017:泣いて泣いて泣いて[ラム+シタ+ミドリ]
運命の楔をはずされ、種としての人類は生き残り、未来を紡ぐことを許された。
額がひやりとした。
誰かの手だ。小さく柔らかい。
その小さな手の上にに自分の手を重ねる。熱い額にはひんやりと冷たい。
うっすら目を開けるとぼんやりとした視界に小さな輪郭。子どもだろうか。確認しようと、目を大きく開けてみたものの、その影はもう視界にはない。かといって、首をまわす気力もなかった。
ぱたぱたと小さな音を立てて遠ざかる足音とパタンと閉まるドアの音が耳に残った。
誰なんだろうか。
その後、熱が下がるまでの三日間。朦朧とした意識の中、その小さなけはいが何度か訪れた。
シタンが様子を見に部屋にいるときや、エレメンツの少女たちが看病に付き添っているときは決して来ない。
一人で部屋に横になっている誰もいないほんの短い時間にその小さな影は静かにそこに佇んでいる。
その正体を確認する気ならできただろうが、してはいけないような気がした。
その静かな時間、心が安らいでいた。
――泣いているの?
その小さなけはいが言った。いや、実際には声には出してはいなかったのだろう。ただ、そうラムサスの心に語りかけてきた。
――泣いてなどいないさ。
ラムサスは心の中で答えた。
――だって、痛い、辛い、苦しいって。
――大人は、泣かない。
何を言っているのだろう。
重い腕をなんとか持ち上げそのけはいに向かって手を伸ばす。指が頬にふれたらしい。
濡れていた。
涙?
泣いているのは、この子どものほうではないか。
慌てて目を開けるが、それと同時にドアが閉まる音が部屋に響く。
あれは、誰だったのだろうか。
それとも高熱がつくりだした幻だったのか。
「ミドリ」
呼べば、ミドリが振り返る。少しはにかんだような笑顔を浮かべて。
最近、やっと父親に向かって笑顔を見せるようになった娘にシタンはほっとする。
相変わらず無口な子どもだったが。
「何を見ていたのですか?」
シタンは娘の手のひらにあるものを見た。
「綺麗」
ぽつりと言った。
「ああ、琥珀ですね。前に若くんがくれたんでしたね」
ミドリは頷いた。
「目にあるの」
自分の目を指す。でも、ミドリの瞳の色は琥珀色ではない。
「目にある?」
何を言おうとしているのか、シタンにはまったく理解できない。
「同じ色。綺麗なの。でも、泣けないの」
さらに意味不明なことを言う娘に何て返せばいいかわからない。そうこうしているうちに、ミドリの目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちていった。
「ミドリどうしたのですか? どこか痛くしましたか?」
狼狽えるシタンの背中から、ユイが声をかけた。
「あら、どうしたの?」
「私、何か言ったのでしょうか? 急にミドリが泣き出して」
ユイは、ミドリを抱き上げて、おろおろする夫にくすりと笑って言った。
「あなたのせいではないわ。それと、ミドリが辛かったり痛かったりしたわけではないの」
「では、何故泣くのでしょうか?」
「本当は思いっきり泣きたいのに、泣けない可哀想な人のかわりに泣いているの。それだけだけよ」
シタンはベッドの前に椅子を持ってくると腰をおろし、風邪で臥せっていた友人の額に手のひらを当てた。
「熱はすっかり下がりましたね。でも、体力がもどるまで無理をせずに安静にしていることです」
「面倒かけたな」
「まったく、たかが風邪とはいえ、ここまで長引いたのは体力が落ちていたからですよ。ちゃんとした食事を摂ることです。後で、ユイにおいしい料理をつくらせましょう」
結局、料理上手な妻の自慢、のろけかとラムサスは苦笑する。
「ヒュウガ聞きたいことがある。小さな子供がよくここに来ていたようだが」
「子供? それは、妙ですね。風邪がうつっては大変だからとこの部屋には入らないよう、子どもたちには言い聞かせていたのですが」
「そうか……。心当たりがないのならいい」
ラムサスは顔を上げシタンを見た。
はっとする。
シタンはラムサスの瞳の中にあの色を見つける。
確かにこの色だったのだ。
琥珀色の。
ああ、そうだったのかと、一人納得してシタンはラムサスに言った。
「幸せになってくださいね」
「はあ? おまえ何を突然気持ち悪いこと言っているんだ」
心底嫌そうな顔をするラムサスに黙って微笑んだ。
――そうでないと、ミドリが泣くからですよ。ねえ、カール。