112:もしも[若*マル]
明るくて快活。
男の子のように自分のことを『ボク』と呼ぶ元気な少女。
少年は知っている。少女がいつ頃から自分のことを『ボク』と呼んでいたかを。
でも、少女はいつから自分のことをボクと呼ぶようになったかを覚えていない。
自分のことを『私』と呼んでいた頃の記憶などない。
仮にも大教母だ。公の席で『ボク』と発言することはないとはいえ、シスターアグネスは一応意見してみる。
「まだ少女であるとはいえ大教母でいらっしゃるのですから、ご自分のことをボクと言うのはそろそろおやめになったほうがよろしいかと思いますわ」
「うん……。アグネスの言いたいことはわかるよ。でも、今更『私』というのもなんか自分ではないみたいなんだ。もう少し時間が欲しいな」
砂漠に停泊中のユグドラシルのハッチを開けバルトは外へと出た。
日中の暑さが嘘のように冷え込んでいた。昼夜の温度差が三十度を超えることなど当たり前の世界。フェイのようにここよりずっと温暖な気候で育った軟弱な人間にはこの砂漠の厳しさは堪えるだろう。
王子とはいえ、砂漠に囲まれたオアシスに王都を持つアヴェで生まれ育ったバルトにとってはどうってことはない。この砂漠の人を拒むような厳しさがむしろ好きだった。
明るい満月の夜だった。
銀色の月光に照らされた小さな人影が目に入った。
法衣に身を包んだ少女。
「マルー、何をしているんだ?」
少女は振り返り、バルトの姿を認めるとにっこりと笑った。
「なんとなく、月を見ていたんだ。若こそどうしたの?」
「最近ずっと艦内に隠りっぱなしだったからな。少々息苦しいんで気分転換」
そう言いながら腕を上げ伸びをする少年に少女はくすりと笑って、もう一度中空の月を見上げた。
「ボクね、アヴェに閉じこめられていたとき、よく窓から月を見ていたよ。若も、今頃同じ月を見ているのかなぁと思って」
「あ、わりぃ。たぶん俺、見ていないぞ。お前がつかまっている間、どうやって助けるかってことしか頭になかった」
少女は口をとがらせる。
「なーんだ。ボク一人でそう思っていたなんてバカみたいだね」
あははとバルトは笑う。
「なあ、マルー。つかまっていた間、碧玉のことであいつらに酷いことされなかったか?」
「え? 大丈夫だったよ。ラムサスさんが手荒なマネは決してさせないって言ってくれていたよ」
「ふーん、そうかよ。俺あいつと戦って酷い目にあったんだけどな。女の子相手だと態度が全然違うな」
「きっと優しい人だよ」
少女は空を見上げたまま、眩しそうに目を細めた。
「明日はニサンだな」
「うん、そうだね」
「マルーもこれでゆっくり休めるな」
「……」
バルトは俯いて黙り込んだ少女の顔を覗き込んだ。
「どうしたんだ?」
「あのね、ボク、この艦からおりないとダメかな?」
「何を言っているんだ?」
「ここでボクは若の役に立たない?」
「だって、マルーは女の子なんだから危険だ」
「女だからダメなの? もしも、男だったらよかったっていうの? なら、ボク女の子なんかじゃない。だって、ボク若の第一の子分なんだから女の子じゃない。約束したじゃない。子分にしてくれるって、子分でいていいって」
真剣にじっと見上げてくるトパーズブルーの瞳。
本気だ。
バルトはため息をついた。
マルーはマルーのままでいいのに。俺の役に立とうなんて考えなくてもいいのに。
いつか傷が癒えれば、この少女は自分のことを『ボク』と呼ぶのをやめだろう。
少女はその時どんなふうに自分に微笑みかけてくれるのだろうか。
その大人びた微笑を柄にもなくちょっとだけ夢想しバルトはマルーの頭を軽く撫でた。
「わかったよ。俺がシグやメイソン卿にマルーの気持ちを伝えておく。マルーはシスターアグネスをちゃんと説得しろよ」
「うん。わかったよ」
少女はほっとしたように微笑んだ。