174:自画像[ラカン+エリィ]
「疲れたの? エリィ」
ラカンはパレットを置き絵筆を筆立てに入れ顔を上げる。
教母である彼女をエリィと呼ぶのはラカンだけ。それも二人きりのときだけだった。人は彼女をソフィア様と敬愛を込めて呼ぶ。
「少しだけね。だから、少し休んで一緒にお茶にしましょう」
エリィは立ち上がり部屋を出る。やがて、お茶を満たしたポットを手にしたまだ幼い少女といってもいい年頃の修道女と一緒に戻ってきた。
「失礼いたします。ソフィア様」
カップにお茶を注ぐと少女は恭しく頭をさげる。
少女が部屋を出たのを見計らってエリィはラカンに話しかけた。
「でも、驚いたわ。カレルレンがあなたを肖像画家として推薦してくれた時には。彼はあなたの才能をよく知っていたのね」
エリィはラカンがソファに座るのを待って、カップを持ち上げる。
白い湯気がふわりと立ち上がる。
「絵を描くことくらいしかできないからさ。カレルレンのように強い力もない。いざというときに君を守れるかどうか。ごめんよ頼りない男で」
エリィは首を横にゆっくりと振り、ラカンの手に自分の指を重ねた。
「今のままで十分よ。あなたは優しい。他の誰よりも。だから、なるべくゆっくりと描いていってね。時間をかけて」
「どうしてなの?」
「そうすれば、あなたとずっと一緒にいられる。あなたと一緒の時だけ、私は教母ソフィアではなくただのエリィでいられるもの」
「俺は、ずっと君と一緒さ。自分の部屋に戻っても」
エリィはきょとんとした表情をラカンに向けた。
「何故?」
ラカンはくすりと笑ってお茶をすする。。
「こうして肖像画を描く前、君をたくさんスケッチしただろう? あれ、全部俺の部屋にある。だから俺はいつも君と一緒にいるってことさ」
エリィは目を丸くして、口許に指をあてていた。
「ずるいわ、あなたばかり。私もあなたの肖像画を描くわ……いえ、私には描くことできなのですから、ラカンが描いてね」
「俺が、俺の顔を? 自画像を描けって?」
「そうよ」
「いやだよ。俺は絵になるような顔じゃないし」
「そういう問題ではないわ。不公平だってことが言いたかったの」
ラカンを見つめる真剣な目。できないとは言えなかった。ラカンは目を伏せため息を一つ落とした。
「わかった。君の肖像画を描きあげたらね」
苦笑いをするラカンにエリィは安心したように微笑んだ。
ソフィアを描いた肖像画。それは完成されることの無いまま五百年後のニサン教会に飾られている。
そのことを二人とも知る由もなかった。