸鷹の政の手腕が認められたのだろう。
翡翠は、寝所に戻ると横たわる幸鷹のすぐ脇に滑り込んだ。
肩肘で身体を支え、幸鷹の髪を梳く。
身じろぐこともなく熟睡している。
子どもは気楽なものだと思う。
どうしたものか。
このまま手元に置いておく方法でも画策してみようか。
苦いものがこみ上げてくる。
そのような考えが一瞬でも浮かんでしまったことに自嘲する。
刹那的な衝動に身を任せる愚かな男に、何の魅力があるというのだろうか。
これは、誰のものにもならない。
いや、誰かのものになったとき、その清麗な輝きは失われる。
自分がそうであるように。
そのことをこの賢い子が知らぬわけはない。
翡翠は立ち上がり身支度を整えた。
「明日にはいつもの国守殿に戻っておくれ」
耳元に囁き寝所を出る。
邸の外で夜空を見上げた。夜明けにはまだ遠い。
頬を掠める微風に、強い潮の香を久しぶりに意識した。
そして、大きく深呼吸をしてから、翡翠が本来居るべき処、伊予の海へとゆっくりと歩き出していた。