093:ささやき[翡*幸]
睦言の類は覚えていない。
いや、意識的に記憶から追いやってしまう。
どうせ、意味のある言葉では無いのだから。
それでも、耳元で小さく囁かれるこの男の低く力強い声音は幸鷹に不思議な安心感を与えた。
うっすらと目を開ける。
ぼやけた視界に見下ろす人影ををとらえた。
翡翠……。
が、すぐに目を閉じる。
まだ、まどろみの中に漂っていたかった。
翡翠が声もなく笑うのがわかった。
長い髪がさらりと幸鷹の首筋に流れ落ちた。湿った吐息を感じると同時に耳元でささやかれる。
「まだ夢の中なのかい? 国守殿」
ああ、駄目だ。目が覚めてしまったではないか。
その腹立たしさに胸中でため息をつく。
だから、応えない。
目はわざと開けてやらない。
「まあ、まだ早いから良いのだけどね」
翡翠の指が、顔にかかった髪をどけにかかる。
撫でるように髪を梳き、頬から唇へと滑らせる指を感じた。
調子にのらなければ、放っておこう。
だが、肩からうなじををしばらく撫でていたと指は、首から胸へと辿っていった。
薄衣のあわせから胸へと滑らせた指の動きに別の意図を感じ、幸鷹は目を開き、翡翠の手を払いのけた。
「いいかげんにしなさい」
きっと睨み付ける。
そのはっきりとしたきつい視線に、今目覚めたわけではないのだと翡翠は理解する。
翡翠はうっすらとした笑みを浮かべた。
「起きていたのかい?」
「少し前から」
幸鷹は翡翠を睨んだままゆっくりと身体を起こした。
「海賊をからかうとは怖いもの知らずだね、国守殿は」
「からかっているつもりはありません」
幸鷹は不満そうに言うと、目を逸らした。
ただ、もう少しまどろんでいたかっただけなのだ。
翡翠の指が幸鷹の顎を掴んで持ち上げる。
「そうなの」
相変わらずなにもかもを見透かしたような目を幸鷹に向け、翡翠は静かに微笑んだ。
そして、幸鷹の頭を抱き寄せると、そのまま後ろに倒れる。
翡翠の胸の中に収まる形で頭をのせたまま、それでも僅かにみじろぎながら形だけ抵抗してみる。
「翡翠、何のまねです」
ふっと小さな笑い声が聞こえた。
「こうしていてあげるから、もう少し眠りなさい」
その囁きの、静かだが決して反論を許さぬ声音の心地よさに幸鷹は諦め目を閉じた。
※某所の素敵な寝起き別当殿のイラストを拝見して、うっかり国守殿で書いてしまいました。