022:NO[翡*幸]
日中の強い日差しや暑さが嘘のように夜になれば涼しくなる。
それが、京の夏とは違う。
強い潮の香を含んだ海風が、寝所を仕切る几帳の垂れ絹をふわりと持ち上げた。
紗を透かして二つの影が絡み合う。
握りしめた絹の儚さに、緩慢に腕を伸ばし覆い被さる広い背中にしがみついた。
白く霞んでいく意識の中、知らない記憶をかいま見た。
「幸鷹」
呼ばれて薄目を開く。
ここは、どこだろう。
見知らぬ部屋。
知らない世界。
そして、ぼんやりとした視界に入ったのは、上から見下ろすおぼろげな人影。
ああ、この男は知っている。
「翡翠か」
「大丈夫かい」
心配そうに見下ろしていた男は、ほっとした表情をで微笑んだ。
幸鷹は気まずそうに目を逸らした。
「夢を見ていたようです」
「夢、どんな?」
「覚えていない」
そうぶっきらぼうに言う。
翡翠は、傍らで横になったまま片腕で頬杖をついて、もう片方の腕を伸ばし幸鷹の髪に触れた。
あんなに汗ばんでじっとりと濡れていた髪が、もうさらさらと乾いている。
「なかなか目を覚まさないから、どうしたのかと思ったよ」
「そのまま寝かせておいてくれればよかったものを」
「その格好でかい? まあ、なかなか楽しい眺めだから私は別に良いのだけどね」
翡翠はおかしそうにくすくす笑う。
指摘された幸鷹は我に返って赤面した。
単衣が申し訳程度に手足に引っかかったままだった。
これならば何も身につけていないほうがよほどましかもしれない。
慌てて上半身を起こし、身なりを整えようとする。
そんな幸鷹の様子を楽しそうに眺めていた翡翠が、ふと言った。
「なあ、幸鷹、『の』ってどういう意味だい。たまに口にするのだが」
「『の』? 私が口にするというのか」
幸鷹は前たてを合わせていた指を止め、怪訝な表情で翡翠を見た。
「いや、『のお』かな。『んの』かな……。あまり耳慣れない音なのだが、京の言葉かい。それとも君が幼少期を過ごした所の言葉なのかい」
幸鷹は小首を傾げ考え込む。
まったく記憶にない。
「そんな短い音など、言葉といえるのかどうか。どういった時に口にしているのでしょう」
「それを私の口から言ってほしいのかい? 私は別にかまわないけれどね」
何を言っているのかと薄暗い中、翡翠を凝視する。意味ありげな人の悪そうな笑顔。
はっとする。
翡翠の言わんとしていることをやっと理解して幸鷹は頬がカーッと熱くなるのがわかった。この暗さでは相手に気づかれることは無いだろう。そのことに少し安堵する。
翡翠は身体を起こし正面から幸鷹の顎を掴んで、顔をのぞき込む。
「ただねえ、あれは『良い』のか『悪い』のか『もっとして欲しい』のか『やめて欲しい』のか、分からなかったものでね。どっちなのかな、幸鷹」
思わず、その手をぴしゃりと払いのけ相手を睨む。
「翡翠、からかうのもいい加減にしなさい」
怒気で声がうわずっていた。そのことがくやしい。
翡翠は声を出して笑い幸鷹の身体を抱き寄せるとそのまま仰向けに倒れ込んだ。
「これ以上、苛めないほうがよさそうだな。明日も仕事だろう国守殿は。もう寝なさい」
耳元に響く声は優しく、眠たげだった。
幸鷹は翡翠の胸の上に頭をのせたまま考える。
「の」だけではない。自分はたまに意味のよく分からない言葉を口にするらしい。
翡翠からのみ受ける指摘。気にはなるのだが、まったく思い当たる節がない。
たぶん、あまり意味はないのだろう。
少々気持ちは悪いが考えても仕方ないと目を閉じた。
すーすーという気持ちよさそうな翡翠の寝息が聞こえてくる。
そして、幸鷹もゆっくりと眠りに落ちていった。